第2話『裏路地の追跡者②』

「――くそッ!!」


 貴矩の問いに対する答えは、端的な罵声と、苛烈な行動により示された。


 クリスが右手を伸ばす。薬指に嵌められた指輪、大きな紅玉ルビーが光を放つ。直後、裏路地を埋め尽くす業火が、無防備に立つ貴矩へと殺到した。


「おいおい」


 真紅に染まり行く世界の中、呆れたような声が響く。


「それはさっき見たぞ。同じ手を二度食らってやるつもりはない」


 荒れ狂う炎が貴矩の身を呑む、その寸前。まるで蝋燭の火を吹き消すように、凄まじい火勢を誇った業火は跡形もなく消え去った。


 まるで幻覚であったかのように、後には微かな熱すら残らない。


「っ……!」


 クリスが息を呑む。貴矩に何かをされたのは明白で、されど何をされたかは分からない。彼の眼には、目の前の男がただ棒立ちで喋っていたようにしか見えなかった。隔絶した技量。圧倒的な実力差。


 状況は絶体絶命。思考が空転し立ち尽くすクリスの眼前で、彼にとって絶望の権化たる男は平板な声で、何の気負いもなしに告げる。


「まあ、お前の答えはよく分かった」


 "抵抗すれば殺す"――その言葉に対する答えを、クリスは今、行動で示した。


「容赦はしない」


「ッ、おおおオオ!!!!」


 貴矩が一歩踏み出す。クリスが雄叫びを上げる。


 自らを叱咤する叫びに応えるように、突き出されたままだった右手、その人差し指に嵌められた指輪が輝く。石座シャトンに煌めく石は蒼玉サファイア。溢れる光は澄んだ青。


 刹那、クリスから貴矩へ向けて、裏路地を埋め尽くすように蒼き氷が殺到した。極寒の冷気が吹き荒び、世界が零へと墜落する。


 何もしなければ、一秒とかからず己を呑み込み、永遠の停止へといざなうだろう氷瀑を前にして。その時、貴矩の右腕が霞んだ。


 ――爆ぜる。風が、氷が、爆ぜて砕けて吹き荒れる。


 拳である。拳打である。なんのことはない。迫る氷の津波を前にして、貴矩の選んだ迎撃は単純明快な拳の一撃だった。


 殴り、砕く。ただそれだけ。行動だけを見るならば、炎を放つとか、高熱を発するとか、そんな超常現象とは比べるべくもない人の技。


 だが、巻き起こった結果はそれら超常の技に輪をかけて荒唐無稽。すべてを凍てつかせる莫大な量の氷を、ただ一撃、己の拳のみで粉砕するなど、現実離れの度合いでいえば十二分じゅうにぶんに超常的だ。


「なッ……」


 絶句するクリスの声。今度は彼にも、貴矩が何をしたのかはっきり分かった。


 氷塵ひょうじん舞い散る視界の中で、貴矩が一歩、また一歩と歩みを進める。清浄な空気の中、砕かれた氷の破片がキラキラと煌めく光景はどこか幻想的ですらあった。しかしクリスにとってその景色は、自らの終わりへ向けたカウントダウンに他ならない。


「はっ、はッ……!」


 すでに足を止めているのに、知らず知らずのうちに呼吸が浅く、荒くなる。周囲の気温は冷え切っているはずなのに、じっとりとした嫌な汗が止まらない。


 貴矩死神が、さらに迫る。


「ッ、くそおオオオ!!」


 それでも、クリス逃亡者の心はまだ完璧に折れてはいなかった。


 左手を伸ばす。中指に嵌めた指輪が輝く。石座シャトンに煌めく石は翠玉エメラルド。溢れる光は――。


「終わりだ」


 声は至近。距離にして1メートルもない。気づいた時には、貴矩がそこに居た。


 まさしく刹那の出来事である。当たり前のこととして、クリスは貴矩の姿から視線を切ってなどいない。いくら平静を失っていようと、自らの命を脅かす敵から目を逸らすはずもない。


 にもかかわらず、まるでコマ落ちした映像の様に、接近の瞬間を見逃した。特殊な歩法か、何かの術か、能力か。考える時間などどこにもなかった。


 攻撃も間に合わない。声を出す余裕も、息を呑むすら消え失せた。


 直後、自らの腹部に炸裂するような痛みを感じ、周囲の景色が凄まじい速度で前方へと流れる光景を最後に、クリスの意識は闇に閉ざされた。

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『双天』 淡墨 征十郎 @kotodama168

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