『双天』
淡墨 征十郎
プロローグ『裏路地の追跡劇』
第1話『裏路地の追跡者①』
「――はっ! はァッ! はッ!!」
人気のない裏路地に、荒い息遣いが響く。音の主は、スーツ姿の男。
磨き上げられた革靴に、仕立ての良いスーツ。軽薄な笑みが似合いそうな相貌と、手指を彩る複数の指輪がいささか浮薄な印象を与えるものの、余裕のある立ち振る舞いを見せれば、それだけで有能そうな印象を他者に抱かせることができるタイプの人間だ。
だが、今の彼は余裕という言葉とまさしく対極にあった。
革靴が汚れるのも、スーツに皺が寄るのも、一切気にすることなく。正確には、気にする余力すらなく。狭い裏路地を走り抜けることだけに、ただ全力を傾けている。
整った顔立ちに苦しげな表情を浮かべ、汗を垂らし、元は整えられていたのであろうブラウンの髪を乱しながらも、なお足を緩めないのには理由があった。
彼の荒い息遣いの他に、裏路地に響く音は三つ。
一つは、全力疾走する彼の革靴が地面を蹴る音。
一つは、そんな彼の後方から聞こえてくる、同じく革靴が地面を蹴るような音。
そして最後のもう一つは。
「――おーい! いくら逃げても無駄なんだから、いい加減諦めてくれるとありがたいんだが!!」
後方から投げかけられる、男の声である。
つまるところ、彼は追われているのだ。息を荒げて全力疾走を続ける男は、後方の追跡者を振り切ろうと躍起になっていた。
数十メートル後方から追ってくる追跡者もまた、革靴を履き、スーツに身を包んだ身なりの良い男である。その姿は、二十代後半の逃走者よりもさらに若く、十代後半のように見えた。
逃げる者と追われる者。どちらが優位に立っているかは、誰が見ても明らかだ。
「そろそろ止まって欲しいんだがなー!」
逃げる男は息を荒げ、必死になって走っているというのに、追う男は離されることなくそれに追従し、大きな声を張り上げる余力すらある。さらに声には、切羽詰まっているような印象はまるでない。
それこそ、いくらでも追い続けることができるとでも言うように。
「はッ、はァっ! くそッ!!」
と、乱れた呼吸の合間に罵声を上げた男が、突如として逃げるのをやめて振り返った。
逃げることを諦めたのか――否。
「これならどうだッ!!」
言下に、男は追跡者へ向けて右手をまっすぐ伸ばした。彼の薬指に嵌った金の指輪、その
次の瞬間、狭い裏路地の景色が真っ赤に染まった。赤色の正体は炎。まるで火炎放射器のように放たれた灼熱の炎が追跡者の男を吞み込んで、裏路地を灼熱地獄へと変貌させた。
尋常ならざる光景。非現実に過ぎる超常現象。
だが、それを成した男の態度に大きな変化はない。彼は炎に呑まれた追跡者がどうなったかを確認することもなく、すぐさま踵を返すと再び全力で走り始めた。その表情に、未だ余裕は微塵もない。
普通であれば、あのような炎に吞み込まれた人間が生きていられるはずはなく、もはや逃走する必要はないはずだ。現場から立ち去るにしても、余裕をなくしたまま全力疾走することはない。
だというのに、男が未だ全力での逃走をやめない理由はただ一つ。先の攻撃では時間稼ぎ程度にしかならないと、追跡者からここまで逃げ続けた彼自身が何より理解していたから。
しかし、その理解は間違っていた。
「――流石は
あまりにも甘い理解。時間稼ぎにもなっていない。全力での逃走を再開してから十秒足らず。彼の前方に、傷一つない追跡者の男が立っている。
「馬鹿、な。どうやって」
どうやって先ほどの炎を切り抜けたのか、ではなく、どうやって先回りしたのか。
彼は追跡者に炎の攻撃を放った
そんな疑問を正確に読み取って、追跡者はこともなげに答えを明かす。
「言っただろう? いくら逃げても無駄だって。お前は既に俺の術中に在る。あまりにも裏路地が長すぎるとは思わなかったのか?」
彼らの走る速度は、自動車を容易く置き去りにするような領域に達していた。にもかかわらず、この裏路地での逃走劇は、優に一分以上経過している。その間一度の曲がり角もなく、代り映えのない一本道の景色がずっと続いていた。
追跡者の男が言うところの術中。無限にループする裏路地という空間に、逃走する男はいつの間にか呑まれていた。自らの術中ならば、わざわざ足で追わずとも先回りは可能ということだ。
「あまりに必死に逃げるから少しは付き合ってやったが、そろそろ終いにしよう」
そう言って、追跡者の男はスーツの懐から一枚の紙を取り出した。華美に走りすぎない程度の絶妙な金銀箔で彩られた、芸術品の如き高級紙。三つに折りたたまれていたそれを開き、逃げていた男に
最上部に描かれているのは天秤の紋章。その下に、流麗な筆記体で何やら文章が記され、下部にはいくつかのサインと印が押されていた。
「対象――指定二級手配者、魔術結社【白の
紙を再び折りたたんで懐に収めながら、追跡者の男――
「大人しく捕まれば殺しはしない。無駄な労力も使わなくて済むから助かる」
なんの気負いもなく。まるで、友人に昼食のメニューを訪ねるような気安さで。
「ただ、抵抗すれば殺す」
問う。
「さて、どっちを選ぶ?」
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