第2話 ゲートを越えて②
ゲートを通過した風太の前方一面には、壁が広がっている。こうして近づいてみると、その威容がありありと伝わってくる。いったいどうやってこんなものを造ったのか……。その迫力に圧倒されてしまう。
壁の向こう側へ行くには、軍の検問所とは別に、もう一つのゲートを越えなければならない。それはちょうど壁と壁のあいだに備え付けられた、大きな跳ね上げ式の石門だった。単なる通行者の確認のためのゲートとは異なり、侵入者の行く手を物理的に阻む、防衛のための門だ。
「すみませーん!」
壁に向かって呼びかける。高所、門の脇に空いた空洞……あそこに何者かが座っているのが見える。ここの門番に違いないのだが、返事がない。
「すーみーまーせーん!」
返事は……やはりなかった。彼の叫び声は、虚しくも巨大な石壁に吸い込まれていく。
恐らくだが、あそこにいる門番は……居眠りをしている。それもグッスリと。いったいなんのための見張りなんだと言いたくなるが、それも無理からぬことか。
なにせ、この門と壁だ。人間がどう頑張ったところで、おいそれと中に入ることはできない。それこそ、爆弾で吹き飛ばすか、上から飛び越えでもしない限り。
それにあちらでは、軍隊が目を光らせている。二重の防衛網は、まさに鉄壁。だから安全……というのは分かる。しかし、他意なくここを通りたい者の意思はどうなるのか。開かない門はただのオブジェである。
「というか、このままじゃ遅刻しちゃうよーーー!」
頭を抱えて叫んだ。あんなところにいられたのでは、起こすこともできない。引き返して軍に知らせても、門の管轄を行っているのは異人だから、彼らにはどうすることもできないだろう。
ここは諦めるか。まさか出入口がこの場所にしかない、ということはあるまい。壁沿いに回って、別の門を抜けることにしよう。そう考えたところで、上方からひどいしゃがれ声が降ってくる。
「うるせえなぁぁ……」
「え……う、うわっ!」
同時になにかが落ちてくるのを、すんでのところで回避する。ガチャン、と鋭い音が響いた。地面に飛び散った破片が、キラキラと光っている……これはガラスだろうか。
「危ないじゃないですか!」
これにはさしもの風太も、怒りを覚えた。こんなものがあの高さから直撃していたら、怪我では済まなかっただろう。
「まだ物資搬入の日じゃねぇだろ……ってか、誰だよおめぇは?」
男がひょっこりと顔を覗かせ、こちらを見下ろしてくる。風太はすぐに、それが人間ではないことに気が付いた。
もみあげまでを覆う深いヒゲに、大きな赤っ鼻。角の装飾が着いた兜をかぶった彼の容貌は、ヴァイキングを想起させる。紛れもない異人だった。
「ここを通りたいんですけど!」
「あぁ、そういうことか。今、開けてやるから待ってろ!」
こちらに敵意があるのかと思ったら、意外と物分かりがよくて拍子抜けしてしまう。というか、ボディチェックもせずに通してしまってよいのだろうか……。見張りを立てる意味がないような。
そこで彼は見てしまった。よっこらせ、と立ち上がった男がふらつき、前へ倒れ込む瞬間を。あの空洞に柵はない。このままでは……。
「危ないっ!」
咄嗟にそう叫んだものの、身体は凍り付いたように動かなかった。そして男はそのまま、十メートルはあろうかという高さから、真っ逆さまに転落していく。
風太はぎゅっと目を瞑った。直後、ドスン、という鈍い音がする。彼は悲鳴をかみ殺して、ぶるぶると震えた。大変なことになってしまった。早く通報しないと……いや、戻って軍人たちを呼んできたほうが良いだろうか。どちらにせよ、目の前の惨事を想像すると、恐ろしくて目も開けない。とうとう腰まで抜けてしまって、その場にぺたん、と座り込んだ。
「いっっっっってぇ~……」
「ギャーーーーーッ!」
過去一番の金切り声が出た。風太はこの見た目にして、声変わりも中途半端に止まってしまったのか、妙に声が高いのだ。
「クソ、ヘマしたな……あ~、すっかり目ぇ覚めたわ」
男はぶつぶつと呟きながら、かぶりを振って立ち上がった。風太にしてみれば、あたかも死者が一瞬で蘇ったようにも見える。
「おい、お前」
「ははははははい!」
「こっちに来い」
「喜んで~!」
動揺のあまり、居酒屋の店員のような返事をしてしまいつつ、男の傍らまで駆け寄った。そこで異変を感知した。……なにか臭う。その正体は、それをほとんど嗜まない彼でもすぐに分かった。アルコールだ。
「う……」
なんといえばよいのか、アルコールだけではなく、かぐわしくむさ苦しい……オヤジ臭も凄い。風太ぐらいの歳の子を持つ父親ならば、大抵はこんな臭いになるものだが、それに輪をかけて臭い。ワキガと加齢臭を濃縮還元して、ゴミ袋に詰め込んだような……。つまるところ、とてもクサかった。
「ヴォエ!」
たまらずえずく。たまらん、これはたまらん。鼻と喉が痙攣して、臭気を取り込むことを拒否している。もはや公害レベルだ。
「おい、ここを通るんじゃなかったのか?」
「う、あ、はい!」
無意識に遠巻きになってしまっていた風太を呼び戻すと、男は門の前に立った。
「こいつを持ち上げてやるから、その隙に転がり込め。いいな!」
「分かりまし……え、持ち上げる?」
男は腰を入れ、力士が四股を踏むような姿勢を作る。そして門の接地面に手をかけると、深呼吸を繰り返してタイミングを見計らい……猛獣のような唸り声を上げる。
なにがなんだか訳が分からない。不死身の激臭男が、こんな巨大な石門を素手で持ち上げると。そんな馬鹿な……。そう思ったときには、既に門は不自然な音を立て始めていた。ミシミシ、パキパキと……そしてゆっくりと、門が動いていく。
本当に、この男が一人で……。現実離れした光景に、開いた口が塞がらない。これが異人なのか。このとき彼は、異人が異人たるゆえんを、痛烈に思い知った。
「グ……ガ……アアアアアァッ!!!」
そうして胸の高さまで持ち上げると、ウエイトリフティングのように、一息に頭上まで引き上げてしまう。砂や小石がザラザラと降り注ぐ中、男は叫んだ。
「おいっ!!! 早くしろっ!!!」
「……っ!」
男の鬼気迫る呼びかけに駆り立てられるように、自然と足が動いていた。ちょうど身長スレスレの隙間を抜けると同時に、ビジネスバッグを抱きしめながら身を縮めてダイブする。
「よしっ!!!」
風太が通り抜けたのを確認すると、男も内側へ飛び込むようにして手を離した。瞬く間に門はその口を閉じ、土埃を巻き上げて、ゴゥン……と重たく地鳴りが響く。風太は地面に身を投げ出したまま、呆然とその光景を見つめていた。
「ふぃ~。んじゃ、気ぃつけろよ」
男はそれだけ言うと、壁に立てかけられたハシゴを昇って、元いた場所まで戻っていく。
「あぁ、あと……酒ビン投げて、悪かったな!」
ひょっこりと顔を出して、思い出したように謝罪の弁を口にすると、それっきり男が姿を現すことはなかった。
すっかり力が抜けてしまった風太は、壁よりも高い空を見上げていた。まるで世紀のマジックショーの演技と、その仕掛けを一挙に見てしまったような、フワフワとした心地だった。
「は、はは……」
早々に異人特区の洗礼を受けた風太は、乾いた笑いを漏らして立ち上がった。地べたに向かって飛び込んだせいで、全身が砂まみれだ。身体をはたきながら、よろよろとビルへ向かって歩き始める。転がり込め、というのを言葉通りに受け取ってそうしたのだが、あんなふうにダイブする必要は全くなかったのかもしれない。
「はあ~……。このスーツ、クリーニングに出したほうがいいよね……」
こんな汚れた服装で出社したら、なにか言われるだろうが……後の祭りだし、遅刻するよりはマシか。それにあの男も、ああまでして自分を通そうとしてくれたのだから、文句を付けるのは筋違いだろう。
……巨大な石門を、腕力だけで持ち上げてしまうほどの怪力を持つ、異人。見た目はヒト型だし、言葉も通じるが、人間離れした能力をも持ち合わせている。果たして自分は、彼らとどこまで通じ合うことができるのか。そしてなぜ、こんな壁の内側に閉じこもって生活をしているのか。その答えが、あのビルに用意されているのだとしたら……。
「う~、よしっ!」
二つのゲートを越えた彼を阻むものは、もうない。あとは飛び込むだけだ……未知の世界へと。ビルへまっすぐに伸びる道を、進む、進む。
近づいていくごとに増していく、ビルの存在感。ざっと見て、十五階建てぐらいだろうか。高さだけでいうと、決して規格外というわけではない。しかし壁に囲まれただだっ広い敷地内に、ポツンと一棟だけ鎮座しているその光景は異様だ。
……というのは、あくまで外側から見た場合の話。実際に入り込んでみると、こちら側には整えられた植木や噴水、駐車場のスペースが確保してあるし、あちら側にはビルよりも小さいが、マンションらしき建造物も見える。ちらほらと、異人たちが外で活動している姿も確認できた。
ここはビルを中心とした、一つの街なのだ。人間がそうするように、彼らもまた計画的に都市づくりを行っている。そう考えると、この閉ざされた環境でさえ、すんなりと受け入れることができた。
「おはようございます」
「……」
道すがら、植木の剪定をしていた異人に挨拶をするも、一瞥をくれるだけで返事はなし。てっきり珍しがって話しかけられると思っていたが……あまり歓迎されていないのだろうか。
若干凹みつつも、とうとうビルの入り口前……放射状に石畳が敷かれ、中心に変なカタチをした像が、周縁にベンチが設置されているところへたどり着くと、一旦立ち止まって拳を握りしめる。
いよいよだ。いよいよ……社会人生活の幕が上がる。ここまで色々な苦労を重ねてきた。就職活動は、内定もロクに取れない厳しいものだったが、妹の励ましによってなんとか継続することができ、結果的にはこの会社だけが、自分を採用してくれた。両者ともに感謝してもしきれない。
異人たちとの交流は不安だけれど、これから頑張ろう。まずは元気いっぱいに挨拶をして、コミュニケーションのきっかけを掴むんだ。そう決意を新たにして、彼は両開きの正面玄関を、くぐり抜けていく……。
「おはようございます、本日からお世話になる新井風太です! 至らない点もあるかと思いますが、よろしくお願いします!」
裏返り気味の声で、頭を下げながらそう叫んだ。見なくても分かる、こちらに複数の視線が集まっていることが。いたずらに注目を浴びるのは、好きではない。だがまずは、とにかく顔と名前を覚えてもらわなければ。
そして顔を上げると。
「……あれ?」
当たり前だが、このような企業ビルの一階は、だいたいエントランスになっている。正面に受付スペースが、側方に談話用のソファとテーブルがあって、なんなら雑誌やウォーターサーバーまで置いてある。そんな静かで、広々とした場所でバカでかい声を出すものだから、まあ響くこと。そしてその反響さえもフェードアウトしてしまうと、後に残ったのは異人たちの突き刺すような視線と、シン……とした静寂のみ。
そのとき、風太は心臓が止まっていたのかもしれなかった。それぐらい静かだった。彼は赤っ恥をかいたが、その実、顔は真っ青だった。
「おはようございます、新井さん。お待ちしておりました。ご案内を致しますので、どうぞこちらへ」
「ハイィィィ!」
政治家も青ざめるほどの静けさを打ち破るがごとく、受付の女性に名前を呼ばれた瞬間、それはもう食い気味にダッシュして向かった。葬式でエッチな動画を大音量で垂れ流してしまったときぐらいの空気感だった、今のは。
「新井さんの配属は、広報部となっております。エレベーターで六階へ上がって、すぐ左前の部屋にお入りください」
「あ、ドモ……」
「本社ではセキュリティ上の都合により、全フロアへの入室において、カードキーが必要となります。新井さんのカードキーの権限は現在、一部制限されておりますので、立ち入ることができないエリアがございます。詳しくは担当の者にお尋ねくださいませ」
「ドモ、ドモ……」
彼女の流暢な説明を話半分に聞きながら、汗をかきかき、頭をぺこぺこ。これでは初々しい新米社員どころか、うだつの上がらない窓際族だ。背中に刺さり続けるイヤな視線に耐えるので精いっぱいの彼は、挙動不審にドモドモ君と化していた。
「それから私、受付を務めておりますミーナと申します。新井さん、これからどうぞよろしくお願いしますね」
「ドモドモ……ドモ?」
「あちらのどのエレベーターからでも行けますよ」
「ドーモ!」
受付嬢はいわば会社の顔、来客応対のプロフェッショナルである。そんな彼女は、まっとうな言葉を失った風太からでさえ、非言語要素を汲み取って、その意思を正確に読み当てる離れ業を演じてみせる。これには彼も感謝感激だ。
そこでちょうど、端のエレベーターがチン、と軽快な音を立てた。しめたとばかりに、そこへ一直線に駆けてゆく。これ以上この空間にいては、精神的に病んでしまう……三十六計逃げるに如かずだ。
「むぐごっ」
エレベーターに乗り込もうとしたところで、なにか柔らかいものにぶつかって、反動で尻もちをついてしまう。なにかというか、何者かだ。ボタンを押さずにエレベーターが降りてきたのなら、そこに誰かが乗っているのは当然である。
「ドーモ」
鼻のてっぺんと、唇の裏側がじんじんと痛む。顔をモロにぶつけてしまったようだ。俯き涙目になりながら、形の上での謝罪……本来であれば、後ろに「すみません」が付くはずの定型文を発する。
「おぬし……なにをした」
女性の声がした。顔を上げると……目の前にいたのは、背丈が自分とそう変わらないであろう、白衣を着た女の子だった。小学生……だろうか。人間より遥かに大きく、長く尖った耳が、ときおり痙攣するようにピク、ピクと動いている。小柄な体躯も相まって、非常に目立つ外見的特徴だ。
「ワシになにをしたと、そう訊いておる」
女性の低い声というのは、本能的に男性を畏怖させる力がある。ぞく、と背筋を這い上がるものを感じたときにはもう、身体が勝手に土下座をしていた。
「ドーモ!」
「唇ゴチでした、ありがとうございます……じゃと?」
「ドモ!?」
ようやく事態が飲み込めてくる。どうやら自分と彼女の身長が同じぐらいなのが災いして、お互いの顔面同士がぶつかり、はずみで熱いベーゼを交わしてしまったと、そういうことらしい。
「ふざけとるのか」
「ドモドモドモドモ」
手を振り首を振り、必死で真剣に謝っていることを伝えるが、その表情はどんどん険しくなっていく。
「……ふざけとるよな?」
「ドモドモドモドモドモドモドモドモ」
「そうか、そうか」
彼女がそう呟いた刹那、彼の身体は空中に浮かんでいた。己が身になにが起きたのか理解できず、正座姿のまま当惑する。そして間髪を入れずに突風が吹くと、彼は受け身も取れないまま壁に叩きつけられた。
「ドぐへぁっっっ!?」
潰れたカエルのような悲鳴をあげ、びたーん、と張り付き、ずずず……と落ちていく。エントランスは騒然と……はしていなかった。むしろみな、この見世物を面白がっている。
「そこで小一時間くたばっておれ」
懲らしめたいのか殺したいのか分からない、物騒な捨て台詞を残して、女の子はそのままビルを出ていった。彼としては、小一時間もくたばっているわけにはいかない……タイムカードを押すまでは、決して。
「ウフフ……」
事件の目撃者の一人、ミーナは、くたばっている風太を嬉しそうに抱き起こすと、彼の向かうべき場所へと半ば強引に肩を貸してやるのだった。
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