新紙幣

増田朋美

新紙幣

その日も暑い日であった。ついに静岡市では、40度を超えてしまったという。真偽は不明だが、そういうことなんだろう。いずれにしても、大変に暑い季節がやってきてしまったと言える。こんな暑い日は、何をしようかも迷ってしまうが、中には生きていくだけで精一杯という人もいるだろう。昔はこういう異常な気候のせいで、天保の大飢饉のような災害が発生してしまうのだろうが、それが起こらないだけ、マシなのかもしれない。

その日、蘭は先程まで、女性の背中に龍を彫っていたが、暑い中なので、休み休みという感じだった。でも、予定通り、2時間施術を行って、設置してある砂時計の砂が、すべて下の方に行ったことを確認して、

「はい、今日の施術はここまでですね。それでは、一時間一万円で、二時間突いたから、二万円になります。」

と、最後の針を抜きながら、にこやかにお客さんに笑いかけたのであった。

「はい。ありがとうございます。彫たつ先生。こちらが、お約束どおりの二万円。もう、新券になったから、お札のお顔も変わってますね。何か前のほうが、一万円札って感じで格好良かったのに。何で、最近のお札は、頼りない感じの人ばかり、出されるんですかね。」

と、お客さんは、蘭に二万円を渡した。蘭はそれを受け取って、彼女に領収書を渡した。確かに、新しい一万円札は、ちょっと頼りない感じだなという気がした。

「じゃあ、次の施術はいつやりますか?これから夏になりますし、涼しくなってからでも結構ですよ。」

「いえ、先生がいった通り、2週間後にしてください。早く完成させたいんです。だってそうすればやっと父から叩かれた跡とさようならできるんですよ。こんな嬉しいことって無いじゃありませんか。」

蘭がそう言うと女性は言った。

「そうですか。わかりました。じゃあ、2週間後の、きょうと同じ水曜日でよろしいですか?それとも他の曜日のほうが良いですか?」

「ハイ、水曜日で構いません。特に用事もありませんので。お時間は、今日と同じで大丈夫です。」

ずいぶん積極的な女性だと蘭は思った。それほど、父に殴られた痣を消したいという気持ちが強いのだろう。もちろん、入れ墨をすればそういうことも可能になる。美容整形はお金がかかるので蘭のところにやってきて、施術を頼む女性は多いのであるが、でもそれだけでは、解決しないだろうなと思われる重い事情を抱えた女性たちが非常に多いことを蘭は心配していた。

「わかりました。じゃあ、2週間後の水曜日。必ず来てくださいね。よろしくお願いします。」

「こちらこそわかりました。じゃあ、先生、またよろしくお願いします。」

女性は蘭に頭を下げて、玄関から出ていこうとした。それと同時に、玄関のドアが、ギイっと開いて、誰か来客が来たことがわかった。誰か宅急便でも来たのかなと思ったところ、

「あら、今日はお客さんと一緒なのね。いつもうちのバカ息子の相手をしてくださってありがとうございます。」

と入ってきたのは、蘭の母である伊能晴だった。

「お、お母さん。」

蘭はびっくりしてそう言うが、

「ああ先生のお母様ですか。こんなきれいなお母さんがいたんですね。先生は。」

とお客の女性が言った。もちろん、社長という職業上若作りをしなければならないことを蘭は知っているが、時々晴が、大変な美人であることに、難色を示したくなるときがある。

「ええ。きれいであるというのは大げさだけど、うちの息子と、仲良くしてやってください。」

晴がそう言うと、女性はわかりました、ありがとうございますと言って、急いで帰っていった。

「どうしてこんな間が悪いときに来るんだ。お客さんが、僕を信用しないかもしれないじゃないか。」

蘭は、実の息子らしく母にそういうのであるが、母である伊能晴は、そんなことも全く気にしないようであった。

「何言ってるの。あたしは若いときから容姿は変わってないわよ。それより、ちょっと上がらせてよ。今、公証役場に言って来たところなんだから。」

晴は勝手に蘭の家に入って、どんどん食堂の椅子に座ってしまうのであった。

「それよりアリスさんは?家の掃除もほとんどしてないようだけど?」

「ああ、アリスは、妊婦さんのお手伝いで出かけてるよ。最近は帝王切開で赤ちゃんを出産する妊婦さんが多くて、直接お産を介助することは少なくなってるみたいだけど、手術中にそばにいてほしいと言う妊婦さんが続出しているので、それでお手伝いさ。」

蘭がそう言うと晴は変な顔をする。

「そうなの?変な女性が多いわね。あたしたちの頃は、赤ちゃんなんて自力でも産めたんだけどなあ。そんな側につきっきりでいるなんて、聞いたこと無いわ。ねえ蘭。本当にそういうことをしているのかしら。外国人ってこともあり、気をつけなさいよ。もしかしたら、うちの財産を狙ってきてるのかもしれないわよ。」

「そんなことはないよ。アリスはそういう女性ではない。それは見てればわかる。お母さんもいつまで経っても、そういう考えをしないでくれ。」

蘭はそう否定したが、晴はまだ信用できない顔であった。

「それより、何でお母さんが公証役場に行ってきたんだ?誰かに、相談することがあったのか?」

蘭がすぐにそう言うと、

「ええ。私ももう年だし、ちょっとうちの財産を整理したほうが良いかなと思ってそれを相談に行ったのよ。まあ、あんたも歩けないから、製紙会社を継げるとは毛頭思えないし、会社は沼袋や他の人に譲るとして、でもあんただって息子なんだから、うちの財産をついでくれないと困るわよ。いつまでも、訳アリの女性に入れ墨をする仕事では、やっていけないでしょ。それなら、ちゃんと相続に参加してくれるわよね?」

いきなり晴は、金持ちらしいセリフを言った。

「いや。お母さんの財産は、いくら憲法で決められていても、相続はしないって、もう言ったじゃないか。僕もアリスもそのつもりだから、相続放棄ということにしてくれ。」

蘭はそういったのであるが、晴の性格は強引だ。蘭の意見もほとんど聞かずに勝手に決めてしまうことが多い。

「何馬鹿なこと言ってるの。あんたは私の財産がなければやってけないのよ。あんたはまず初めに歩けないし、それに結婚したと言っても、子供もいないし。あの女だって、信憑性が持てるかどうか疑わしいわ。だったらあんたも参加しなさい。ちゃんと、沼袋と、他の従業員の分は用意しておくから。そのときはちゃんと息子として、遺産相続に参加してちょうだいね、わかった?」

「本当は、僕じゃなくて、沼袋さんや、他の従業員に出せばいいじゃないか。そんなお金なんか貰ってもしょうがないよ。僕らは、お母さんの手を借りずに、僕は刺青師として、アリスは助産師としてちゃんとやるから。お母さんのお金に頼るなんて、そんなことしたくないんだ。」

「まあ、変な子ね。お金はいくらあっても困ることは無いし、好きなものは買えるし、商売の元手にだってなるわよ。それをいらないなんて。なにか理由があるんだったら、言ってご覧なさい。」

晴に言われて蘭は、大きなため息をついて、

「だから、うちにくるお客は、みんなすごい過去を持っている女性ばかりだ。親に虐待されたとか、捨てられたとか、そういう過去があって、一番信頼できる人を頼れないで、観音様を彫ってと言ってくる人ばかりなんだよ。そういう人に施術している僕が、親の財産で暮らしているとなれば、お客さんたちの不信感は一気に高まるでしょう。だから受け取りたくないの。お母さんの財産は確かにお母さんが製紙会社を運営して発生したものだと思うけど、僕はそれに頼って生活するというのはしたくない。だから、僕もアリスも、相続放棄ということで、もう相続人リストから外してくれ。よろしくね。」

と言ったのであった。

「あんたも頑固で困るわね。」

と晴は蘭に向かって大きなため息を付く。

「そういうところ、お父さんそっくり。あたしはできるだけお父さんには似ない様に育てたつもりだったんだけど、何でそう思えば思うほど、そっくりになっていくんだろう。」

「でも僕としてはお父さんは、人のためにいろんなところに走り回って、すごい偉いと思ってたけど?」

蘭はおとなになってから言えるセリフを母に言ったのであるが、

「何言ってるの。お父さんは、いつも他人の子どものことばっかり考えてて、蘭のことや、あたしのことはこれっぽっちも考えてくれてなかったわよ。だからあたしは男なんて信用できないと思って、それで再婚もしないで、製紙会社をやってたんだから。そういう姿勢が果たしてかっこいいって言えますかね。蘭は覚えてない?誕生日のパーティーを開催した日。お母さんはケーキまで焼いてとても楽しみにしてたのに、お父さんは、仕事だからと言って、家を出てってしまったわ。弁護士はあんただけじゃないっていくら言ってもお父さんはだめだった。蘭は、それをかっこいいって憧れの目で見てたのが、あたしは憎らしくてたまらなかったわ。」

と、グチグチと晴は言うのであった。

「まあ僕は男だからね。仕事でいつも不在だったけど、人のために一生懸命やっていたお父さんのことをカッコ良いと本当に思ってたよ。」

蘭は大きなため息をついて晴に言った。なんだか知らないけど、男と女というのは、こういうふうに、変わってしまうようなのだ。それはもうしょうがないというか、男性と女性の違いであると思う。

「まあ、お父さんのことはもうこっちにはいないんだから、それで良いとして、とにかくね、蘭。あんたも財産相続にはちゃんと参加してもらうように公証人の方にもお願いしましたからね。そのうちあんたのところにも来ると思うけど、断らないでちゃんと話を聞きなさいよ。さて、仕事があるんで、ひとまず帰るわ。」

と晴は椅子から立ち上がって、荷物を持って出ていってしまった。蘭は一緒に住もうと言われなかったのは良かったと思ったが、母がこうやっておせっかいを焼いてくることに、非常に困ってしまったのであった。もちろん息子というのは親の言う通りにしなければならないものであるが、全く、こういうことでも、言う通りにしなければならないなんて、本当に不自由だなと思ったのであった。

蘭が、彫った道具を片付けに、仕事場に戻ろうとすると、インターフォンが五回なった。この五回連続で鳴らすのは、杉ちゃんだなとすぐわかった蘭は、すぐに玄関先に行った。

「おーい蘭。買い物行こうよ。もう、施術はとっくに終わっている時間だろ?」

でかい声が聞こえできて、杉ちゃんが蘭の家に入ってきた。

「もう勝手に人の家の玄関開けないでくれ。いい迷惑だよ。」

と蘭は言うのだが、

「ああ、汗いっぱいかいちゃった。行く前に、タオルでも貸してくれよ。どっかで40度行ったみたいだぞ。静岡の安全神話は崩れ去ったね。どこへ行っても日本は暑いところになったなあ、ははは。」

と、杉ちゃんがいうので蘭は渋々、杉ちゃんにタオルを1本貸した。杉ちゃんはそれで顔を拭いた。

「それで杉ちゃん。今までどこに行ってたんだよ。まあ時間通りに現れてくれるのは良いけど、そんなに汗かいてるってことは、遠くへ移動してきたのか?」

汗を吹いている杉ちゃんを見て、蘭は思わず言ってしまった。

「製鉄所。水穂さんがご飯を食べないで、げっそりやせ細ってしまっているので、食欲を増進させるツボを教えてもらうために、涼さんに来てもらった。」

と杉ちゃんは答える。

「そうなのか?そんなに悪いのかあいつ。」

蘭は、そう聞いてしまう。

「そうだよ。まあ、お前さんも知ってると思うけど、水穂さんは同和地区から来たということで、まともな医療を受けられないから、涼さんみたいなあんまさんとか、柳沢先生みたいな、漢方医にみてもらうしか無いんだよな。」

杉ちゃんに言われて蘭は幻滅した。

「それで、病院にはちゃんと行かせてないってことか。」

「ああ、行けないじゃないか。だってどこの病院行ったって、お断りされて、門前払いになるのが落ちだぜ。」

杉ちゃんは顔の汗を拭きながら言った。

「そうだけど、製鉄所には、波布もいるし、青柳先生もいるはずだから、それでなんとかなるはずではないのか?」

蘭がまた聞くと、

「うーんそうだねえ。だけど、その二人だって、水穂さんの抱えている同和問題のことはよくわかってるでしょ。いいか、水穂さんを病院に連れて行こうとしても、彼は病院断られて、結局医療を受けられないで逝っちまうよ。そうなってほしくないから、製鉄所にいさせてもらってるんだろ。それを知らないでさ、いろんな病院渡り歩かせても、本人が辛いだけだよ。もし、どうしても医療を受けたいんだったら、海外の病院につれていくしか無いんだぜ。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「お金でなんとかなろうという話でも無いんだよね。お金があったって、同和問題を解決させることはできないだろうが。それなら、あきらめたほうがいい。そういうこともあるんだ。」

「そうかも知れないけど、病院だって金を払えば、ちゃんと治療はしてくれると思うけど、、、。だってこのまま放っておいたら、あいつはどんどん進行して、、、。」

蘭がそう言うと杉ちゃんはさらりと言った。

「まあ無理なものは無理だと思って諦めるんだね。誰か有能な人がいて、海外の、同和問題がない国家の病院につれていくことができるというだったら話は別だが、そんなうまい話なんて無いからね。」

蘭は、自分の無力さというか、そういうことを思ってしまった。今さきほど、母に相続放棄の話をしたばかりだ。もしそういうことを取り消して、規定通り相続していたら、水穂さんに、お金で謝罪することができるかもしれない。いずれにしても、水穂さんの人生を狂わせたのは自分だというしこりが今でも消えていかない。水穂さんが、自分のことをいじめていたと言う事実はまったくなく、それは担任教師の秋山先生が、仕組んでしまったことだったのに。それなのに母ときたら、水穂さんの実家に多額の慰謝料を支払わせ、水穂さんの両親が夜逃げをしていった原因を作ってしまった。だから母の財産は、水穂さんが払った慰謝料の成分でもできている。それを自分が相続してしまうのは、本当に悪いことをしているような気がする。

「さあ、買い物行こう。お前さんがいくら心配してもだめなことなんていくらでもあるよ。それより、僕らは日常生活をしていかなくちゃね。それよりも。」

と、杉ちゃんに言われて蘭は、そうするしか無いと感じ取って、仕方なく介護タクシーを予約して、買い物に行くことにした。杉ちゃんも蘭も足が不自由だ。だから、車に乗るのだって、人手を必要とする。それは、どうしても変えられない事実であることは確かでもある。でも、それと水穂さんが同和地区の出身で医療を受けられないことは同じことであると言われたら、蘭はなにか違うような気がしてしまうのである。

二人は、介護タクシーに揺れられてスーパーマーケットに行った。運転手におろしてもらって、二人はスーパーマーケットに入った。本来であれば運転手についてきてもらって買い物を手伝ってもらうこともできるのであるが、杉ちゃんも蘭もそれは断ることにしている。とりあえず、車椅子用のトレーを持って、食料をどんどん膝の上にあるかごの中に入れていくのだった。

「おい!お前さんちょっと。」

いきなり杉ちゃんが近くにいた人に言った。

「悪いけど店の一番上にあるオリーブオイルを取ってくれないかな?」

声をかけられた人は、何だと思ったのか走って逃げてしまった。杉ちゃんは仕方なく二人目の女性に同じことを頼んだのであるが、それは店員に頼めと言われてまた逃げられてしまった。仕方ないから杉ちゃんは、そこを通りかかった、80を過ぎたおじいさんに、オリーブオイルを取ってくれるかと頼んだところ、

「はいわかりましたよ。ちょっとまっててね。」

おじいさんはオリーブオイルを取ってくれた。杉ちゃんはどうもありがとうと言って、嬉しそうにそれを受け取った。おじいさんは、お気をつけて帰ってねと言って、二人の前を離れたが、蘭は、なんだか複雑な気持ちだった。自分たちは、そうやって誰かに頼まないと、オリーブオイルを手に入れられないのである。だけど、水穂さんは、そういうことを頼むことさえできないのだと思うと、蘭は本当に辛かった。自分のしでかしてしまったことのせいで、水穂さんは寝たきりのままなのだ。もし、母の財産を相続することができるのであったら、母が水穂さんからぶんどった慰謝料を、そのまま彼に返してやりたいと思うのだが、それは、無理な話になってしまった。

杉ちゃんと、蘭は、そのままレジに向かって、お金を支払った。店員さんに支払った一万円札の主人公が、なんだか虚しく感じられた瞬間だった。確かに、金はいくらあっても困ることはない。好きなものは買えるというのは、母が言ったとおりなのであるが、その通りに素直にお金を喜べるかなと言ったら、蘭はそれはできないのだった。お金のせいで、水穂さんのように、一家が壊滅してしまったことだってあるんだから。水穂さんは、今頃、病院にもつれていかれることはなく、ただ寝かされているだけの状態であり、理解のある医療関係者でないとみてもらえないというのが現実なのだ。お金なんて、現実を変える道具にはならないじゃないか。蘭は、レジ係が、新しい紙幣を取り出すのを眺めながら、改めて母の財産を相続することはしないことにしようと決めたのであった。

辛いかもしれないけど、どうにもならないことはたくさんあるんだと思う。

そしてそれに、何も言えないで、耐えているしかできない人も本当にたくさんいるのだろう。

それを解決するのに、お金が活躍してくれることもあるけれど、果たしてそれが本当に、解決に導いてくれるかどうかは、疑問が残ることも少なくないのだ。

暑い暑い、夏の中、新紙幣を勘定する音が虚しく響いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新紙幣 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る