パープル④

 「うあ゛ーーーん!!!」と泣く子供の声は、今しがた通り過ぎた街路樹の側から聞こえた。柚希と市架が振り返ると、青々とした葉っぱの中に明るいパープルの風船が埋まり、その下でぐずっている子供を、母と思しき女性があやしている。毎日というものは視野さえ広げてしまえばこんなものだ。常に誰かが泣き叫び、誰かが爆笑している。そして柚希はけしてそれを見逃さない。

 市架が声を掛けようと口を開く前に、柚希は地面を蹴っていた。数メートルの助走は走り高跳びの要領。リズムよく両足を動かし、踏み切ると、柚希はまあまあな高さに跳び上がった。そして葉っぱを茂らせた枝木に顔面を突っ込み、着地する。その手にはパープルの風船があった。


「はい、どうぞ」


 柚希は跪いてにっこり笑う。聖人ワズキの面影のある、ただの優しい男の子の姿がそこにあった。

 親子はたくさんお礼を言って去っていった。ぷかぷかと揺れる風船が、曲がり角の方に消えていく。

 柚希は切り傷だらけの顔面に指先でこわごわ触れた。めちゃくちゃ痛かった。迷宮で負った怪我は所謂ステータスの上昇によってある程度痛覚が麻痺させられているので、現実世界での怪我とは感覚が違ってくる。ここは迷宮ではないというのに、己は何をやっているのか。柚希は自分の無鉄砲さに頭が痛くなる思いだった。


「やっぱり、ワズキくんは良い人だよ」


 独りムッとしている柚希に、市架はくすくすと微笑んで言った。柚希は眉を上げて驚く。


「だ、だから、僕はそんな凄い人じゃなくて──」

「それに少し変わったと思う」


 思いもよらぬ言葉に、柚希は反射で謙遜しようと開いた口をゆっくりと閉じ、眉を寄せた。


「私と初めてコラボした日、ワズキくんはユニークスキルを隠したよね。でも今は教えてくれた」

「それは、バラされたから……」

「でもゲームの課金のことは隠そうと思ったら隠せたよね?」


 そこも知られているのか……。柚希はしょっぱい気持ちになった。

 年相応の柚希に、市架は確信を持って微笑みかける。


「ワズキくんは変わったよ。強くなったし、成長した。……配信者の先輩として、そう思う」


 柚希は沈黙した。確かに、叩かれるとわかっていて真実を告白することを選んだのは、様々な出来事を経たからだろう。ルチカ達との関わりは、それだけ未知の物事を連れてきてくれた。


「でも、ワズキくんは最初からずっと優しいんだよ。そこはなんにも変わってない」


 市架は急に遠くへ向かって手を振った。振り返ると、さっきの子供がお母さんの手を引っ張って交差点まで戻ってきて、ぶんぶんと両手を振っている。柚希も自然と笑みを浮かべて手を挙げた。子供は、柚希が気がついてくれたことに嬉しくなったのか、さらに両手を力の限り振りまくって、お母さんに叱られている。

 市架はそれにくすっとして、柚希に向き直った。誠実な眼差しが柚希の謙虚さの奥にある平凡な十七歳のところまで届く。


「……私を助けてくれてありがとう」


 柚希は目を見開き、それから首に手を当ててはにかみながら頷いた。


「……こちらこそ、たくさん、たくさん色んなことを助けてくれてありがとう」

「ふふ」


 市架は大人びた笑みで柚希を見上げた。こうして見ると、市架自身もルチカのときとは雰囲気が違っていて、でも中で生きている少女はおんなじであるとわかる。

 ……むう。柚希は居心地悪そうに唇を少し突き出す。彼女と一緒にいると、胸の奥にたっぷりの砂糖と青臭い果実を詰め込んでトロ火で煮詰められているような、甘ったるくて落ち着かない気分になるのだ。市架は罪な女の子だと思う。もちろん柚希が市架に惚れているのは柚希の責任なのだけれど、それでも、市架は柚希に甘すぎやしないだろうか?


「んー、でもなー」


 市架は出し抜けに言う。柚希は内心をするりとしまいこみ、「なんですか?」と物分りのよいキョロ充の顔をした。


「ちょっとショックだったなあ〜」

「えっ。こんなにフォローしてくれてから言う?」


 そんなあ、と柚希はしょげかえった。もちろんおどけているだけのポーズだ。市架はその聖人のときには見せてくれなかった一面に頬を緩めながら、冗談混じりにバクダンを落とした。


「…………貧乳じゃ駄目なんだ?」


 柚希は停止した。動きも、思考も、何もかも。

 ショートした脳が活動を再開するまでどれだけの時が経っただろう。やばい、とまず思う。市架はわざわざ言うことではないが胸が控えめだ。彼女が詰っているのは、おそらくその点について。でもそれは市架の考え過ぎだ。だって柚希は、柚希は、柚希は──脊髄反射的に言い放った。


「瑠璃さんなら何でも好きです!!!」


 街路樹に留まっていた小鳥が一斉に飛び立った。デス……デス……とこだまする赤っ恥もいいところの絶叫に、柚希は顔が火照るのを感じ、待って。と思った。これ告白じゃないか? しかもかなり最悪な部類。


「あっ、の、……変な意味じゃなくてですね、その……」


 あまりの恥ずかしさに涙が浮かぶ。顔を上げないとぼろりと流れ出しそうで、さすがにそれは思春期の男の子として抵抗があった。

 ちら……と、柚希は俯き加減に市架を見上げる。そして、心臓がどくどくっと一気に鼓動を早めたのを感じた。

 市架は赤面していた。形の良い眉をへんにゃりと下げて、潤んだ瞳が光を乱反射して美しく、両の指先はもだもだと組んだり離したりと忙しい。

 柚希はたまらない気持ちになった。


「……プライベートだけ、瑠璃さんと呼んでもいいですか?」

「…………市架でいいよ」


 市架は青いメッシュを耳にかけ、はにかんだ。「私も、いいかな」と甘えるように唇をすぼめる。


「キミの名前を教えて……?」


 柚希は二重の意味で目を見開いた。ひとつは嬉しかったからで、もうひとつは驚いたから。学校関係者から漏れたのか、柚希の名前は既に出回っているのだ。柚希の謝罪枠を観ていた市架なら、コメント欄を荒らしていた柚希の本名連投コメも目にしているはず。

 柚希は目尻を乱暴に擦り、繰り返し強く頷いた。


「三沢柚希です」


 それは、亡き父から貰った大切な名前。


「そっか。柚希くん、だね」


 市架は噛みしめるように名前を舌に乗せた。二人はしばらく、黙って地面を見つめていた。既に足は止まっていた。

 やがて二人は同時に顔を上げる。市架はいつもの鮮やかな笑顔、柚希は気取り過ぎない繊細な微笑み。


「…………迷宮ダンジョン、行きましょっか」

「そうだね。行こ行こ!」


 どちらからともなく手を繋いだ。温かくて、頼もしくて、だけど顔が熱くなる。


「……ふふ」

「あははっ!」


 なんでもない小道に二人の笑い声が響いた。それをなんでもない人々の生活音が掻き消して、混ざり合う。

 柚希は真っ青な空から真っ赤な迷宮に降り立って、『ログインボーナス』を受け取った。市架は彼の虹色の燐光を眩しそうに見つめる。迷宮はすべてを受け容れ、呑み込む魔物だ。彼らのときめきもこの場では霞のように消えていく。命のやり取りの場にラブコメは不要。柚希は迷宮の硬い地面を征く。その唇には隠しきれない笑みがあった。

 この気持ちはまだもう少しだけ秘密にしておこう。少なくとも、画面の向こうには。




〈 『ログインボーナス秘匿中!!』了 〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

ログインボーナス秘匿中!! 藤龱37 @fsana_rkgk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ