駄菓子屋

うやまゆう

駄菓子屋

「おばあちゃん、値段おかしいよ」

 どのような街にも一つくらいは、紀元前から続いている駄菓子屋がある。耐震補強もへったくれもない黒茶けた杉の壁材に、破風の張り出した灰色の瓦が切妻形に乗っかっている、そんな駄菓子屋が。そこだけ妙に近代的な、曇り硝子のはめ込んであるスライドドアは日中開けっ放しで、戸枠には簾が架かっている。中は見た目ほど広くはなくて、最下段は一〇円もしないガムが、上にはその一〇倍円もするチョコレートなどが収められている金属フレームの商品棚が二つ横並びに、それから、これでもかというくらいお菓子の詰まった箱が、低い机の上に四個ほど並べられている――それですべてだ。夢と現実の間にある、妥協のようでもあり理想のようでもある空間。動線が狭いので、子供はあまり中に長居はせず、店先にたむろすることになる。彼らが日光を浴びすぎないよう、夏場には簾を軒先にまで張り出してあった。

「おかしかないよ」

 それは返答だった。「お菓子しかないよ」と駄菓子屋の原理主義に回帰したわけではなく、何かが妙であるという指摘に対する、妙ではないという指摘だった。

 "おばあちゃん"は店の奥に鎮座していた。観音像のようにびくともせず、観音像のようにそれでよかった。そこが唯一の受付であることが、子供たちの倫理を試していた。

 今、一人の少年が、軒先で待っている数人の友人をしり目に、彼女と対峙していた。

「だって、これ、一〇〇円もしないじゃん」

 威勢のいい切り返しだった。将来はきっと、注文と違うメニューを突きかえせるような大人になっていることだろう。

 少年が受付に置いていたのは、コイン型のチョコだった。夏でも溶けない特殊な製法のもので、商品棚の最下段、最大でも三〇円が関の山という代物だった。少年の記憶では、これは物心ついたときから今日までずっと一〇円で、今日も一〇円であるはずのものだった。ましてや一〇〇円であるはずもなかった。

 お婆ちゃんは顔のしわをぴくりとも動かさず、また口ですらも微動だにして見えなかった。

に関して、あんたが何を知ってるんや」

「一〇円のチョコ?」

は一〇〇円のチョコや。買うんか、買わへんのか」

「買わへんわ」

 少年は面白半分、苛立ち混じりにそう吐き捨てると、店の中を引きかえして、一〇円の駄菓子が詰め込まれている箱から、適当にひとつ取った。チョコは奥の方に突っ込んでやった。受付に持っていくと、当初の予定通り清算できた。合計して五〇円――少年の、一週間のお小遣いの半分だった。

「あかんわ。おばあちゃん、ボケてもうてるかもわからん」

 少年は友だちに、不安そうにそう呟いた。友人たちは「もともとちょっとヘンだった」という説を補強する恣意的な内容をしばらく話したが、すぐに話題は基本無料のネットゲームにおける武器の強さに移り変わっていった。

 翌週の月曜、少年は再び駄菓子屋『まる』に足を運んだ。なんだかんだ言って少年に貯金という発想は無く、駄菓子屋は数少ない彼のルーティーンのひとつだった。

 子供というのは、日常の領域の中では冒険心に欠ける生き物で、友達と一緒に知らない道を通るような冒険には憧れているが、自動販売機で知らない飲み物を買うような冒険にはなんの興味もなく、そもそも冒険だとは思っていない。少年は今日もまた、決まりきった道筋を辿る。金曜にお小遣いである一〇〇円の全部を使い切る計算で、月曜は一〇円でチョコを買うのだ。それを受付に持っていってから、少年は先週の出来事を思い出した。

「はい――一〇円ね」

 おばあちゃんのその言い草に、少年はなぜか内心で狂喜した。自分が間違っているのではなくおばあちゃんが間違っていたということがとてつもなく嬉しかったのだ。少年は興奮のせいでつかえながらも、なぜ先週と値段が違うのかということを、Youtubeで見かける頭の良い(とされている)人物のような口調で問いただした。その口調の大人っぽさにわれながら自信をつけながら。

 しかし、おばあちゃんは細い目をぴくりともさせなかった。

「なに言ってるんや? これは一〇円のチョコやろ」

 こちらの頭がおかしいかのように言われ、少年はカッとなった。「だって、先週は一〇〇円って言ったじゃん」

「一〇〇円のチョコと一〇円のチョコがあるんや」

 区別のつかないものに値段の差があるという論理には、さすがの少年も動揺した。そんなことがあっていいのだろうか? だとしたらおカネってなんなの? モノの価値ってなんなの? 少年は混乱しながらがま口財布の中に指を入れかけて、そこで、ふと、この問題をこのままにしてはおけないと強く感じた。

 彼は道を引き返すと、一〇円の箱の中からすべてのコイン型チョコを取り出して両手に抱え込んだ。それを受付に持っていって、ざらっと並べる。

「二一〇円やね」

 十二個の一〇円チョコが二一〇円になることはない。割り算を習ったばかりの少年でも、そのくらいのことは暗算をするまでもなく理解できた。要するに、ここには十一個の一〇円チョコと、一個の一〇〇円チョコが混ざっているのだ。どうやってそれを区別するのかも、比較をすればわかるかもしれない。

「どれが一〇〇円のやつ?」

「一〇〇円のは無いわ」

 少年は目をぱちくりさせた。「どういうこと?」

「一二〇円がひとつ、二四〇円がひとつ――」

「ま――、え⁉ もう三六〇円だけど?」

 おばあちゃんはちらりと少年を見上げて、指を使いながらチョコの値段を明らかにする作業に戻った。どれも信じられないような金額で、一〇円のチョコはひとつしかなかった。そして最後に――「これがマイナス一六六〇円」

「マ、マイナス――?」

 それはまだ、少年が触れたことの無い数学符号だったが、一応概念としての存在は知っていた。ゲームでスコアが増減する時に、マイナスを意味する赤いスコアが加算されると、それは加算であるにも関わらず減算で処理されるのだ。

「え、じゃあ、これください」

 少年はマイナス金額のチョコを指さした。

 おばあちゃんは無表情のまま「ちょっと待ちい」と告げ、カウンターの内側についている引き出しを開けた。そしてそこから、黄がかった一枚の長方形と、金色の大きな硬貨を取り出してきた。それは一〇〇〇円と五〇〇円だった。そこに、見慣れた硬貨が付け足されて、

「はいよ。一六六〇円のお釣り」

 少年の脳は生まれてはじめて、日常に潜んでいる奈落を認識しつつあった。自分の理解していた世界が、音もなく解体してしまう糸引きを掴んだのだ。

 なぜそんなことが起こってしまうのか、それを訊ねてはいけない気がした。その瞬間に魔法が解けて、自分は警察に捕まってしまうのではないか――生々しい実感の伴った恐怖が少年の心臓をわしづかみにしたのだ。だが、誰にも言わなければ、自分だけがずっと得することができる……。

 だが――一六六〇円も持って、何に使ったらいいんだ? お菓子を買ってもいいが、はっきり言って、駄菓子屋のお菓子は毎日食べたいほど美味しいわけではない。ネットゲームに課金するにしても方法がわからないし――それがお父さんやお母さんに知れたら、何か自分の手に負えない大問題になってしまうような気がする。

「……やっぱいいです」

 十歳にして己の器を知らしめられたような気がして、少年はひどく落ち込んだ。きっと二十歳になっても自分のちんちんは小さいままに違いない。だが、それでいいのだ。自分は物語に出て来るヒーローじゃない、友達と遊べたらそれで構わないのだ。

 少年は金銭を返却すると、チョコの山を元の場所に戻した。なんだかしゃがんでいるのもつらくなり立ち上がってみると、目線の位置には、真新しい駄菓子が並んでいた。いや、この駄菓子はずっとここにあったのに、今までは気がついてすらいなかったのだ。

 すこし視線を変えるだけで、こんなにも世界が変わる。そうだ、物語の主人公でなくても、人生はこんな驚きに満ち溢れている。だから何も恐れることは無いのだ。少年は五〇円の十個入りガムを手に取り、カウンターに持っていった。

「マイナス千二十兆二百九十三億八千五百四十六万七千八百七十九円ね」

「――」

「買うんか?」

 言葉が出てこなかった。

 警察どころではない、これは自衛隊レベルの異常事態だ。お父さんやお母さんも、たぶんこんな大金を目にしたら、息子を不審がるよりも、恐怖の方が大きいだろう。こんな数字を冗談でもなんでもなく、取引額として耳にすることがあるなんて、少年は想像したこともなかった。だが、しばらく考えてみて、おばあさんに支払い能力があるのかどうかが疑問に思えてきた。

「か……買う」

 払えるわけがない――これはすべて冗談だ。ぼくはおばあちゃんにからかわれてるんだ。ここで怖気づいたら、見くびられるばかりじゃないか。

「ちょっと待ちい」

 おばあちゃんは引き出しを開けた。どう考えても、そこに憶単位の札束が入るとは思えず、少年は食い入るようにそれを見つめた。

「はいよ」スッと、真っ白なカードが差し出された。「千二十兆二百九十三億八千五百四十六万七千八百七十九円のお釣りね」

 少年はそれをおずおずと受取り、裏と表を確かめた。

 それには何も書かれておらず、読み取れそうな磁気ストライプも、ホログラムもない。番号もないから、クレジットカードではないのかもしれない。それがなんなのか、わからない。

「これ……?」

 少年はかすれた声でそう訊いたが、お婆ちゃんは何も言わなかった。

 怖くなってしまい、少年はもう何も言わなかった。

 翌日、その駄菓子屋の入り口は閉まっていた。スライドドアには、『都合により閉店します』という淡泊な張り紙がしてあり、何もかもそれきりだった。「やっぱり経営が苦しかったのかね」「腰が悪かったらしいからね」と大人たちは、子供には聞こえていないかのように各々の推測を好き勝手に述べていた。

 ただ一人、少年だけが、突然の閉店を意外には感じていなかった。彼だけが、あの白いカードの重みを感じていたからだ。何もかも、それの仕業に思えてならなかった。

 だが、やはりすべては冗談だったのかもしれない。閉店間際の駄菓子屋で、ちょっとした悪戯心から、少年をからかっただけなのかも。それでも少年は、あるとりとめもない考えに憑りつかれて、それが頭から離れなかった。

 このカードが、千二十兆二百九十三億八千五百四十六万七千八百七十九円として決済されるとき、それを使うことになるのは誰なのだろう。

 それが自分であってほしくないと、少年は強く、強く願うのだった。

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