第3話「【にゃーん】」
「フィフス令嬢」
廊下で窓掃除をしていると、アイスが話しかけてきた。
「あっ、アイス様」
フィフスは固くなる。
この1週間ほど、好きに過ごさせてもらっていたが、ついに追い出される日が来てしまったのだろう。
フィフスが縮こまっていると、アイスがフィフスの頭に手を伸ばしてきた。
叩かれるのか、と目を閉じるフィフス。
だが、
「あぁ、もう。頭にホコリが付いている」
予想に反して、アイスの手つきは優しかった。
「手も、こんなにガサガサにしてしまって」
さらに、アイスがフィフスの手に触れてくる。
「ひゃっ!?」
思わず飛び退くフィフス。
異性に触れられた経験など、それこそ十数年前に思い出の王子様・アイス少年の手を引いたとき以来だったのだ。
アイスが、少し傷付いたような顔をした。
「あっ、その」
フィフスは慌てて言い繕う。
「お掃除中ですので。汚れが移ってしまいます」
「ふっ」
アイスが、こらえきれないように笑った。
その、凛々しさと、年相応の少年っぽさが絶妙のバランスで混ざりあった笑顔に、フィフスの心はわしづかみにされた。
「魔物の血や汚物に比べれば、汚れの『よ』の字も見当たらないが?」
(そ、それは確かにそうかも……って、ひゃ、ひゃぁあああ!
手に触らないで。指を絡めないで!)
顔が熱い。フィフスはもう、大変である。
(細くてしなやかなのに、剣だこのできた手……)
そう、今、目の前にいるのは、日常的に魔物と戦い、生き延びてきた歴戦の戦士、本物の騎士なのだ。
(アイス様の手、格好良い……可愛い……ではなくてっ)
フィフスは、アイスの手をやんわりと押し返す。
「私のような者にはどうかお構いなく」
「そうもいかないだろう、婚約者殿。
ほら、俺の部屋に来い。
手荒れに良く効くスライムクリームがある。
婚約者がホコリまみれ、傷まみれでは外聞が悪い。
グレイシャ辺境伯家の一員としての自覚を持て」
「っ」
引っ張られた手の、アカギレが痛んだ。
「わっ、すまない」
ぱっと手を離したアイスが、おっかなびっくり、傷口に触れないように、フィフスの手を包みこんできた。
その手つきは、本当に、びっくりするほど優しかった。
「あわ、あわわわわ……」
真っ赤になって、混乱するままアイスの部屋へと引っ張られていくフィフス。
「あらあらまぁまぁ」
その様子を、メイド長が嬉しそうに見ていた。
◆ ◇ ◆ ◇
アイスの執務室にて。
「【ウォーターボール】」
アイスが桶に手をかざして唱えると、手のひら大の水球が瞬く間に生成され、桶の中に落ちた。
「省略詠唱!?」
フィフスは目を丸くする。
魔法とは本来、神々や精霊に対する祈りや感謝の言葉といった、長々とした詠唱を必要とする。
詠唱とともに魔力を手の中に練り上げ、結びの成句――この場合は【ウォーターボール】――を告げることで、魔法が成立するのだ。
成句に至るまでの長々とした文言をすべて省略してしまうことを『省略詠唱』と言うが、これは速度重視の戦闘向けテクニックである一方、燃費が悪く、威力も大幅に減衰する。
【ウォーターボール】は初級魔法だが、それでも見習い魔法使いが省略詠唱しようとしても、魔法は成立しない。
並のベテラン魔法使いならば成功させることができるだろう。が、小指の先程度の小さな水を生み出すのが精一杯といったところだろう。
ひるがえって、アイスは省略詠唱で桶1杯分の水を生成してしまった。
疲労の色はなく、額には汗ひとつ浮かべていない。
つまり、生まれながらに水系統の魔法に類まれな才能を持っており、若干17歳にして訓練に訓練を重ね終え、その道を極めているという証拠だ。
「その歳でここまで魔法を極めておいでで、そのうえ剣まで振るうことができるだなんて! ……あっ」
フィフスは、分不相応にも将来の旦那様の能力を品評するような真似をしてしまったことに気付いた。
「私のような者が……申し訳ございません」
「べ、別に。謝るようなことではない」
なぜだか、アイスの顔が赤い。
(……? あっ、もしかして照れていらっしゃる!?)
冷たいように見えて、年相応のところもあるらしい。
この数日で使用人たちと打ち解けることができたフィフスは、グレイシャ家やアイスの情報をいろいろと聞かせてもらっていた。
アイスは今、17歳。
年下なのだ。
「ほ、ほらっ、これでよく手を洗うんだ」
「は、はい」
何だかもじもじとしてしまうフィフスとアイスであった。
「ほら、これで手を拭って」
「はい」
「手を出して」
「はい」
手を差し出すと、アイスが手袋を脱いだ。
フィフスは思わず、彼の手指を凝視してしまう。
先ほど、手袋の上からでも分かった剣だこ。
それから、真っ白な手の甲に浮き出る血管。
その、しなやかな指が棚から小瓶を取り出し、手荒れを癒やすスライムクリームをすくい取る。
そして、
――にゅるっ
アイスの指が、フィフスの手指に触れた。
クリームをすり込んでくる。
「ひゅっ!?」
思わず、甲高い呼吸をしてしまうフィフスである。
緊張のあまり、つま先立ちになってしまう。
間近で見つめるアイスの顔の、なんと端正なこと。
驚くほど長い眉毛の、その合間から見える、紫色の瞳。
その瞳が、こちらの指を熱心に見つめているのだ。
「こらこら、婚約者殿」
「はっ、はひ!?」
「そんなに手指を突っ張っていては、指の間にクリームがすり込めないだろう。
ほら、もっと自然な形で手を丸めるんだ」
不満げに眉根を寄せるその顔の、なんと可愛らしいことか。
「テヲマルメル!?」
何かの魔法詠唱だろうか?
男性に対する免疫が絶望的に欠けているフィフスは、もはや何も頭に入ってこない。
「ほら、手を丸めるんだ。猫のように」
「ね、ねこ……」
「ほら、早く」
(早く。早く、アイス様の言うとおりにしなければ――)
そうしないと、アイスに怪しまれてしまう。
自分だけが、はしたないほどに緊張していることがバレてしまう。
早く、早く、猫のように――!
「にゃ、にゃーん!」
「…………は?」
アイスが、首を傾げた。
それから、
「猫って……ぷっ、あーっはっはっはっ」
腹を抱えて笑い出した。
(や、やってしまった~~~~!)
フィフスは、今すぐ消えてなくなりたかった。
◆ ◇ ◆ ◇
そんなふうにして、さらに数日、フィフスは穏やかに過ごすことができた。
過保護気味なアイスによって水仕事や重労働を禁止されてたのには難儀したが、構ってもらえているということは、つまり追い出される可能性が低いということ。
こそばゆい思いとともに、フィフスは甘んじて受け入れた。
アイスとの関係はここに来た当初からは比べ物にならないほど良好で、死を覚悟していた初日などに比べれば、フィフスは極めて幸福だった。
望まない婚約だったはずなのに、フィフスの人生は今やすっかり好転していた。
もっとも、懸念事項がないわけではなかった。
1つは、辺境伯婦人と未だに話ができていないこと。
食事にも現れず、ときどき廊下ですれ違うくらいだ。
そんなとき、フィフスは心を尽くして礼をする。
が、婦人からの返礼はなく、目も合わせてもらえなかった。
当然のことだろう、悪いのはこちらなのだから。
冬神の巫女でもないくせに、図々しくも居座っているのだ。
疎ましく思われていても当然だった。
もう1つは、辺境伯のことだ。
ここに来て1週間以上にもなるのに、未だにお目通りすら叶っていないのだ。
アイスがいくら優しくしてくれていても、家のことを決めるのは当主である辺境伯だ。
辺境伯の機嫌を損ねてしまったが最後、フィフスはこの家を追い出されてしまうだろう。
だから、フィフスは早いところで辺境伯に会わせてもらいたかった。
が、辺境伯はちっとも戻ってこない。
かなりの武闘派かつ現場気質らしく、火山の麓に出張ったきりで、部下たちとともに、火竜のスタンピードが完全に落ち着くまで即応体制を取っているのだという。
そのことは、尊敬に値するとフィフスは思う。
最前線で指揮を取るとは、軍人の鑑だ。
グレイシャ辺境伯領軍は士気が異常に高いらしい。
当然だろう、領主が自分たちよりも前で剣を振り上げているのだから、勇気付けられるし責任感も抱くというもの。
そのことは、良い。
ただ、アイスが少し可哀想だ、とも思ってしまうフィフスだった。
辺境伯が書類仕事のすべてを次期当主・アイスに丸投げしており、アイスが毎日毎日書類の山に埋もれているからだ。
そんなことをつらつらと考えながら、洗濯物を抱えて廊下を歩いていると、
「フィフス!」
ちょうど執務室から出てきたアイスと、ばったり出くわした。
「お前、水仕事はするなとあれほど――」
「は、運んでいるだけですっ」
「本当だろうな?」
「本当ですっ。本当っ」
叱られるのは嫌だが、こちらを想ってくれてのことなのは嬉しい。
思わずニヤつきそうになるのを、必死に我慢するフィフスである。
「その割に、相変わらず手は荒れているようだが?」
「こ、これはその……りょ、料理を少々」
「水仕事じゃないか!」
「料理は駄目とは仰ってなかったじゃないですか!」
「屁理屈を言うな!」
「せ、洗濯物が――」
抗議しながらも、執務室へ連れ込まれるフィフス。
「あらあらまぁまぁ」
「ベストカップル」
「今日も尊い」
そんな2人の様子を、メイド長他数名のメイドたちから成る『アイス様・フィフス様、絶対くっつけ隊』がきゃあきゃあ言いながら眺めていた。
部屋に入る直前、メイド長とチラリと目が合ってしまったフィフスは、恥ずかしいったらない。
「それで」
人の気も知らないで、フィフスの手に熱心にクリームをすり込みながら、アイスが聞いてきた。
「今日は何を作っていたんだ?」
「コカトリスの香草焼きです」
「フィフスは料理が得意なんだな」
「私には、そのくらいしかできませんから……」
「ほら、猫の手だ。
いつまで緊張しているんだ、婚約者殿?
実際に結婚したら、こんなんじゃ済まないぞ」
「!? !? !?」
「ほら、にゃーん、だ」
「絶対に言いませんからね!?」
扉の隙間からは、『くっつけ隊』たちがこちらを覗き込んできている。
フィフスはそのことに気付いているし、気配察知に敏いアイスも、無論気付いているのだろう。
だがアイスは、むしろ嬉々としてこうした行為を周りに見せつけようとしているところがある。
ひどい辱めであった。
「俺からすれば、十二分に魅力的な特技だと思うがな。ただ」
楽しそうだったアイスの顔が、一転して曇った。
「問題は、父がどう判断するかなんだ。
今日・明日あたり、父が戻って来る。
お前の身の安全は、俺が全力で守るつもりでいる。
だが、お前も十分気を付けてくれ」
「え? それってどういう――」
――ドタバタドタバタ!
騒がしい足音とともに、『くっつけ隊』たちが走り去っていった。
それと入れ替わるようにして、
――ドシン、ドシン、ドシン、ドシン
と、地響きのような重々しい足音が。
「ああ……」
アイスが頭を抱えた。
次の瞬間、バーンッと扉が開け放たれた。
「吾輩、帰還!」
大男が、立っていた。
身長2メートルを越す長身と、それに負けず劣らずがっしりとした肩幅を持つ全身筋肉の男性が、扉の前に立っていた。
初老、といっても良いくらいの年頃なのに、元気があり余っている様子の男性。
「!?」
フィフスは目をまんまるにして、声も出せずに驚いている。
一方のアイスが、『やれやれ』といった様子で肩をすくめ、
「……父だ」
と言った。
そう、辺境伯その人である。
髪はアイスと同じ灰色だが、短く刈り込まれている。
瞳もアイスと同じ紫色だが、アイスにはない、圧倒的自信に満ち溢れている。
顔つきは厳つく、アイスとは似ても似つかない。アイスは母親似なのだろう。
天に届きそうなほどの、長く尖ったカイゼル髭が、この男性の自己肯定感の高さを如実に表している。
体は本当によく鍛え上げられていて、軍服――肋骨服の胸板が、隆々とした胸板の形に押し上げられ、ぱつんぱつんになっている。
その軍服というのがまた、すごい。血や焦げ付きで汚れているのだ。
辺境伯ほどの地位にある者が、洗濯する人がいなかったり、服を新調する金がなかったりということはないはずだ。
それなのに血で汚れているというのが、この男性が、いかに毎日『現場』で戦っているのか、ということをこれ以上になく物語っていた。
武闘派、現場主義という言葉は伊達ではないのだ。
「あっ、あのっ、わたくし――」
フィフスが慌ててカーテシーをするより早く、辺境伯が口を開いた。
「狩りに出るぞ!」
その声は、窓ガラスが震えるほど大きい。
そしてその言葉は、実に端的だった。
「分かりました」
慣れているのか、アイスが驚いた様子も、おののく様子もなく、淡々とうなずいた。
「いつ出ますか?」
「今からだ!」
(今から!?)
フィフスは驚くが、
「……分かりました」
アイスは多少呆れた様子を見せつつも、即答した。
どうやら、いつもこんな感じであるらしい。
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