第10話 冥王の寵妃
「我が寵妃、サナよ。今より千年間、世界はそなたのものだ」
「あ、はい。聞きました」
サナはまっすぐ正面を見ながらさらりと答えた。
冥王イーヴェダルトはサナの前に立ち、その白い頬をわずかに紅潮させ、整った細い金色の眉をもちあげ、両の手を迎え入れるような形に広げていた。
が、サナの言葉を聞いてたっぷり十を数えるほど黙り込み、それからどすんと腰掛けに背を預けた。
口と鼻を右手で覆っている。目は、驚愕に見ひらかれている。
背筋を伸ばして座っているサナの背で、ランドラルヌーヴは小さくなっていた。この犬型の獣人は肌を覆う毛の量を変化させることができるほか、身体を丸めることでその大きさを調整できる。
体躯はいま、畳んだ毛布、大きめのパンほどとなっている。
「……ランドラルヌーヴ」
冥王の問いかけに、ランドラルヌーヴはすぐには返さなかった。
「ランドラルヌーヴ」
「……はい……」
「言ったのか」
「……」
「言ったのだな」
「……言いました……」
「……
ランドラルヌーヴはさらに縮小し、ついに手のひらに乗るほどの大きさとなった。これは極めて高度な魔力の発現であり、ランドラルヌーヴはその魔物としての能力の高さを褒められるべきであるのだが、本人もいま、そんなことは望んでいない。
ごめんなさいごめんなさいと小さな声が、毛玉の内からくぐもって聞こえている。
天井の明かり取りから控えめに溢れる陽光が三人を照らしている。
内装も調度も蒼と白に統一されており、美しい陰影を描いている。
風呂を上がって身支度を整えたサナを、冥王さまが居室でお待ちですと、ランドラルヌーヴがこの部屋に案内し、それを冥王が迎えたのだ。
つい数刻前まで冥宮中を巻き込む大逃走劇を繰り広げていたサナだが、ランドラルヌーヴの説明でいちおうの理解が通り、少なくとも冥王がまったくの意図不明な行動に出ているわけではないということを納得した。
もちろんすべて腑に落ちたわけではない。
例えば、なぜ冥王は王国に魔物を送り込むような真似をしたのか。ランドラルヌーヴの説明によれば、冥王はサナの歓心を買いたいと考えているはずだ。相手の国を配下に襲わせるような振る舞いは筋が通らないし、まして、それが原因でサナは罪に問われ、冥王自身を討伐しに来るような羽目になったのだ。
だから、今度はしっかり冥王と向き合って話をしたいと、サナはみずからランドラルヌーヴに申し入れたのである。
「あ、あの」
白金の長い髪にぐしゃりと指を入れて頭を抱え、深くうなだれている冥王イーヴェダルトに、サナはおそるおそる声をかけた。
「ごめんなさい、わたし……なにか、まずいこと、言いました……か」
イーヴェダルトは低く長い唸り声のような音を喉から発して、やがてゆっくりと頭を上げた。唇を噛み締めている。眉を寄せ、涙を堪えるような表情。
「……いや……大したことでは、ない。よい。よいのだ。ランドラルヌーヴはよくやってくれておる」
サナの背で、ぴぃ、と、ランドラルヌーヴが不思議な音を出した。
それを振り返り、サナは言葉を続ける。
「ランドラルヌーヴさん……ラル、から、少しお話を聞きました。千年紀の冥婚のことも、わたしと……あの、冥王……陛下との」
「陛下は無用だ」
「……冥王、さま、との、縁のことも……正直なところ、まだよく分からないし、信じられないけど……まずは」
そう言ってサナは立ち上がり、風呂上がりにランドラルヌーヴが用意してくれた柔らかな光沢のある室内着の裾を摘み、聖女としての正規の礼をとった。
「まだ、お礼を申し上げておりませんでした。命を助けてくださり、ありがとうございました」
冥王は、む、というような声を出し、眉を上げた。どんな表情をしてよいかわからないようだった。
「転送の秘儀で友を送り、わたしはそこで果てるつもりでした。あなたに殺されなくとも、秘儀の作用でわたしの命は終わるはずだったし、それに……国に戻っても、待つのは死罪でした」
「ふ……下らん、と言うたではないか」
冥王は拗ねたように下を向いた。子供のように下唇を突き出してみせる。
「あのような下賤どもの言うことに従い、わざわざ命を捨てる旅に赴く。自らを捨てた者どもを、すべてを投げ打って守ってみせるという。理解できぬ。誠に、下らん。サナ、そなたには自らの価値がわかっておらぬ。冥神の魂の欠片から生まれ、冥王たる我とそれを共有し、千年間、世界をその力により治め、平穏をもたらす。そなたの力、そなたの価値は、地上のどんなものよりも重く、大き」
「違います」
ふいにサナが言葉を遮ったので、冥王は目を上げた。その薄い蒼の瞳に射抜くような光が戻り、サナはわずかに怯えを感じたが、息を吸って堪えた。
「違います。聖女としてのわたしの力、わたしの命は、それを信じて支えてくれた人々の……友人の、王宮のみなの、王国の民の力であり、命です。わたしの命が重いというのなら、それはみなの命が重いからです。わたし一人に価値があるからじゃない」
「……そなたは、我が花嫁ぞ。我が魂の、
「同じです。あなたの命がわたしと、ひとつなのであれば」
躊躇わず、まっすぐに返すサナの瞳に、冥王はわずかに形の良い唇を動かしたが、言葉にはしなかった。しばらく後に目を逸らし、息をついた。
「……我は、ただ一人である。生まれより、今に至るまで。親の姿を見たことはなく、家族もいない。友と呼べるのは……呼んでよいのかは知らぬが、この宮でともに暮らす、魔物どもだけだ。不便を感じたことはない。寂しいとも、思わない。だが、そなたの言うことが胸に落ちてこぬことが……どうにも、もどかしい」
子供のような声音。
サナは、ふっと息を漏らして、それが自分の微笑であることを発見し、驚愕した。そのことでまた、笑った。
サナの笑顔にイーヴェダルトはちらと横目の目線を送り、ふんと腕を組む。氷のように美しいその横顔を、サナははじめて、愛らしいと感じた。
どう振舞ってよいか分からなかったが、聖女としての習慣が彼女の膝を折った。腰を落とし、膝をたて、右手をイーヴェダルトのほうへ伸ばす。
「わたしもあなたの言うことは、ひとつも腑に落ちません。変態は大嫌いです。でも、互いを学ぶ時間はありそうですね。ふふ、千年間。長い時間です」
イーヴェダルトは弾かれたようにサナのほうに向き直り、目を見開いた。その目はゆっくりと薄くなり、眉尻を下げ、唇を震わせている。サナが差し出した手先に指を重ねて、小さく頷いた。
サナは先ほどまで、この場で糺そうと思っていた。
なぜ、王国に魔物を送り出したのか。本当に王国の、人間界の支配をもくろんでいるのか。あなたは、悪であるのか。
だが、サナにはもうその気持ちはない。聖女としての能力が相手の心を読んだというのもある。が、なにより、子供のように拗ね、幼児のように無邪気に自分を求め追いかけてくる目の前の男の魂の色を、彼女は信じることができたのである。
サナはいま、自分の微笑を楽しんでいる。
幼い頃からともに過ごした匂い。悲しいときに声をかけ、嬉しいときにともに飛び跳ね、多忙な神官である両親が不在のおりに、常に話し相手になってくれた存在。
冥王の寵妃は、つねに伴侶と命を共にしてきた。
遠く消えた記憶を、サナは柔らかく指先でなぞるように、楽しんでいる。
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