第8話 世界はあなたのもの


 冥宮には、風呂がある。


 大きいものだ。

 風呂という規模ではない。


 冥宮に住まう魔物は、常時三百を超えるが、そのすべてがいちどきに湯に浸かることのできる施設なのである。小ぶりの池、と表現したほうが実態に近い。膨大な湯は、冥界の力により常に適温と清潔を保たれている。

 

 驚くべきことに、風呂は冥宮の三階に設置されている。つまり、地上から背丈の十倍ほどの位置に湯が沸いているということだ。

 人間界では絶対に成し得ないことだった。そこまで水を揚げる技術はなく、動力も用意できない。魔法なり神法はあるから、一時的に実行することはできても、常時それを継続するための莫大な力を維持できないのだ。


 が、ここではそれができている。

 冥王の力であり、冥界の力であって、それは恐るべきものであった。


 その力を、いま、サナは首まで湯につかりながら実感している。

 

 まとめた髪を柔らかな湯上り布で覆い、控えめだが清々しい柑橘系の香油の香りに包まれて、湯気のなかに浮いている。

 浴槽の向こう側は、空だ。

 壁を抜いて、まるで絵画のように風景を見せているのだ。高地に立つ冥宮の、さらに地上三階の高さから見晴らす北限の地の豊かな自然、冥界の入り口たる峻厳な峰。ときおりぴいと鳴きながら空を舞う鳶の声。遠く薄く、たなびく雲。

 

 「……う」


 サナは小さく声を出すと、斜めに傾いだ首を元に戻した。

 気を抜けない。抜けば、眠ってしまうためだ。

 湯の温度も、湯気につけられた香りも、穏やかに差し込む日差しも、すべてがサナの好みであり、その眠りを誘うように組み立てられていた。


 「……お湯加減、いかがですか」


 と、三十歩ほども彼方の戸口が控えめに開けられ、ランドラルヌーヴがそろりと入ってきた。質量のある胸元に布を当てている。体表の毛皮は少なく、ほとんど人のつるりとした地肌のように見えるのは、環境に応じて毛量を調節できるためである。

 浴槽のふちまで来て、膝立ちし、苦笑気味に笑いかける。


 「あれだけ冥王さまと追いかけっこなさったから、くたくたですよね。どうか、ごゆっくり」

 「……ありがと……ランドラル……ヌーヴ、さん」


 ランドラルヌーヴは目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。


 「名前、呼んでくださって嬉しいです。ラル、でいいですよ」

 「……うん、ラル。ありがとう」


 なかば寝ぼけながら、サナは返した。


 ランドラルヌーヴが言うとおり、つい先ほどまで、冥王イーヴェダルトはサナを追いかけ回していたのである。

 目的は挙式であり、褥の準備のある自室へ連行することである。そしてサナを捕えかけるたび、髪なり首なり腕なり背中なり、あるいは脇なり、さらに際どい部位の匂いを嗅ぐような所作をした。


 サナは、おおいに叫び、全力で逃走した。


 冥宮中を疾走し、ときおり振り返って攻撃し、その攻撃をサナの戯れと理解した冥王がさらに歓喜するという、たいへん厄介なこととなっていたのである。

 魔物たちははじめ逃げ惑っていたが、やがて呆れ、辟易し、やむなくサナを捕えることとした。先頭にたったのはランドラルヌーヴである。

 数十頭の魔物が一斉に飛びかかり、何割かはサナの強力な神法により吹き飛ばされたが、なんとか取り押さえた。

 そして冥王が近づく前に、取り囲んだままでぞろぞろと移動した。ランドラルヌーヴは輪の中心、サナの背に抱きつきながら機転を効かせ、冥王に叫んだのである。

 サナさま、お風呂連れてきますから! お風呂ですから! お風呂!


 冥王はそれでもついてきたし、脱衣室の扉を閉めたにも関わらず壁を透過して侵入してきたが、ランドラルヌーヴがなんとか追い出した。

 サナは混乱の極みにあったが、それでも清潔で整った風呂の設備を示され、布を手渡されて、入り口は死守しますから、お心休めてください、というランドラルヌーヴの言葉にやがて頷くと、大人しく脱衣して湯に向かったのである。


 「じゃあ、お背中、流しますね。上がっていらしてください」

 「……ん……」


 ランドラルヌーヴの声に、サナはこくんと首を振って、そのまま立ち上がった。王国の神殿にも大浴場があり、女性神官なり聖徒と一緒に入ることが普通だったから、寝ぼけているのもあるが、ある意味無防備でもある。


 「……サナさまは、千年紀の冥婚、ご存じでしたか……?」


 座ったサナの背に回り、香油を垂らした布で肩のあたりをゆっくりと擦りながら、ランドラルヌーヴは囁くような声を出した。


 「……千年……めい、こん……?」

 「王国の方では違う呼び方かもしれませんが……冥界の魔物の間ではそのように伝えられています。千年に一度、冥界の主と人間が、縁を結ぶことです」

 「縁……って。結婚、っていうこと……?」

 「そうですそうです。冥界は、人間界の地続きです。神界と違って、人間界とうまくバランスをとらないと、どちらも壊れちゃうらしいんです。だから千年に一度、そのときの冥王が、人間界から妻をとって互いの力と世界を補い合い、次の千年を二人で治めてゆく。そういうもの、らしいです」


 サナは、ふわふわした気持ちのなかでランドラルヌーヴの言葉を聴いている。彼女の知識のなかには、そうした伝承のことはなかった。

 が、そうか、と、納得する気持ちもある。だから冥王は、倒しにきた自分のことを花嫁候補と思い違いしているのだな、と。


 「ご存知、なかったんですね……そうかあ。じゃあ、なおさらびっくりしますよね。まさかご自身が、冥王さまと魂、共有してたなんて」

 「……え」


 サナの惚けた意識も、ようやくそこで焦点を結んだ。声を出し、肩越しに振り返る。向けられた視線に、ランドラルヌーヴは少し慌てたような表情を浮かべた。


 「あ」

 「魂……共有って。どういう、こと」

 「……あ、の……うう、まあ、いっか……言っちゃいます。あの、サナさまのこと、わたしたちはずっと存じ上げてました。ずっと、ずうっと昔から。いまの冥王さまが、お生まれになった頃から」

 「……冥王、が」

 「はい、ずっと昔です。あの、サナさまは……冥神さまのお力を受けてお生まれなのです。今から五百年ほど前、冥神さまの魂の一部が、ふたつにわかたれました。後継者を作るためです。その一方は冥王さまとなり、もう一方が、サナさまとなりました」

 

 ランドラルヌーヴの口元を、サナはじっと見ている。荒唐無稽な内容だ。しかし、どういうことか、サナの心にその言葉がすとんと落ちてゆく。

 心地よい湯気と香気に包まれ、耳元で囁かれるためであろうか。


 「冥王さまはすぐに成長され、冥宮の主となられました。ですが、サナさまになるはずの魂のかけらは、人間界に送られ、長い眠りについたのです。人としての魂の器を作るには、それだけ時間がかかるのです」


 ランドラルヌーヴはそこで、可笑しそうに、愛おしそうに、くつくつと背を丸めて笑った。


 「冥王さまは、定めを冥神さまから伝えられていました。ですから、二十年前にサナさまがお生まれになるまで、何百年間も、毎日、ほんとうに毎日、サナさまを待っておられたんです。朝食のときは、片割れの魂はなにが好みだろうなって楽しそうに話されて。夜に眠るときには、未来の奥さまの好みの寝香水はどのようなものだろうな、どんな姿で休むのかなって、いつまでも嬉しげに想像しておられて。それはもう、毎日、毎日……ふふふ」


 そして自分の顔をじっと見ているサナに、この上もなく柔らかな表情を浮かべて見せた。


 「だから、サナさまがお生まれになった瞬間から、冥王さま、ずうっとそばで見ておられたんです。まあ、ちょっと……すごく、めちゃくちゃ、やりすぎですけど。でも冥王さま、責めないであげてください。ほんとうに、ほんとうに、サナさまとお会いするのを楽しみにされていたんです。とっても長い時間。わたしたちも、そうです。冥界のものすべて、あなたさまにお会いするのを楽しみにしていました」


 そういい、ランドラルヌーヴは膝を引き、サナから少し距離をとった。不思議そうに目で追うサナに、手を胸の下に入れ、頭を下げ、表情を引き締めた。丁重な礼。


 「サナさま……冥王の、寵妃。いまから千年間、世界はあなたのものです」


 





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