第7話 サナの亡霊


 ぱた、ぱたと、水が滴る。


 王宮の地下、第二階層。

 地表から背丈の五倍ほどの深さに設置されたその石造りの牢には、日差しはもちろん届かないし、通気の工夫もほとんどされてはいない。地層から滲み出た水が常に天井と壁を濡らしている。

 黴と埃の匂いが充満するその部屋で、いま、ふたつの人影が壁際に座っている。


 「……食べないの」


 足元に置かれた皿を相手の方に押しやって、女は小さく呟いた。黒の外衣を羽織っている。目深く下ろしたフードが表情を隠しているが、編み込まれた紅色の髪が首元から胸に流れている。顔をあげたのであれば、その瞳も、銀の額当ての中央に輝く魔石も、髪と同じ真紅であることが見てとれたはずである。


 「食ってくれ。要らん」

 「毒、入ってないよ。術も使われてない」

 「腹が減っていない」

 

 男は顔も上げずに短く返した。そのまま、あぐらをかいた膝の間、石の床に降り積もった埃に指でなにかを描いている。

 灰茶色の内着は、鎧のなかに着用するものだ。袖のない肩口から伸びる上腕はそう太くはないが、よく鍛え抜かれた筋肉に覆われている。ごつごつと骨張った手首が彼の剣士としての力量を物語るが、その顔つきはどこか少年らしい甘さをも残しているのである。

 男は、床に円や直線をいくつも描いては消し、また描いている。何度もそれを繰り返し、ときおり短く刈り込まれた濃紺の髪に指をいれ、ぐしゃぐしゃとかき回す。


 「……王宮の、見取り図だね」


 描いているものを横から覗き込んで女が囁くと、男は頷いた。


 「目論見が外れれば、君だけでも逃す。そのための経路だ」

 「……あんたはどうするの、エルガ」


 男、エルガは言葉を返さず、そのまま床の上で指を走らせる。

 女はその様子をしばらく眺めていたが、おもむろに右の指先を天井に向けてくるりと回転させた。小さなつむじ風がたち、エルガの膝先の絵がかき消される。

 男は怒るでもなく、ふうと息をつき、女の方に向き直った。


 「上手くいくとは限らないんだぞ、ネイゼリア」


 今度は女、ネイゼリアが答えず、ただ皿からパンとチーズを取り上げ、半分に割り、一方をエルガに差し出した。エルガは黙って受け取り、口に運ぶ。

 その様子をじっと見ていたネイゼリアは、にいっと口の端を上げてみせた。


 「サナに残してもらった命、他に使うあてもないしね。しくじったら景気良く大暴れして終わりたいなあ」

 「……無駄にする必要もない」

 「お言葉、そのまま返すよ。サナを愛してたのは、あんただけじゃない……ま、あんたのとは、意味が違うけどね」


 言われて、エルガはぴくりと肩を揺らした。

 ついに告げずに終わったエルガの想いは、ネイゼリアにももちろん伝えていない。エルガは慎重に隠したようだったが、ネイゼリアには、わかった。

 エルガがサナを見ていたように、ネイゼリアもまた、エルガを見ていたからだ。


 十歳にして聖女候補として神殿に召されたサナの、同い年の護衛、あるいは心を許せる話相手として選ばれたその日から、もう十年。三人はいつでも一緒にいたし、いつでも同じ風景を見て、同じ出来事で笑い合ってきた。

 その時間のなかで、無骨なエルガが柔らかい視線を投げる先にサナがいるのを、ネイゼリアはなんども確認することになった。そのたびに深呼吸をして、首を振り、微笑んでから、ネイゼリアはエルガの背をばんと叩いたものだった。


 七日前、二人は国境の森で目覚めた。

 サナにより冥宮から転送され、出現したのがその場所だったのである。


 穏やかな木漏れ日のなか、彼らは下草に横たわっていた。

 どうということもないように見えるその状況が、サナの極めて高度で繊細な神法の操作によるものであることを、そしてそれ自体が、サナの二人に対する最期の想いの表象であることを、魔法使いであるネイゼリアのみならず、エルガもよくわかっていた。


 エルガもネイゼリアも、身を起こしてしばらく動けず、なにも言えなかった。

 が、涙は落とさなかった。

 サナが自分たちを逃したのは、生かすため。後を追わせぬため。新しい明日を見せるため。そのことを二人ともよくわかっていたが、そうしたサナの遺志にただ大人しく従うつもりは二人ともにまったくなかった。


 ネイゼリアは魔法使いである。

 魔法使いが使役するのは、自然の精気、流れそのもの。それは神界にも冥界にも由来せず、それゆえに、両者に対していわば距離を保って接することができた。そしてネイゼリアは、王国でもっとも優れた術者のひとりである。

 その彼女の感覚が、王国に侵入を繰り返すという冥界の魔物たちの動きについて、ずっと違和感を訴えていたのである。

 魔物はたしかに冥界からのものだ。エルガと共に前線でその姿を確認したこともある。が、冥界の力ではないなにかに突き動かされていると直感した。むしろ、王国の内側へ引きずり込まれそうになっておりもがいている、という動きと思えた。

 ネイゼリアは、冥王討伐を命ぜられ、出発の準備を整えるサナにもそのことは告げていた。が、サナは寂しげに微笑んで、首を振ったのである。


 どんな理由であれ、冥界の魔物に王国が脅かされている。

 ならば、それを収め、国と民を護るのも黒の聖女としての自分の役割だ。

 受け入れよう。

 ネイゼリアはサナの横顔に、そうした意思を読み取った。


 そして、いま。

 サナは亡い。

 

 話し合いはごく短い時間でまとまった。

 王国へ、王宮へ戻る。真の原因に迫り、暴く。

 サナに代わって。

 

 二人には、念頭に置いているものがある。

 冥界の力によらずに魔物を制御し得るもの。審判である神聖秘儀の結果を左右し、王室の判断に影響を与え、なにより黒の聖女が退場することにより利を得るもの。

 王国に関わるものなら、誰でも一度はちらと頭に浮かべ、そして苦笑をして打ち消す仮説を、エルガもネイゼリアも捨ててはいない。

 輝くような白銀の髪と瞳の女の、どこか薄ら寒い笑顔。

 二人の脳裏に、それは貼り付いて離れることがない。


 が、サナとともに疑いをかけられ、追放された二人である。戻ったとしてもただちに捕縛されることは間違いなく、場合によってはその場で処刑される可能性まである。そもそも近づくことすら難しいと思われた。

 だから、二人は一計を案じた。


 「……人が来る」


 皿の上のものを平らげた頃、ネイゼリアが天井を見上げ、見えないものに目を凝らすような仕草をして、小さく呟いた。

 エルガは反射的に腰に手をやり、空を掴んで苦笑した。虜囚であるから帯剣を許されていない。


 「衛士か」

 「剣を持ったものが四人。それと……布を引きずるみたいな音。ローブ、かな。神官が混ざっているのかもしれない。ぜんぶで、六人」

 「尋問にしては多すぎるな。と、なれば」


 二人は顔を見合わせ、頷き合った。

 どうやら猶予は長くない。実行するなら、いまだ。


 ずいぶん経ち、開錠音と、重い板戸を引きあける音が響いてきた。それがいくつも続く。この地下牢に至るまでには三つの警門を通過する必要があるのだ。

 やがて石畳をごつごつと鳴らす足音と、手提げ灯の明かりが近づいてきた。

 

 エルガがネイゼリアに振り向く。

 ネイゼリアはまばたきで応え、すう、と息を吸った。


 「あ……ああああああああ……ああああっ」


 ネイゼリアはどんと床に倒れ、喉を掴み、目を見開き、腹の底から声を出した。掠れるように、絞り出すように。

 その横にエルガは膝を立て、苦しむ相手の肩を揺さぶった。


 「しっかりしろ、ネイゼリア。気を確かに持て」

 「……あああ、あああああ……さ、むい……寒い……」


 石廊の足音が早くなり、帯剣が揺れるがちゃがちゃという音が響く。まもなく牢の扉が重い音を立てて開かれ、灯火が差し入れられた。二人の衛士が踏み込んでくる。


 「おい、なにをしている」


 エルガは振り返らず、憔悴しきった声を出す。


 「ネイゼリアが……ネイゼリアの身体が、奪われた」

 「奪われた……誰に」

 「……サナだ。冥王に殺され、その呪いを受けて、冥界で迷っているんだ。助けを求めて、ネイゼリアに降りてきた」

 「なんだと、莫迦な。いい加減なことを……」


 衛士が鼻白んだその時、ネイゼリアがまるでばね仕掛けの人形のように上半身を跳ね起こした。ぎぎぎ、と、首を衛士たちの方へ向けて、引き攣るような表情をして見せる。喉から、いいい、と、不気味な音を出す。

 その異様な様子に気押され、衛士たちは数歩、退がった。

 退がった拍子に、入り口からゆらりと入ってきた人影に背を当ててしまい、飛び退って膝をついた。


 「……サナ、だと……」


 人影の声に、エルガは目を剥き、ネイゼリアは瞬時、演技を忘れた。


 「……サナは……苦しんで、いるのか……?」


 唇を震わせてネイゼリアに近づいてくる王太子、リオル・ヴァンゼルフ。

 その背で、白の聖女ウェルディードが、王太子を含めた三人に冷ややかな視線を落としていた。


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