第6話 白の聖女


 唇を離そうとしない。

 わずかな隙間に、艶かしく蠢く彼女の真っ赤な舌が覗く。


 薄暗い、書物が丁寧に並べられた巨大な棚の狭間。


 ウェルディードは相手の背に、あるいは後頭部に腕を回している。ぐいと抑えつけながら少しずつずらし、指先で相手の背筋を、腰を刺激する。その動きと連動させるように首の角度もいくども変え、相手の口腔内をみずからの舌で探っている。

 聖衣のスリットを割ってまろびでた白い腿を、相手の足の付け根に押し当てる。

 

 「……ん……」


 たまらずに声を漏らしたのは、ウェルディードではない。

 なんとか身を捩らせ、顔を反らせて、相手の男は小さく抗議した。


 「……だ、だめだよ、ウェル……人が来る」

 「だって……しばらく忍んでいらしてくださらなかったから、寂しくて」

 「いろいろ、忙しかったんだよ、例の件で」


 例の件、という言葉に、ウェルディードの銀の瞳が輝いた。腰までの長髪も、透明と表現できるような銀。それをさらりとかきあげて、彼女は上目に相手を見つめた。

 

 「あの二人……剣士エルガと、魔法使いネイゼリア。王国に戻ってきたそうですね。無事、だったのですか」

 「あ……ああ。大きな怪我はないみたいだ。ただ、ひどく落ち込んでるらしい。いま騎士団が取り調べてるよ」

 「……サナは。元の聖女、謀反人のサナは、どうなりましたか」

 「……それは、機密、だから……」


 男は髪と同じ栗色の眉を寄せたが、間近で彼を見上げるウェルディードの目が険しくなったのを見て、慌てて顔を逸らした。


 「……サナは、死んだよ。三人とも冥宮には辿り着いたけど、冥王にはまったく歯が立たなかった、って。戦いのなかで二人ともひどい怪我を負ったけど、気がついたら安全な地域に転送されてた、サナが最期の力で秘儀を行って逃がしたんだ、って言ってるらしい。だからおそらく、その直後に……」

 「……そう、ですか」


 ウェルディードはわずかに俯き、死者への哀悼のかたちを作った。が、伏せた顔は薄く笑みを浮かべている。それを気取られぬように、彼女はできるだけしめやかな声を出した。


 「……王国に冥界の魔物を引き入れて、王権の転覆を狙った大罪人。死して当然の罪とはいえ、かつて共に学び、力を尽くした間柄です。哀れな末路、胸が痛みます」

 「……君は、優しいな。白の聖女、ウェルディード」

 「……王太子殿下」


 王太子、リオル・ヴァンゼルフの手のひらがウェルディードの頬にかかり、彼女の顔をゆっくりと持ち上げる。その時には彼女はもう、目の端に涙すら用意し終えているのだ。

 唇がふたたび合わされ、離される。

 とろりと溶けるような表情で王太子を見上げながら、ウェルディードは甘えた声で囁いた。


 「……お願いがございます、王太子殿下」

 「ん、なんだい」

 「あの二人、エルガとネイゼリアは、改めて処断されるのですよね」

 「そう……だね。あくまで罪人はサナだけど、彼女に協力した疑いはいまだ晴れていない。冥王を倒せば赦免という条件だったけれど、それも果たされていないし」

 「処断は、しばし、お待ちいただけませんか。そしてわたくしに、彼らと話をさせていただきたいのです」

 「……それは、どうして」


 意図を糾そうとしたリオルは、だが、ウェルディードの訴えかけるような表情にそれ以上の言葉を繋ぐことができなかった。


 「……いや、うん……構わない。もちろん構わないよ。君は白の聖女、今となっては国を支える唯一の聖女だからね。国と民を護るために必要と思うことは、王名の下にすべて許される」


 代わりに並べられた自己弁護の理屈立てに、ウェルディードは本心からの笑みを浮かべ、深く辞儀をした。ただし、その本心の大部分を構成するのは、決して敬愛の情ではない。

 顔をあげ、花が咲いたような笑顔をリオルへ向ける。


 「ありがとうございます。殿下の広きお心により、サナの霊も、二人の魂も、救済の道へと導かれることでしょう。聖女として感謝申し上げます」

 「ああ、ああ、うん、君のような素晴らしい聖女に恵まれた幸運にも感謝しなければならないね。よし、二人との目通りのことは計らっておくよ。あとで段取りを伝える。それから……今夜こそ、は」


 鼻腔をふくりと広げてリオルが言葉を止めると、ウェルディードは嬉しそうに頷き、王太子の頬へ小さなキスを落とした。


 「……お待ち、しております」


 耳元で囁いて、ウェルディードはもう一度礼をとり、踵を返した。背後でリオルが手を振るのを感じながら、重い扉を開く。左右に首を振り、人影のないことを確認して廊下に出た。

 王宮内、正殿と神殿との中間あたりにある、小さな書庫。ウェルディードはそこに王太子を呼び出したのだ。夜のむつみごとの折に作った符牒を通じて。

 もっとも、逢瀬を目撃されたとして、そう慌てることもない。


 王太子が黒の聖女サナに懸想したという噂は、王宮づとめであれば知らぬものはなかった。そして、それとほとんど同時に流れた、サナが冥界の魔物を引き込むことで国家転覆を企んでいるという噂もまた、同様だった。

 その一件は、当然、王太子の立場を危うくした。王座を巡って対立するような兄弟はなかったが、それでも謀反を企んだ女と通じていたという噂を打ち消すことに、王太子は躍起となった。


 そこに近づいたのが、白の聖女、ウェルディードである。

 ずっと前からお慕いしていた、御身のお役に立ちたい、黒の聖女ではなく自分に懸想していたということにしてはどうか、と持ちかけたのである。

 王太子、リオル・ヴァンゼルフは、十八歳となり、立太子の儀を終えたばかりであった。もともと臆病な性質で、剣技や運動も得意ではなく、室内で書物を読むことを好んでいた彼は、ふたつ年上のウェルディードにより初めて女を知り、夢中になった。

 ほとんど毎晩、神殿の居住階にあるウェルディードの寝室へ忍んでいった。

 いまだ断罪される前の黒の聖女、サナが眠っている居室の前を横切って。


 近い将来、ウェルディードは聖女の身分のまま、王太子妃という新しい地位を得る予定である。二人の関係を知らしめることは、黒の聖女との繋がりを打ち消すことにも繋がるから、むしろ王太子側が率先してその噂を流した。

 だから、仮に逢瀬を目撃されたとしても、せいぜい不躾と眉を顰められるほどのことであり、罪に当たらない。

 それでもウェルディードは、昼はもちろん、夜の密会も慎重に隠した。常にあらゆる選択肢を手に持っておきたいという、彼女の性質によるものだった。

 

 王太子を使い続けるのか、別の方法に切り替えるのか。


 いま、自室に戻ってきて、巨大な長椅子に身体を投げ出すように座った彼女の脳裏にあるのも、その一点である。


 「……いかがでございましたか」


 長椅子の後ろから聞こえるのは、しわがれた声。

 ウェルディードは振り返りもせず、暑いのか聖衣の胸元をつまんでぱたぱたと風を立てながら、つまらなさそうな声を出した。


 「うん、サナ、死んでた」

 「王太子殿下が、そのように」

 「機密だって言ってたけどね。そんなのどうせ何日かのうちには厨房の使用人の耳にだって届いてるっての」

 「冥王に殺された、と」

 「戻ってきた二人は、そこまで見てないって。ただ、冥王と会敵したのは間違いないみたい。二人とも重傷を負って、それをサナが空間転移させて助けたって。さすがの黒の聖女だよね。とんでもない能力だわ」

 「……転移術。起動の核は、術者の命。仮に即時に落命せずとも、冥王の手によって、その場で……というわけですな。なるほど」

 「まあ、そこまでの術を持つサナでも、冥王討伐には至らなかったことが残念無念、ってとこね。せっかくだから、やってくれちゃったらよかったのに。あはは」


 手元のテーブルに置いてあった菓子をひとつまみ取り上げ、ぽんと口に放り込みながら、ウェルディードは笑った。

 その背に立つ男は、黒の執事服に身を包んではいる。が、ほとんど骨と皮だけという面相、ぎょろりと剥いた目の禍々しい光が人外のものを連想させた。

 薄い唇を開いて、ぺろりと舐める。


 「……さて、次の一手。どう打ちましょうか」

 「ううん……そうだねえ。伝説の冥婚も拒否されて、討伐もできず、かあ。まあ邪魔なやつも消えたんだし、のんびりと行こうか」


 よいしょ、と声をあげてウェルディードは立ち上がり、尻を掻いた。


 「とりあえず……戻ってきた二人、生贄に差し出してみようかなあ、冥王に」


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