第5話 サナ、逃げる


 サナが腕を振るうたびに、鋭く白い閃光が飛ぶ。


 広い王座の間は床も壁も磨き上げられているから、サナが動くたびに室内は雷光に照らされるように瞬いた。

 魔物たちは狼狽している。サナが向かってくるたびに、わああと声をあげ、あるいは表情を引き攣らせて右往左往している。流れ弾にあたっては敵わないと、身を低くして伏せているものまでいる。


 サナも必死である。

 逃げているのだ。王座の間の端から端へ。

 それでどうなるものでもないと分かっているが、止むに止まれずだ。

 魔物たちをかき分け、壁際に到達するとだんと壁に足を立て、反転し、そのまま両の手を組み合わせて前方へ突き出す。きいん、という甲高い音とともに光の渦が生成され、正面にいる標的に向かってまっすぐに射出される。

 が、相手は、こともなげにそれを片手をあげて受け止め、首を傾げるのだ。


 「……遊んでいるのか?」


 イーヴェダルトが形の良い口元をわずかに山形にして呟く。長い足をさっと動かすと、もうサナの目の前に到達している。


 サナの表情は、先ほどから歪んだままである。

 恐怖と、畏れと、戸惑いと。


 目の前にいるのは、この城の主、冥界の実質の支配者、冥神と人間の間に立つ冥王、イーヴェダルトそのひとである。畏怖の感情は当然と言えた。

 だがいま、その冥王の右手が彼女の肩の上の壁にどんと突き立てられ、逃すまいとするかのように細い長身が被さってきたから、サナの表情に新しい要素が加わることとなった。

 変質者に対する嫌悪である。

 目を見開き、サナは叫んだ。


 「いやあああ!」


 振り上げようとしたサナの手は、すぐに冥王が掴んでしまう。そのまま引き寄せ、顔が近づく。背けるサナの横顔に、冥王は囁くような声を向ける。


 「我は話をしようとしただけだ。そなたが逃げるから止むなくこうしておる」

 「ばっ、や、こ……この、変態……!」

 「……へん……なに? なんと申した。我が知らぬ言葉だ。何らかの呪か」

 「嫌だって言ってんのよ、覗き魔!」

 「我は冥王ぞ。使い魔ではない。が、聞いたことのない魔名だな。そなたの国にそういう名乗りで現れた我が手の者がおったか。詳しく話を」

 「やああああ!」


 なお暴れるサナの両腕を掴んで、冥王は首を傾げてみせた。

 ランドラルヌーヴは魔物たちに混じって逃げ惑っていたが、覚悟を決めたという表情で、そろりと二人の背に近づいた。


 「……あ、あの……冥王さま……サナさま、嫌がっておいで、かと……」


 肩越しにランドラルヌーヴを見下ろしたイーヴェダルトの眉が、さも意外そうに中央に寄せられている。

 

 「嫌がる? なにをだ」

 「……あ……あの、あの……おん、自らを……」

 「自ら、だと……そうか、サナは自分自身を嫌うておるのか。なんと、そうか……が、さもあろう。あれだけ手酷い裏切りと誹りを受け、護ろうとした国を追われ」

 「あの、いえ」

 「自らの存在に戸惑い、自身を見失うておるのだな。が、案ずるな。申したであろう。我はそなたのことはずっと見ておった。故に自らの存在を疑うことはない。どんな姿も知っておる。すべて、見ておった。寝顔も、食事も、風呂場での仕草も」

 「いやぁああああ!」


 風呂、と聞いた瞬間にサナの右手が冥王の戒めを逃れた。振り抜き、全力を載せ、冥王の左頬に叩きつける。その速度は相手の反応を上回り、やや骨ばった白い顎をしたたかに打ちつけた。

 ぱあん、という音が冷たい石張りの室内に響き渡った。

 最初の邂逅でも、今日においても、サナの攻撃がイーヴェダルトに通ったのは初めてのことである。

 この場の全員の動きが止まった。空気が凍る。

 が、それを破ったのは冥王自身であった。


 「……素晴らしい」


 蒼い瞳が半月に歪められている。口角を小さく持ち上げている。高い鼻筋までかかった白金の前髪をさらりと揺らして、顔を元の位置まで戻す。

 愉悦、というような表情を間近に向けられたサナは、ふたたび叫ぼうと息を吸ったが、果たせなかった。

 イーヴェダルトの胸に自らの横顔が押し付けられていること、背中に廻った両腕が彼女を抱きしめていることを発見し、サナは瞬時、意識を手放しかけた。

 サナの黒い髪になかば顔を埋めるようにして、冥王は耳元で声を出す。


 「我が結界をこれほど容易く越えてくるとは。やはり、そなたは……だが、無体をするでない。腕は痛んでおらぬか。手首は大事ないか。そなたの身体、もはやそなただけのものではないのだぞ。我が妻よ」


 状況を拒否するように消失しかけた意識が、イーヴェダルトのその言葉で瞬時に覚醒した。逃れようともがき、冥王の引き締まった硬い背中をどんどんと叩く。


 「ぬ、暴れるでない。まったく不思議な人間だな、そなたは……なにをそう、嫌がるのか」

 「……お、畏れながら」


 ふたたびの勇気を振り絞ったランドラルヌーヴがおずおずと上目に声を出す。サナはむうむうと声を出しながら、捉えられた魚のように身を捩らせている。イーヴェダルトはそんなサナの髪の匂いを嗅ぎながら、ちらりと横目でランドラルヌーヴの方に目をやった。


 「……そういう、ところ、かと」

 「なにがだ」

 「あの、サナさま、冥王さまをご存知ないわけで……というか、冥王さまを討とうと思って来られたわけで……なのに捕まって、気を失って目が覚めて、そうしたら自分のことをずっと見てたとか言われて……」

 「ふむ」

 「いきなりぎゅってされて、ほくろとか、お風呂も見てたとか、言われて……」

 「いけぬか」

 「いけません」

 「何故か」

 「なにゆえでもです。女性です。サナさま。だめです。そういうの」

 「わからぬ。サナは我が、半身ぞ。妻ぞ」

 「まずそこです。いまだ奥方さまではございません。ご本人のご承諾も、そもそもご説明もされておられません。しっかりご説明なさって、受け入れていただいて、それからお披露目の宴ののちに晴れて……あの、どちらへ」

 

 イーヴェダルトはサナの腰に手を入れ、抱えるように持ち上げて、ランドラルヌーヴに背を向けて歩き出した。


 「宴が必要なら、いたそう。同時に説明もすれば良いのだろう」


 ランドラルヌーヴはぱっと走り、冥王の背にしがみついた。

 決死の表情である。


 「だあめえでえすう」

 「放せ。サナが嫌がるであろう」

 「嫌がられてるのは冥王さまですう」

 「愚かなことを。の、サナ」


 手元に抱えたサナの顔を見ようと、冥王は穏やかな笑みを浮かべて、自分の胸から彼女の顔を離す。強く押し付けられて呼吸も途絶えがちだったサナは、ぷはあと息を吐き、思い切り吸って、目の前にあるイーヴェダルトの秀麗な目元を渾身で睨みつけた。


 「嫌に決まってるじゃないこの覗き魔ど変態おろしてよはやくっ!」


 強い声を間近にぶつけられ、冥王は目を見開き、それからふっと息を漏らした。


 「ようやくそなたの口から願い事を聞けた。どうだランドラルヌーヴ、すでに我に心を開いておる証左ぞ。案じておるのは貴様ひとりだけよ。ふふ」

 


 



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