第2話 惜しむものなどいない


 眩しいほどの白。

 サナの意識は、光のなかに揺れている。

 

 幼い頃に過ごした部屋。

 暖かく柔らかな白に満たされて、小さな窓から差し込む陽光を受けて、サナはいまベッドの上でまどろんでいる。

 干した香草の香り。よく眠れるようにと、いつも母親が布に包んで枕の下に差し込んでくれていたものだった。懐かしい匂いを胸いっぱいに吸って、ゆっくりと吐く。薄く目を開ける。

 溢れる光のなかに、大きな淡い茶色のぬいぐるみを見つけた。

 あ、と声を漏らして、寝転んだまま手を伸ばす。

 神殿の仕事で留守がちだった両親に代わって、幼い彼女をいつも慰めてくれていたぬいぐるみ。ずっと一緒にいたはずなのに、今のいままで忘れてしまっていた。何通りかあった名前のうち、最も気に入りの名を呼んで、強くつよく、抱きしめる。


 「……う、苦し……」


 うめくような声。

 サナはぬいぐるみを前に突き出すようにして、まじまじとその作り物の瞳を覗き込んだ。と、ぬいぐるみの輪郭がふわりと薄らいでゆく。揺れて不確かになり、背景と重なった。

 同時に溢れるほどだった周囲の光も翳りはじめ、墨を溶いたように黒に沈んでいく。


 身を起こそうとしたが、動けない。

 周囲を覆いつつある闇が彼女を重く厚く包み、抑えている。

 声も出せない。

 もがき、首を振り、手足を張る。

 しばらくそうしていたが、意識にのぼらない力が彼女を動かした。呼吸を整え、目を瞑り、眉間のあたりに意識を集中して、退魔の神法を詠唱する。

 周囲の空気がいちど止まり、それから急速に彼女の周囲に凝集して、ばん、と弾けた。


 「ひゃあっ」


 再びの声、そして何かが転がる音。

 ゆっくりと目を開く。


 視界は霞んでいる。

 その視界が印象したのは、氷。

 天井も壁も、すべて白と蒼の意匠で統一されていたためだ。

 小さく左右に目をやって、ゆっくりと半身を起こす。

 広い部屋だった。が、調度品も、窓もない。その中央あたりに大きなベッドがあり、サナはそこに横たえられていた。ベッドも、あるいは半身にかけられていた寝具もまた、淡く蒼を帯びた白。

 頭痛を感じてこめかみを押さえた。目を細め、焦点を合わせる。


 と、ベッドの脇、身体ひとつ分ほど離れた位置に、なにやら大きな茶色の毛玉を見つけた。


 「……犬……?」


 そのなにかは、動いている。震えているように見えた。長く伸びる尾のようなものを怯えたようにくるりと巻く。


 「……どうして、こんなところに、犬が……」


 小さく呟くうちに、こんなところ、という自分の発した言葉の意味がゆっくりと浸透してきた。

 こんな、ところ。

 ここは……どこ?


 その言葉が心に落ちた瞬間、サナは爆発的に動いた。

 ばん、と跳ね起き、ベッドに手を置いて身体を転がすように床に降りる。全身に強い痛みを感じながら、サナは床に膝をつき、右の指先を揃えた。使用可能な神法を脳裏に列挙する。深く吸い、細く吐き、いつでも防御と攻撃を展開できるように準備する。

 丸くなっていた犬がその動きにびくりとし、さらに小さく固まった。


 視線の端に、扉がある。

 複雑な彫刻が施された天井までの大きな扉。

 すでに部屋には窓がないことを見てとっている。

 選ぶ余地はない。

 サナは躊躇わずに床を蹴り、扉に走った。

 陶器のような素材の巨大な把手に手をかける。


 「あ、だめ」


 後ろから、声。

 が、サナに振り返る余裕はない。

 そのまま把手を引くと、抵抗もなく開いた。冷たい空気が流れ込む。


 走り出ようと脚を出す。

 その、刹那。


 立ち塞がるものに気づいて、瞬時に後ろに跳躍した。

 跳びながら複数の神法を詠唱する。周囲に薄く光が舞い、なかばは盾となり、なかばは眩く輝く矢となった。矢はすべて即座に扉の向こうに向けて射出され、そのすべてが命中した。ばずん、どずん、という鈍い音。

 が、相手は微動だにしない。

 黒い影。

 ず、と、闇を引き連れたその影が部屋に踏み入ってくる。

 

 サナは立て続けに十通りの攻撃神法を生成し、後退しながら使役した。いずれもが対象を捉えたが、その歩みを止めることができなかった。

 

 「……冥王」


 上目に睨みながら、サナは小さく呟いた。

 面をつけていない素顔に相対するのは初めてだが、纒う冥の力と気配とがその正体を明瞭に説明していた。

 言葉と同時に振りかぶった手が眩しく輝いている。

 だが、その腕を振り抜くことはできなかった。


 影、イーヴェダルトは、十歩ほどもあった間合いを瞬きの間に詰めていた。ぶわりと黒のマントを揺らしてサナの前に立ち、傲然と冷たい瞳を下ろす。

 その圧力にわずかに怯んだ刹那、サナの腕は掴まれていた。


 「……っ」


 振り解こうとするが、叶わない。腕力の差もある。が、なにより力が入らない。イーヴェダルトの指が触れた瞬間、彼女の身体の芯が硬度を失っていたのである。

 右手で左を掴んでいる。その手をぐいと引き上げ、冥王はサナの身体を間近に置いた。呼吸がかかる距離で、彼女は氷点下を感じる蒼い瞳を見上げさせられている。


 「……目覚めたか」


 低く出された声に、サナは答えない。髪と同じ黒の眉をきつく寄せ、射抜くような視線を真っ直ぐ相手に向けている。

 その背に、イーヴェダルトは左手を回した。

 サナは目を見開いて身を捩り、抵抗した。だが意に介する様子もなく、掌中に収めた小動物にするがごとく、ふわりと彼女を持ち上げる。くるりと空中で回転させ、背と腰に手を添えた。


 「な」


 声をだし、なおも暴れるが、そのまま運ばれた。

 運ばれた先は、ベッドだった。

 イーヴェダルトはその横に立つと、ゆっくりと腰を落とし、膝を立てるかたちでサナを白い布地の上に置いた。

 反射的に跳ね起きようとしたサナの肩口が押さえられる。


 「いまだ十日だ」

 「……え」

 「そなたの眠りだ。生命の火を補う秘儀を使った。あと二日の休息を要する」


 そう言い、イーヴェダルトは言葉を発しようとしたサナの眼前に手のひらをかざした。ふわと暖かく柔らかな香気が彼女を包んだ。なんとも言えない心地よさを感じて、サナは全身の力が抜けるのを自覚した。

 蠱惑を使われた。

 サナはそう判断し、悔しさと不安から首を持ち上げた。が、その額に当てられた冥王の指先は、小さな不安の心すらも吸い上げ、溶かしてしまう。

 

 「……無駄、よ」


 顔を背けて小さく出した声に、イーヴェダルトはわずかに眉を上げてみせた。


 「わたしを生かしておいても……人質にしても、意味はない」

 「……ふむ」

 「知っているのでしょう。わたしは追放された身。惜しむものなど、いない」

 「そのようだな」

 「それとも、心を支配して道具として利用するつもりかしら。生憎だけど、わたしの魂には純潔の秘儀をかけてある。尊厳を奪われた瞬間に、身体も魂も砕け散るわ」

 「……ふ」


 小さな息とともに、冥王の冷たい蒼の瞳が半月のなかに歪んだ。

 嘲笑されたと感じたサナは顔を振り向けたが、冥王はすでに立ち上がっていた。


 「眠るよう努力せよ。腹は減らぬはずだが、必要であればランドラルヌーヴに」


 そう言って視線を向けた先には、震えて小さくなっている茶色の毛玉。

 冥王はわずかに目元を緩めてみせたが、すぐに厳しい表情に戻る。

 

 「ランドラルヌーヴ。その娘の眠りを保護せよと命じたはずだ。なぜ目覚めることを許した。夢魔たる貴様が」

 「ひ、ひゃいっ」


 言葉を向けられた途端、毛玉はぽんと飛び上がった。

 丸められた毛皮が解けるようにめくれると、内側からは人の肌が現れた。同時に毛の量が少なくなり、一方で手足が伸びてくる。

 

 「……す、す、すみま……せ」


 目にいっぱいの涙を浮かべ、大きな耳をぺたんと倒し、長いしっぽを足の間に巻き込んでいる。服とも毛皮とも取れるものに包まれた体格は女性を思わせたが、黒い鼻先と長い獣髭のほかは少年にも少女にも見える幼い顔つきだった。


 「あの、急に抱きつかれて、びっくりして……人間、はじめてで、怖くて……」

 「慣れろ」


 短く言い捨て、イーヴェダルトはばさりとマントを翻した。

 扉に向かいかけ、思いついたようにサナに振り返る。ちらと視線を落として、なにか言いたげな表情を浮かべたが、そのまま出て行った。


 ランドラルヌーヴはそれを見送り、扉が閉まると、ふうと息を吐いた。かくんと肩を落とし、そのままで振り返る。泣き笑いのような表情をにへらと崩してみせた。


 「……あの……お腹、空いた……?」




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