冥王の寵妃 〜冤罪追放された元聖女、冥界の主に偏愛される〜

壱単位

第1話 この命と引き換えに


 冥王、イーヴェダルトが動いた。

 右手を持ち上げ、人差し指と中指を揃えて前に向け、わずかに横に振る。


 鋭い音とともに空気が刃となり、剣を振りかぶって跳躍しようとしていた剣士エルガを襲った。咄嗟に剣の柄で防いだものの、巨大な力で横合いから殴られたように吹き飛ばされ、巨大な石の柱に背を打ちつけて昏倒した。


 「エルガ……っ!」


 サナが叫ぶと同時に、その左で炎の渦が生じた。魔石杖を高く差し上げ、魔法使いの黒いフードを目深に下ろしたネイゼリアの周辺で、炎が踊っている。彼女の強い口調の詠唱が終わった瞬間、炎は巨大な槍となってイーヴェダルトに向かった。

 が、槍は消失した。

 イーヴェダルトは手のひらを前にかざしている。その表面で、じじ、と小さく炎の名残が揺れ、消えた。


 と、王座の前に立っていたイーヴェダルトが足を踏み出した。その身体が動くたびに空気がびりりと震える。

 黒地に銀の彫刻が施された不気味なマスクを被っており、表情はわからない。が、背の半ばまで流した白金の髪が風を受けたようにふわりと舞っている。

 それはおそらく、この、人と神との間に立つ男の心底からの怒りを表現しているものと、この場の全員、人間だけではなく居並ぶイーヴェダルトの配下……冥界の魔物たちまでもが同じことを考え、そして同じように戦慄している。


 「……愚か者どもめ」


 イーヴェダルトが呟いた言葉は冷たい旋風となり、冥宮の王座の間を吹き抜け、サナたちの魂の温度を下げた。雷鳴のような音が轟く。青磁のような、あるいは氷のような色で埋められた冥宮全体が震えている。

 

 「……う、うああああっ!」

 「あっ、ネイゼリア、だめっ」


 堪えきれなかったのだろう。ネイゼリアは両手を組み合わせ、風の陣を作って飛翔し、一息に冥王の頭上に到達した。短い詠唱とともに両手が発光する。左右に大きく両手を広げ、それを前方、つまり彼女の眼下のイーヴェダルトに向けて振り抜く。

 強烈な閃光。サナは思わず目を背けた。光が収束し、目を戻す。

 と、目の前で全身を炙られたような姿で転がっているのは、ネイゼリアだった。


 サナは即座に走り寄り、ネイゼリアの頭を膝に乗せ、回復の神法を適用した。ほぼ停止していた鼓動が回復する。サナは息をつき、その姿勢のままで顔を上げた。

 冥王は、すでに十歩ほどの距離まで迫っている。

 柱の横で昏倒しているエルガに目を走らせ、瞬時に計算する。


 できる。今なら。

 全力を……残りのちから、すべて使えば。


 冥王が踏み出す音を聞きながら、サナは目を閉じた。

 身にまとう神官の白い装束がうっすらと輝く。

 夜の闇のごとくと、あるいは不幸をもたらす不浄の色と形容された黒い長髪がふわりと持ち上がり、意思を持つかのように踊る。

 全身の光が膝下のネイゼリアに伝わる。そして離れた場所のエルガをも、光は包み始めた。


 「……さようなら、ありがとう、ここまで一緒にいてくれて」


 サナが小さく呟くと、二人の周囲に複雑な文様が浮かび上がり、ひときわ眩しく輝いて彼らの姿を隠し、ふいに消えた。消えたあとには、影はない。ネイゼリアもエルガも姿を消していた。

 サナは目を細く開け、秘儀である空間転送が成功したことを見届け、ふうと息を吐いた。すぐに顔を上げて冥王に向き直る。立ち上がろうとしたが、ふらついた。

 秘儀は、彼女の生命の火を材料として実行され、その九割を消費したのである。


 「……転送か」


 イーヴェダルトが重く低い声を出した。


 「そのような術が使えるのであれば、なぜ途上で逃げなかった。なぜ、我を討伐せよなどという、愚かしい王命に従った。聖女の地位を剥奪され、汚名を負って、なぜむざむざ命を落としにやってきた」

 「……二人のためよ」


 サナは手を膝につき、それでも輝きを失わない黒翡翠の瞳を冥王に向けて、短く言い捨てた。


 「……わたしを……黒の聖女を最後まで信じて、ついてきてくれた、ネイゼリアとエルガ……王命を断れば、わたしとともに処刑された。途中で戻せば、必ずわたしを救いに来た。だから、あなたに……冥王に、わたしが殺されたと確信できる場所に来るまで……使わなかった」

 「友のために、無駄死にをしに来た、というわけか」

 「ちがう」


 サナはよろりと背を伸ばし、荒く息を吐きながら足を踏み張った。


 「……わたしの力、黒の聖女の力。根源はあなたと同じ、冥界に根ざすもの。だから、わたしの力を……わたしの心臓を、差し上げる。それであなたの力は大きくなるはず……その代わり、もう、人々を襲わないと、魔物を引き上げると、約束して」


 イーヴェダルトはなにも応えない。

 足も止めない。そのままサナの正面に至って、彼女を見下ろす。

 膨大な力をびりびりと肌に感じる。相対しているだけで身体の芯を灼き貫かれるようだと、サナは薄れた意識の奥で考えている。

 が、恐れてはいない。怯える気持ちが起こらない。

 おそらくもう、気が触れたのだろうと、自分自身で判断している。むしろ、そうでなければならない。さもなければ、王宮の者の……白の聖女の言うことを、認めることになってしまうから。


 黒の聖女が、冥界の魔物を呼び込む秘儀を行なっている。

 ここ数年で急増した魔物の襲来が、黒の聖女……力と技術の聖女として国を護ってきたサナのしわざだとする告発があった。それも立て続けに、いくつも。

 奇しくも、王太子がサナを見初めたという噂がたった直後だった。


 当初は一笑に伏していた王宮も、複数の証拠が届けられるに至ってサナを取り調べないわけにはいかなくなり、そこで行われた神聖秘儀で、サナの心が光に背き、冥界に向いているとの占断が現れた。

 まったく身に覚えのないサナは強く反論したが、聞き入れられなかった。

 王の判断は、死罪。

 が、条件が付された。

 王国の北の果てに存在するという、冥宮。死者が冥界へ赴く際に通過するとされるその場所に、人と冥神との申し子が棲み、父たる冥神にも背いて人の世への侵出を企てているという。

 その申し子、冥王を討ち取ってくれば赦免する。

 裁きの場で跪くサナに、王太子は王の宣旨を震える声でそう読み聞かせた。

 その横には、白の聖女。

 サナと同時に聖女に見出され、ともに学び、ともに国を護ってきた白の聖女……叡智の聖女が、王太子に身体を擦り寄せるように立ち、薄く微笑を浮かべてサナを見下ろしていた。


 すべてを理解したサナは、条件を受け入れた。

 汚い黒髪の元聖女、不幸を呼ぶ魔女と罵られながらの旅立ち。戻ることが許されないであろう道行きに同行を願い出たのは、共に疑いをかけられた幼い頃からの親友、剣士エルガと魔法使いネイゼリアだけだった。


 「……愚か者ども」


 先ほどと同じ言葉を吐き捨てるように告げて、冥王イーヴェダルトは侮蔑するように顎をあげてみせた。


 「そなたは我を倒せると、本気で思っておったのか」

 「……いいえ」

 「我がそなたの願いを聞き入れ、魔物たちを引き上げると思っておるのか」

 「……わからない」

 「では、無駄死にではないか」

 「ちがう」


 言い切ろうとして、サナはごほっと咳き込んだ。血が口の端に滲む。すでに残る生命の火は少なく、本当はこうして立っているのが精一杯なのであった。


 「……望まれなく、なったって……誰の希望にも、ならなくたって……民の、ために、すべて……投げ打つ、それが、聖女の……生きる、意味……」

 「……下らん」

 「……約束を……わたしの、命と、引き換えに……」

 「断る」


 サナは冥王の言葉にかっと目を見開いたが、すぐに瞼が下がってくる。

 同時に身体が揺れ、膝が折れ、がくりと倒れ込む。

 転倒すると思われた、その時。


 冥王の手がサナの背に回った。

 意識を失い、首を横向きに垂れた彼女の身体を抱え上げて、冥王はしばらく動こうとしなかった。

 間近でサナの白い顔を覗き込む。

 と、顔を覆うマスクの中央に光の筋が走った。

 そこを境にマスクは割れ、左右に開き、すうと形を失って消えた。


 切れ長の目を哀しそうに細めて、イーヴェダルトは蒼い瞳でサナを見下ろしている。

 白く細い顎が動き、小さく言葉を発した。


 「下らぬ。あんな下衆どものために命を捨てるなど。二度とは言わせぬ」


 そうしてその唇が、サナの額にゆっくりと近づく。

 軽く触れる。

 触れながら、誰にも聞き取れぬ声で囁いた。


 「……やっと会えたな。花嫁よ」


 

 


 

 

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