第3話 あたたかな粥
視界の左手は雪を戴いた急峻な峰。
右手は広大な森林。その向こう、平野を隔てて遠く王国領が霞んで見える。
サナは先ほどからずっと、このバルコニーで風景を眺めている。
椅子とテーブルは部屋と同じ白と蒼。いかにも硬質と見えた素材は、だが、座ってみれば思いのほか柔らかく身体を受け止めてくれた。横の小さなテーブルには、やはり白の小さなカップ。薄い赤の液体が満たされている。
穏やかな陽光で暖められた空気がサナを包んでいる。左手の山嶺から吹き下ろしてくる冷涼な風がときおり彼女の長い黒髪を揺らすが、考え詰めてほてった額に心地よい、と感じていた。
冥王イーヴェダルトは、あと二日の眠りを要すると宣言し、その通りとなった。冥王の手によりベッドに戻されたサナは、たわいもなくそのまま眠りに戻り、目覚めたのは今日、早朝になってからだったのである。
いちど目覚めたときと同じ、窓の無い、殺風景な広い部屋。
薄く目を開け、しばらくぼうっとしてから周囲を窺っていると、ほどなく大きな扉が開いて、犬のような耳と鼻が覗き込んだ。二日前も冥王はあまりにタイミングよく扉の前に立っていたから、サナが目覚めると感知するような秘儀が施されているものと思われた。
お目覚めですね、と照れたような表情で声をかけた犬型の夢魔、ランドラルヌーヴは、ぱたんと扉を閉めていちど退出し、大きな編み籠を抱えて戻ってきた。中には丁寧に折り畳まれた布地。
最初に着ておられた服、ぼろぼろだったので繕って洗っておきました……と、もごもごと口のなかで呟きながら、ランドラルヌーヴはベッドの縁に腰掛けたサナにそろりと近寄り、恐る恐るその足元に籠を置くと、ひょっと扉の方へ飛び退り、出ていった。
言われてみれば、サナはいま、白く薄く柔らかな部屋着のようなものを着させられているのである。誰が、どうやって、と瞬時かっとなったが、所詮は虜囚。考えても詮無いことと、深呼吸をして気を逸らせた。
身支度をしたころに再びランドラルヌーヴが入ってきて、お部屋移ります、と扉の外を示した。警戒すべきところだったが、ランドラルヌーヴの気の抜けたような表情がサナから緊張を取り払っていた。
これも蠱惑なのだろうか、と、サナはぼんやり考えながらついてゆく。
簡潔だが上品で丁寧な装飾が刻まれた廊下がしばらく続いた。足元も白で統一されているが、ふわりとした感触の柔らかな素材。先ほどの部屋も廊下も、染みひとつ、毛ぼこりひとつ見当たらない。
やがてひとつの扉の前に出た。左右開きの大きな装飾扉。
ランドラルヌーヴが引きあけると、ぶわりと風が噴き出てきた。
広い。
正面に複数の窓があり、その向こうはバルコニー。昇ったばかりの朝日が差し込んできている。その暖かな橙色に染められて、ゆったりと並べられた、いかにも上質そうな長椅子なり脇机なりの調度品たちがサナを出迎えた。
先ほどの部屋より広くはない。が、居室としては広すぎる。
誰の、なんのための部屋なんだろうと、サナは呆けたように立ち尽くしていた。
どうぞ、とランドラルヌーヴが促すので、中に入る。部屋の真ん中に立っていると、ランドラルヌーヴは笑いながら長椅子を示した。
腰を下ろすと、ふわりと包み込まれるような感触。戸惑っているサナに、ランドラルヌーヴはいつの間にか用意していた茶のカップを手渡した。
しばらくお待ちくださいね、あとでお食事、持ってきます、と言って、ランドラルヌーヴは出ていった。
ぽつんと残されたサナは、部屋のなかを見て周り、寝室と衣装室、それと化粧室、なんと浴室までもが続き部屋として存在することを発見し、驚愕した。
サナは十歳の誕生日に識別の儀で聖女として見出され、それからずっと神殿住まいだったが、生家はもちろん、神殿でもこれほどの設備を見たことがない。王国でそのような部屋に暮らすのは王族だけ、いや、王と王妃の二人のみと思われた。
となると、ここは冥王の居室か……。
だが、柔らかく穏やかな印象の調度類が、あの冷たい淡蒼色の瞳とどうしてもそぐわない。
窓際に寄ると、バルコニーに出るための掃き出し窓が見えた。椅子とテーブルも見える。渡されたカップを持って出てみると、心地よい穏やかな外気がサナを包んだ。深呼吸をする。新鮮な空気が彼女の肺と心に沁み込んだ。
眼下の風景は、知っている。
この城を……冥宮を、見上げながら来た道だ。
厳重に張り巡らされた冥の力による結界を破りつつ、来たる決戦に備えて心身を整えながら、剣士エルガと魔法使いネイゼリアとともに仰いだこの城は、冷たく空恐ろしい氷の魔宮と見えていた。
どのような展開になろうとも、友は救う。この身を捨ててでも。
千回も万回も言葉に出さずに繰り返したその覚悟を思い出し、きり、とサナは胸のうちに痛みを覚えた。
無事に、戻っただろうか。
王室には報告しただろうか。
サナは、邪悪な黒の聖女は、死んだ。冥王に対峙し、命を落とした。我々はサナの手によって無理矢理に戻された。ちゃんと、そう、伝えてくれただろうか。
あるいは、逃げていても良い。王国になど戻らずに。逃げ切ってほしい。あの二人なら、どんな辺境でも生きていける。幸せになってほしい。
わたしのことなど、忘れて。
サナは、もはや霧の向こうに隠れようとしている懐かしい二人の顔を遠くに思い浮かべ、打ち消して、俯いた。自然と目のふちに暖かいものが浮いてきた。
王国を襲う魔物たちを止めることもできなかった。
冥王は、明確に断った。自分の命と引き換えとすることを。
もとより聖女たる自分は魔物たちに対峙する役割ではなく、それは王国騎士たちの仕事であり、その上にたつ王室のつとめである。
が、黒の聖女は冥界に由来する力を受けた聖女であり、近年、立て続けに国境までやってくるという魔物の話を騎士たちから聞くたびに、胸を痛めていたのだ。
力と技術の聖女であるがゆえに、攻撃と防御の神法も得手である。いざとなれば、との思いもあった。
だが、もう、手伝うことも叶わない。
サナは俯き、神官服の膝をぎゅっと掴んで、ぱたぱたと布地を叩く雫の音を肩を振るわせながら聞いていた。
と。
「お待たせしました、ごはん、持ってきました……よ……あ、れ」
室内の扉を開けて、小さな盆を捧げ持って入ってきたランドラルヌーヴは、バルコニーで深く項垂れているサナを見つけて首を傾げた。
恐る恐る窓際に近寄ると、口を引き結び、目をきつく瞑り、頬にたくさんの雫を転がしているサナの顔が見えてしまったから、大きな耳を逆立て、尻尾をぽんと膨らませて目を見開いた。
「えっ、あっ、う」
ランドラルヌーヴは盆をもったまま、できるだけ音を立てないように横歩きでバルコニーに出た。テーブルに盆を置いてから、サナの側に膝を立て、恐る恐る彼女の背に手を置こうとし、一度びくっと引き込め、それからゆっくりと添えた。
サナもびくっと揺れ、顔を両手で覆って逸らした。
「……あの……どこか、痛い……の」
「……たく、ない……」
ランドラルヌーヴはしばらく声を出せず、追い詰められたような早い呼吸をしていたが、やがてなんとか言葉を搾り出した。
「……ご、ごはん……あの、あなたの、夢のなかから、好きそうなの探して……作ってもらった、から……」
濡れた目の端に、サナはテーブルに置かれた皿を見た。
チーズをたっぷり混ぜ込んだ、あたたかなミルク粥。幼い頃に母がよく作ってくれたものだった。
サナは、声を抑えることができなくなってしまった。
ランドラルヌーヴは黙って背を撫で続け、待った。
しばらくすると落ち着き、添えられた木のカトラリーを取り上げて、しゃくりあげながら、サナはひとくち、それを含んだ。
「……美味しい……」
「……よかった」
サナは横を見て、ランドラルヌーヴのくるんと丸い目が濡れていることに気づいて、意識せずにふっと吹き出してしまった。
「優しい、のね」
サナの声に、ランドラルヌーヴは慌てて二の腕で顔をこすり、手を振ってみせた。
「あ、や、あの……冥王さまが、そうしてやれ、って」
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