03.完全、或いは無名の少女



 少女は影の男の追跡の末、林の中に明らかに人の手によって整地されたであろう開けた場所を見つけた。

 幾つか木が伐採されていて、剥き出しになった切り株が目立つ。土地の中心には小さなテントが設置されていて、その近くで火を起こしているのか煙も上がっている。

 周囲からは殆ど物音がしない。火が燃える音と時より風が木々を揺らす音、その二つが聞こえるくらいで人気も感じられない。

 だが、影の男の痕跡は確かにこの場所へと導いた。少女は彼を探してテントへと近づく。


 目的の男は探すまでもなく簡単に見つかった。

 彼は火の起きている焚火の傍らで片膝をつきながら座っていた。

 少女の視界に映る彼は今も尚影のような黒い靄を纏っている。だが、火の側にいるからだろうか、先程とは違い靄は相当に透き通っていて、彼の顔や身に纏っているものを確認する事が出来た。


「……追って来たのか」


 男は少女の姿を見て呟く。少女には彼が何処か諦めたような表情をしているように見えた。

 少女が男の方へと歩み寄る。彼女が近づいても男が何か行動を起こす様子はない。少なくとも、彼女に危害を加えるつもりはないのだろう。

 少女は男の隣に立ち、抱えていた剣を地面に置く。鞘のない抜き身の剣を安全に渡す方法が彼女には思いつかなかったからだ。


「お返しします」

「……あぁ、助かるよ」


 態々剣を返しに来るとは思っていなかったのか、男は僅かに驚いたようだった。そして、少女に感謝の言葉を述べた時、ぎこちなくはあったものの彼は確かに小さく微笑んだ。

 男は剣を取ろうと手を動かし、そして剣に触れる直前で動きが止まった。静止していたのは刹那、彼は誤魔化すように手で首を掻いた。

 彼は極めて平静を繕って少女を見る。その表情は一見すると無表情にも近しい穏やかなものに感じられるが、少女の瞳には何処か陰りを隠しているように見えた。


「立っているのもなんだ、君も座ってよ」

「……では、お言葉に甘えます」


 少女だけを立たせて自分自身が座っている事に思う事があった男は彼女に座る事を勧める。断る理由のない少女は彼の言葉通りにその場で座った。つまり、男の真隣である。

 何故、隣なのか。今の状況で見ず知らずの人間の隣に座る事など普通あるだろうか。男の思考にそんなノイズが走る。少女を見ても、彼女から特別な何かを感じ取る事は出来ない。世間知らず、そう結論づいた。


 静かな時間が流れる。焚火の傍ら、二人が炎の温もりを浴びている。炎が弾け、パチパチと音を鳴らす。鳥の囀り一つ、聞こえない。



「……一つ聞いてもいいかな」

「構いません」


 男は揺れる炎を見つめながら尋ねる。

 感じられる程の風も無いのに炎はゆらゆらと揺られている。けれど風が吹いた程度で炎が消える事はない。

 不思議なものだと男は思う。その消えぬ強さは何処にあるのだろう。


「さっき、あの馬車で、君はどうして……いや、俺に礼を?」

「助けていただいたからです」


 少女の答えは酷く簡潔だった。それ故、男を苦しめる。

 男は少女を救ってなどいない。只の偶然に過ぎない。そう言うのは簡単だ。だからこそ、その言葉に意味はない。何れ程繕ったとしても、結局はただ事実が残る。

 救えてはならなかった。救える筈が無かった。

 男は『出来損ない』であるのだから。


 男の表情が確かに陰りを見せる。



 少女には彼の事情など何一つ分かりはしない。彼女には一欠片の共感も、理解も、同調も、何一つ出来る事はない。けれど何となく、彼に思考を続けさせてはならないような気がした。

 ほんの少し、彼が悲しそうに見えたから。

 "只の少女"が口を開く。今は唯、言葉を紡ぐ。


「私はきっと、わがままでありたい」


 少女のモノローグ。男の事情は必要ない。

 彼はただ、演者の独白を聞く一人の観客であれば良い。


「そう、私はわがままでありたいんです」

「……何を突然に」


 少女の言葉に男の思考が割かれる。

 それで良い。彼女は男を無視して言葉を続ける。


「私は従順に生きてきました。"完全"に自由意志は必要なかったから。でも、"私"は違う。此処に在る今なら、私は不完全であれる」

「…………」


 自身を無視し突然饒舌になった少女に対して、男は言葉を挟み込む隙を見つけられなかった。けれどそれ故に、彼は自分の言葉ではなく少女の言葉に意識を向けていく。

 少女が何を言っているのか、或いは何を言いたいのか、男に多くは分からない。ただ、無表情で感情のない筈の少女の声から、彼は確かに温かさのようなものを感じ取った。


「だから……少しだけ言葉にしてみませんか。私はわがままである為に、あなたから言葉を聞きたいのです。生き方を知らぬ私でも、話を聞く耳は持っている筈ですから」

「…………」


 彼女の言葉を聞いて男は驚く。彼は漸く、少女が自身を気遣ってくれているのだと気付いた。自身が抱えている悩みを吐き出す相手になろうとしているのだと。


 きっと少女も抱えているものがある筈だ。護衛を殺した相手に御礼を言うような子供が、何かを抱えていない筈がない。

 そんな状況に置かれている少女に心配される程に自分は酷い顔をしているのか、と男は内心で自嘲する。


 抱えているのは捻れきった自分の罪。そんなものでも吐露してしまえば楽になれるだろうか。寧ろ却って自責の念に押し潰されるだろうか。

 男は視界の端で少女を捉える。朝焼けのような少女の瞳は怖くなる程に澄みきっている。だが、何故だろうか。彼にはその澄んだ瞳の奥底に、醜い業が感じられた。



「くだらない話なんだ」


 気が付けば、彼は口を開いていた。

 それは男の無意識だっただろうか。或いは、彼の心がその罪を抱え兼ねたのかもしれない。


「私には誰も救えない。他でもない自分自身がそう決めつけた」


 彼は揺れる炎を見つめながら言葉を紡ぐ。ただその目は焦点が合っていない。

 少女には、彼が此処にはない何かを幻視しているようにも見えた。


「生きていく必要があった。教会のせいで真艫な職には就けなかった。死なずに残った中途半端な正義感は足枷になった。誰も救えない私が誰かに出来る事なんて何もなかった。結局、多くを諦めて、私は他人から奪って生き延びた。殺しの才だけは人よりもあったから」


 男のモノローグ。無意識の内に彼の自称が過去のものになる。彼が未だ騎士であった頃には礼節が必要だった。

 男が教会の守護騎士から追放されて以降、彼は人としての権利を失った。それが何故であるか彼には分からない。だが、教会の手の及ぶ汎ゆる方面から、男は真っ当な人としての扱われなくなってしまった。それが結果だ。

 『出来損ない』を受け入れた彼は誰かの為になる事が出来ない。事実はどうであれ、彼はそれを信じ込んだ。

 それでも"約束"が生きる事を強制する。彼が選んだ道は最も簡単で、そして先がない。


「今日もまた、誰かから奪うつもりだった。だから馬車の護衛を殺した。……それが君を救う事になってしまった。只の偶然でも、私は救えてしまったんだ」


 男の行動には『出来損ない』は誰も救えないという前提が存在する。だが、少女が彼によって救われた事実はその前提を否定する。


「私にも誰かを救えたなら、誰も救えないという前提が初めから崩れるなら……私には選択肢があった筈なんだ。真艫な職に就けなくとも、誰かを救った見返りで生きていく事も出来た筈なんだ」


 脆い前提に依存した選択は酷く不安定で、けれど既に後には退けない。間違っていると気付いた所で、それを認める事は許されない。

 誰かを救う事が出来たなら、例えそれが騎士の真似事であろうと、彼の"約束"が呪いとなる事は無かったかもしれない。


「未だ殺せない中途半端な正義感が私を苦しめる。名前も知らない誰かは私によって殺された。彼等は私のせいで死んだ。私はもう、自分自身を『出来損ない』で正当化出来ない。私の行動は同情の余地もない悪になった」


 彼の選択は確定されたものではなかった。

 彼自身がそうであると決めつけて、そして彼自身が選択した。仕方がないと自身を納得させる事が出来なくなった時、彼は自身を悪であると定義する。

 彼は未だ正義というものに縋っていたかった。正義は正しく、またそれが願いであると信じているが故。


「そんなくだらない話なんだ。自業自得で取り返しのつかない所まで堕ちてしまった。それだけの事なんだ」


 男はそう言って悲しげに笑う。

 そうしなければ、彼は自身の存在を保っていられないような気がしたから。




「"くだらない"というよりも"つまらない"話ですね」


 少女があっけらかんと言い放つ。

 予想だにしない彼女の物言いに、男は思わず唖然とした。


「正義だとか悪だとか、自分の立ち位置を明確にする事がそこまで大切でしょうか」


 少女は変わらず無表情で、彼女の言葉が本心からである事は疑いようもない。


「……中途半端な正義感、でしたか。別にそれを殺す必要は無いと思います。棄てられないのなら抱えていくしかありませんから」


 彼女は男を決して否定しなかった。

 例え、彼がその偽善のような正義感に苦しめられているとしても、彼女はそれを棄てる事を強制しない。

 寧ろ、特別考慮するに値しないと考える。


「だからといって、あなたが言う悪を棄てる必要もありません。正義でなければ悪である、などという単純な仕組みで世界は回っていない」


 正義と悪は対局のようであって、その実殆ど同一の概念である。それ等二つは捉え方でしかなく、そこに大きな意味はない。

 故に、一般に正義だ悪だと言われる行動が両立するのは決してあり得ぬ事ではない。

 中途半端な正義感を持っていたとしても、それが悪を禁止する絶対的な理由にはなり得ないのだ。


「仮に、全ての行動が善性一色の者がいるとすれば、それは最早人ではないでしょう。それこそ"彼等"の求めていたような"完全"そのものでしょうから」


 この時、少女は表情を歪ませた。




「そういう訳ですから、考え過ぎるのは良く無いと思います」


 そう言って少女は男の方を見る。


「……話は変わるのですが……もう一度、私を助けてはもらえないでしょうか」

「…………」

「実のところ、生き残る為の当がありません。唯一、あなただけが切っ掛けになりそうなのですが……」

「……はぁ」


 男は小さく息を吐いた。

 凡そ暗い話をする時間は終わったのだと悟った。


 少女は男を気遣っていたのか。或いは利用する為、戯言を吐いたのか。無表情な少女からは何も読み解けない。

 ただ、少女が今も助けを求めた。そして、男にはそれを叶える能がある事が証明されてしまった。


「……そう簡単に割り切れはしない。だが、今更変える事も叶わない。結局のところ、人はそう変われはしない」


 男はそう言うと剣を握り立ち上がり、それを鞘に収めた後軽く身体を伸ばす。


「俺はこれからも"出来損ない"で、更には道を踏み外した愚かな人間だ」


 彼は笑いながら言う。


「それでも良ければ手を貸すよ。……ただ、平和な生活は欠片も確約出来ないけれど」

「生き残れるかどうかの瀬戸際ですから。少しでも私を救ってくださるなら、それ以上望む事はありません」

「……そうか」


 小さく呟くと彼は少女へと手を伸ばす。少女はその手を取り立ち上がった。


 彼の手は温かかった。



「何はともあれ行動しないといけない。先ずは最寄の廃棄街に向かう」

「廃棄街……?」


 少女には聞き馴染みのない言葉だ。

 棄てられた街、街として機能しているなら彼女が生き残る土台になるかもしれない。


「諸々の事は移動しながら話そう。此処から一時間……いや、君がいる事を考慮すればその倍は掛かるかもしれない。日が落ちる前には街に辿り着けるようにしよう」

「分かりました。……此処のテントはそのままにするのでしょうか?」


 少女が周囲を見渡しながら尋ねる。

 男は一瞬考えるような素振りをみせたが、『元々誰かから奪った物だ』とそれらを棄てる判断を下した。


 棄てるなら、それはもう要らない。

 寧ろ、此処には無い方がいいのかもしれない。テントがある事は此処に男がいた事を示す証拠になる。彼は痕跡を残す事をそれ程気にしていないのかもしれないが、少女は違う。

 少女にとって、今の彼は"協力者"だ。


 ――痕跡は残させない。

  例え、"完全"であろうと追わせてなるものか。――


「切り株に気をつけてください」

「切り株に?」

「はい。位置が重なると"今"にある存在が弾け飛びます」

「……すまない、何の話だ?」

「"回帰する"」


 少女が一言声を零す。

 その刹那、伐採されていた筈の木は全てそうなる以前の状態に、焚火やテントは何もなかった"初め"に戻された。

 人為的に整地されたこの場所は、元々そうであった林へと復元されたのだ。


「これは……」

「無事ですか? 今後、諸事情により私は追われる身になると思いますから、少しでも憂いは断ちたいのです」


 男は眼前で起きた出来事に驚いていた。

 だが、どうにも違和感がある。彼の反応は確かに驚いているものではあったが、目の前で超常的な事象が起きたにしてはやや弱い。

 少女は不思議に思ったものの、直ぐにその思考を捨てた。彼を疑う必要はないのだから。


「向かいましょう。此処から何方に?」

「……そうだな。今は廃棄街へ。暫くは木々の間を進む。はぐれないように俺の後を追って来てくれ」


 そうして、二人は木々の合間を歩み始めた。





「そういえば、未だ名乗ってなかったな」


 ふと歩きながら、男が呟く。


「俺の名はクラリス・■■■■■」


 少女の思考にノイズが走る。

 "何一つとして異常はない。"


 名乗られたのなら名乗り返すべきなのだろう。

 少女にもそれが常識であると分かっていたが、彼女には応える事が出来ない。


「私には名前がありません。そもそも必要とされていなかったようですから」

「それは……」

「何も気にする必要はありません。人によって姓の有無やその名称が異なるように、ただ私には名前がなかったというだけ。謂わば、一種の個性のようなものです」


 少女は言い切る。

 しかし少しして、彼女はほんの僅かに困った表情をした。


「ですが、確かに困りました。呼称がなければ、些か不便でしょう」

「……はぁ、随分と君のペースに呑まれているような気がするよ。呼び名も廃棄街へ向かいながら考えるとしようか」


 "出来損ない"と"無名の少女"。

 男は少し懐かしさを覚えた。


 "約束"はこの出会いを呪うだろうか。

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それは確かに『出来損ない』だった zoom @zofrom

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