◆ ◆ ◆
月の無い夜の標の森は、マリテットを代表とした生き物の生活音が消えて、無数のマーテナの控えめな囁きだけが支配していた。森は久しぶりに訪れたソルテを不思議と拒むこともなく、招き入れた。
木々は黙っていても、そこに潜む影だけはその限りではないらしく、ソルテの手にした灯火を遠巻きに見つめる気配がどこからか注がれていた。味わい慣れた異物感にソルテの足は早まった。
土を、草を、根を、葉を、苔を、枝を、踏んで踏んで踏んで、ソルテは進む。足の裏から昇ってくる決して悪くない感触を、しかし心でいなして進む。土を、草を、根を、葉を、苔を、枝を、踏んで踏んで踏んで踏んで――。
比較的若いマーテナばかりが茂る標の森の玄関を過ぎると、異様に細く枝の多いマーテナ、曲がりくねった幹を持つマーテナ、支え合って育つ二つのマーテナなどが姿を見せ、中程の森は奇怪な様相を顕していた。
広大な森の中にあって幽遠たる時の中に確として存在する名手達は、ソルテの記憶の中にまでしっかりと根を張り存在を誇示していた。ソルテはそれら絡みついた記憶の根に導かれるように歩いた。
一つの根が途切れると、また新たな根がそれを接ぐようにして現れる。小さな池を左手の木々の紗幕の向こうに臨みながらに歩いて行くと、空を覆う木々の茂りが突然消えて、夜空が現れた。
深黒の夜をその枝葉から滲ませるようにして、そこには一本の黒いマーテナが佇んでいた。他の木々や草花は寄せ付けず、黒々とした苔だけを自らの一体として身に纏うその姿は孤独だった。
空へと伸びゆく黒い枝は、何を求めて伸びるのか。寄り添う色は同一の、しかし異物の黒いきぬ。同胞は皆遠巻きにしている。ソルテはかつてこの木を見て考えたことを思い出した。今となって枝を見上げても、ソルテにはそれがわからなかった。
ソルテは開けた夜空の濃紺に、終わりを感じて少しだけ足を早めた。
足を傷めてしまったらしい。
そのことに気がついたのは、幸いにして森のほとんど最奥に辿り着いた頃だった。ソルテは、そこで待っていた最後の案内役の、その太い根の一本に腰を下ろした。足をとめて見上げたそのマーテナは、ソルテを別段拒む様子もない代わりに、やけに馴れ馴れしく感じられた。
地上でも地下でもなく空へ向けて根を伸ばすような有様の大樹は、広い領土を主張することもなく、その威容に反してひっそりと佇んでいる。他の木々に隠れるようにして、他の木々と同化するようにして大きくなったこのマーテナの本体は実はすでに死んでいる。周りの木々を巻き込んだその古木は中心で朽ちて、今はもう遺志だけを残すばかりだ。
知ったのはいつか。ソルテは思い出せなかった。他のことにしてもそうだ。ソルテが覚えたことの多くは出所の分からないものばかりで、今のソルテはそれらとの繋がりを持たず、宙に浮いている足下に土のない木だった。
ここで記憶の根を伸ばしても繋がらない。
ソルテは足の痛みを忘れて立ち上がった。大蛇のようにうねり狂う老マーテナの根に触れると、別れの黙礼をして脇を抜けていった。
根をくぐって、二本の若木の間を通ると、藪がある。その向こうにそれは現れた。
やっと辿りついた。
やっと帰ってきた。
木々が俄にざわめきを上げる。
深い森の中にそぐわない構造物。マーテナの若木の侵食を受け、半ば朽ち果てた石造りの塔が、そこにはあった。時の経過で剥落した外壁は、しかしソルテの足下に転がる天然の小石と混ざって、意外にも調和していた。それは、この塔がすっかり土地の一部となっているからであろう。
いつからそこにあるのか。それを知る者はもういない。ソルテもレトもそれを知らない。その知られざる塔にソルテは足を踏み入れた。
そこに這入ってソルテが感じたのは、懐かしさ、ではなく寒さだった。昼は日を遮り、僅かに得た熱も溜まった雨水が還る時に攫っていくのかも知れない。ソルテは、手にした灯火を体に近づけた。
淡い熱量で、足の氷をとかすと円を描く壁面に沿って歩いた。
足下はほとんど暗がりで何か得体の知れないものを踏んだ感触があったが、ソルテは構わず進む。灯火が塔の暗闇にようやく馴染んだのか、次第に一つのものを浮かび上がらせた。
壁面を這う螺旋。それは大蛇のようなマーテナの枝を絡みつかせて、耐えがたい『時の侵食』を受けてはいたが、そこにあった。それはひどく傷み、欠落し、苔まで生えていたが、臆することなくソルテは足をかけた。
苔をめくり、滑落を避け、罅を警戒して、瓦礫を蹴り落としながら、一段、また一段と、気を抜けばどこまでも滑り落ちていく想像を払いのけ、ソルテは昇る。体は少しずつ浮いていき、地上は遠くなる。かつて踏みしめたこの場所を、ソルテの足は覚えていたが、塔は決して不変では無い。
「どうして」
自身を支えきれなくなり、崩落の憂き目に遭ったその一部、昇りゆく螺旋を断ち切る欠損はソルテの歩みを阻んだ。
ソルテは、力なく膝をつく。
欠けた階段の突端から、下をのぞき込むと、続くべき螺旋の途中は、砕けて遥か下の地面に落ちていた。払いのけた欠片はその残り香だった。
火を掲げると、見上げるほどの位置に断片があった。手を伸ばしても、身を投げ出しても、続く先の先には進めない。
どこからか風が吹いたか、燃料が尽きたか、座り込んだソルテの傍らで、静かに灯火が消えた。
舞い降りる闇と静寂の中、ソルテは目を瞑った。その眦は夜露に濡れて、緩やかに零れて落ちた。
「ソルテ」
それは風のおとだった。
「ソルテ」
それは気のせいだった。
「ソルテ」
それは夢のなかだった。
「ソルテ」
それは母のうただった。
「ソルテ」
それは父のこえだった。
「ソルテ」
それは誰の、
「ソルテ」
それは、
「ソルテ」
それは、
「ソル」
それは――。
ソルテは目を開けた。
そこにはにはレトがいる。
ソルテは目を閉じた。
「レト」
「なんだい?」
目は開けないままに、再び眠りにつくようにソルテは体を横たえた。
「悪い冗談はよして」
「冗談なんかじゃ無いさ」
さあ目を開けてごらん。レトがそう言った。
「じゃあ、何?」
ソルテは手を伸ばして声の方を引っ掻いた。その手は何にも触れず、風になった。
「夢かな」
ソルテはため息をついた。
張り詰めた胸が解れていくのを感じる。
「朝だよ」
手。
ひんやりとした柔らかな指が額に触れると、ソルテは飛び起きた。
飛び起きてから、自身の眠っていた場所が階段の中程であったことを思い出した。
三度、目を瞑る。一瞬の浮遊感と墜落の想像に身構える。しかし、ソルテの身が階段を滑り落ちることは無かった。それよりも早くに、平らな床を体が打つ感触が響いた。
痛い。
ソルテは思った。しかし、そこから先は何も起きなかった。
「何遊んでるんだソルテ」
恐る恐るといった具合にソルテが目を開けたソルテの見たものは階段ではなかった。踊り場でも無く、階段の下でも無い。階段を上がった先、在るはずの無い屋上の風景。それがあった。
「やっと起きてくれたね」
風の唸りよりも高く、
マーテナの囁きよりもはっきりとした声。
「いやさ、来てくれたね」
レト。
ソルテは声を返す。
しかし、返るべき場所はどこにも無く、辿り着いた言葉がどこから来たものであるのかを、理解することはできなかった。
そこにレトの姿は無く、塔の真っ平らな屋上は、ソルテひとりだけの空間だった。
「レト」
ソルテは立ち上がり、歩いた。縁まで行くと眼下に森が広がった。
「レト」
遠く広がる深緑の世界へと落ちてしまわないように、ソルテは縁から少し離れた。吹き上がり、心惑わすかのような風に煽られながらも、踏みしめたまさにそこが大地であるかのような確かな足取りで縁に沿って歩いていく。高さと胸の揺らめきに慣れてくると、視線は少しずつ上を向いた。
そして塔の頭の端を過ぎた遥か遠景に、白みを帯び始めた空が浮かんでいた。
「見て。もう、日が昇るよ」
ケロの丘の向こうから、まだ夜に浮かんだ雲を灼く太陽が昇ろうとしている。ソルテは、目を細めてさらにその向こうを見つめた。辺りが一瞬だけ暗くなってから、より確かに煌めき明るさを増して、そこに広がる世界。たった今灼かれたばかりの燃えさかる原野は、黒々とした丘の向こうで、今まさに白い産声をあげる。
「行こう、レト」
ソルテはレトを胸に抱いた。
曖昧な太陽に追い立てられた風が、白無垢の石でできた塔の表面から、石を、蔦を、枝を、時間さえも剥ぎ取って金色に磨き上げてゆく。境界のような足下を吹き渡っていくマーテナの歌がソルテを包んでも、風が孕んだその声は夜の鼓膜を確かに震わせた。
「行こう。ソル」
それは光を受けて永遠の風に消えた。
どこまでも、どこまでも続いていく叶わぬ夢の向こうへ、ソルテは旅立った。
終。
原風景。 音佐りんご。 @ringo_otosa
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