◇ ◇ ◆

「ケロの丘から夕日を見下ろしたことはあるかい?

「そうそう、帰り道でマリテットの巣を見つけたんだ、子どものマリテットは、毛が大人よりももこもこしているんだよ知ってた?

「ねえ、丘の中に二人で秘密の隠れ家を作ることにしたんだ。完成したらソルテにも見せてあげようか?

「次はナトスの墓地かなと思うんだけどどう?

「ソルテ。靴がぼろぼろになってきて、でもお気に入りなんだ、どうしようかな?

「あ、ユローネの葉が落ちてるよ?

「ラバーラの蜜ってちょっと匂うけどおいしいと思うんだ。ソルテは舐めたことある?

「ほっぺたが落ちるってどんな感じなんだろうね?

「ロズが言ってたんだけど、ケロのマーテナには二種類あるんだって。月食みムシが好んで食べる白マーテナと、月食みムシを好んで食べるマーテナもどき。ねえ、でもそれ、マーテナの木じゃないよね?

「どう思う?

「知ってる?

「ねえ?

「ソルテ?

「ソルテ?

「ソルテ?

「ソルテ?


「ねえ、ソルテ?」

 ソルテが夕食の準備をしている間、レトはずっとその日の出来事や思い浮かんだことを取り留めもなく語り続けた。聴いているのかどうかは問題ではなく、自身からあふれ出す感動を、ただ噴出させていたかったらしい。

 受けきれずにこぼれ落ちていくレトの感動を、ソルテは拾わない。無論レトも拾わずに、二人の足下には、夕食に使おうとしたユローネの葉の残骸と、その日の冒険の残り香とが散らばっていた。

 それでもレトは、気にすることなく或いは気付くことなく淡々と食事の用意をするソルテに、落ちたユローネの葉を掴み取って、差し出した。同様に、落ちた物語はそのままに新たな冒険譚を摘み取っては、自身の楽しさをソルテへと差し出した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 ソルテは顔を俯けながら、レトはそれを見上げながら交わした言葉が、結局その晩で唯一の会話となった。

 レトはその日見たケロの丘から標の森に沈みゆく夕日がいかに素晴らしかったかを語りながら騒々しく、ソルテはそれを聞くともなく聞かぬともなく、しかし口を挟まぬまま黙々として食事をした。

 その一日の疲れのせいか、食事を終えると気を失ったように突然眠りだしたレトが、「旅に出たい」と言い出すまでに、そう時間はかからなかった。


 一年の内でも特別に季節の風が強かったその日は、二人の間で久しぶりに会話らしい会話が生まれることとなる。

 レトとロズはあれから何度も冒険をしていた。時には夜を跨いでどこかへと出かけたりもあった。帰ってくるレトに、ソルテは叱るでもなくただ「どこへ行ってたの?」とだけ聞く。楽しげに語るレトを前に、一切の言葉は差し挟まず、ソルテは決まって最後に曖昧な表情と共に石を川辺に捨てるような声で「そう」と返すだけだった。

 この日レトは、ソルテにいつもより多めに絡んでいた。とはいえそれにソルテは応じるともなく、ただ黙々と翌日分の作業をしていた。聞くともなくしかし耳を澄ませている事をレトは知っていた。あるいは、期待していた。

仕事が終わってもレトが家を飛び出すことはなかった。というのも、相棒が村に不在だったのだ。長の仕事の手伝いとして、ロズは隣の村々まで時折お使いに出るらしく、そこで語られる話は村の外を知らないレトにとって新鮮な興味の対象だった。 そんな別世界の物語にレトはのめり込み、村の中だけしか知らないソルテからは次第に心が離れつつあった。しかし、レトもずっと外の世界を夢見ている訳ではなく、むしろ以前に比べれば熱心に仕事をするように変わっていた。

 結果として、ソルテは一緒に歩く必要もなく仕事の負担も減った。そこに喜びを見いだせるソルテではなく、確実に表情の起伏は薄らいでいった。

 ソルテの作業に手を付け始めたレトとの間で交わされたのは、たいした歩み寄りのない単純な単語でのやりとりばかりだった。それも、レトからの一方的なものである。

 そしてその仕事も終わるとレトはすぐに椅子から立ち上がり、さっさと出かけていってしまうのかとソルテは思っていたが、ソルテとしては意外なこと、レトはソルテをじっと見つめていた。

 何も言わずに立ったままのレトに、ソルテは『らしくなさ』を感じていたが、特に問いかけることもなく静かに目を逸らした。互いの間に空白と静寂の時間がしばらく横たわり、家は窮屈に感じられた。

 そして、日も暮れようかという頃になって、石像のようになっていたレトが動き出すと、ソルテの袖を突然に引いた。

「ソルテ」

 声はまっすぐ、夕刻特有の静けさの中で異様に響いた。

「ついてきてほしい」

 見せたいものがある。と、レトはソルテの腕を引きながら扉をくぐり、夕刻の村へ出た。ソルテはただ腕を引いていくレトに抗うことなく、歩いた。

 どこに向かおうとしているのかを推測することは村を熟知するソルテにとってそう難しいことではなかったが、ソルテはこのとき、ただ一つのことを考え、それ以外のことは意識にのぼらなかった。


 『レトに腕を引かれるのはいつ以来だろう』


 この頃はともに歩くことさえ、ほとんどなくなっていた。最後に歩いたのは、いつか。いつから、歩かなくなったのか。なぜ、歩かなくなったのか。何故。何故。何故。

 道中、ソルテは木の根や石に躓き、倒れそうになりながら、思索とそして存外彩色豊かな懐古の感情に包まれていた。

 まとまらない、漠と氾濫した思考が結論に辿り着くより先に、レトは足を止めた。レトが振り返り、手で示すそこはケロの丘。その頂上付近に生える一際大きな馬の足のような根を持ったマーテナの木だった。

 どうしてこんな所に来たのかと、ソルテが問おうとした時、それは目に入った。

 巣箱。ではなく、樹上のそれは小屋だった。

「作ったんだ」

 レトが言った。照れるように、鼻をこすりながら、ソルテと向き合った。

「どう?」

 レトは、ソルテを期待に満ちた目で見る。

 ソルテは迷った。迷い、目を背けようとした。しかしレトは回り込んだ。

「どう?」

 手を握り、顔を寄せ、息と熱が触れる。

 重ねてかけられた問いから逃げることは叶わず、しかし言葉に詰まったまま、空気を求めた。ソルテは、自身の成果物を前に目を輝かせるレトと向き合いながら、何も感じることができなかった。

 しばらく経っても返事がないことに、レトの表情が曇る。熱っぽい目は萎むように伏せられていく。自身の胸の緒も同様に、あるいはそれ以上に萎み枯れるのを感じる。ソルテは、どうしても何も言えず、唖として、しかし何かを言おうと頭を巡らす。それでも、息は詰まり、歯の根がかちかちと鳴るばかりで答えは出ない。

 ふいにレトはソルテから離れていった。肩の力が自然に抜けるのを感じ、ソルテは自身に対する落胆を誤魔化すことができなくなった。

 季節を殺す風が丘を登り、耳を打ちつける。ソルテは静かに踵を返し、覚束ない足取りで来た道を帰ろうとした。

「ソルテ」

 上方から声が飛んできた。

 ソルテが、戸惑うようにもたついていると、再び声がかかる。振り返り、顔を上げて声のした方を見ると、レトが木の上の小屋、その窓から顔を出してソルテを呼んでいた。

「上がってきて!」

 レトが大きく腕を回して、何かを放り投げる。それは一本の頑丈そうな縄だった。

「それを掴んで」

 いくつもの植物の蔓が編まれた縄は頑丈に作られているらしく、ソルテが引いてみても、軋むことはなかった。ソルテが訝しんでいると、上から「切れたりしないよ!」と声が掛かる。

 ソルテはそれを掴むと体で絞めた。しばらくして僅かな浮遊感が訪れると、ソルテが声を上げる間もなく足が浮いた。思わず口を閉じて漏れ出さんとする悲鳴を覆うと、あっという間にソルテの体は小屋の上へと引き上げられた。

 まだ体に残る『浮いた感触』に安定を崩していたが、立ち上がると、その床面が存外としっかりとしたものであることに気がついた。

「どう?」

 息が上がりつつも穏やかな声を繕って、三度問いかけるレト。

 宝物をお披露目しようと、楽しげにあたりを指し示すレトに従って、ソルテは改めて小屋の中を見渡した。そこには美しさも、丁寧さも、機能性も、感動に足る部分は何も無かった。

 しかし、がたついた床に棘は無く、歪んだ壁や傾いた屋根でさえ穴が空いていることは無い。所々に施された拙い装飾や、手作りであろう家具が所狭しと並び、ぼろ布でできた寝床もあった。

 ここはソルテの知らない世界だった。ソルテはいつかレトが朝まで帰らなかった時のことを思い出して思わず息を漏らした。

「君の熱意が通じたようだね」

 レトの影から現れるようにして彼は顔を見せた。汗を額に浮かべたロズは、一度行儀よく腰を曲げてから、潑剌とした声を出して、恭しく一礼をした。

 ソルテも、それに倣って同じ動作を返す。面識はあってもロズと直接話したことはなかった。よそよそしい礼に、しかしロズは満足そうに頷くと、歳に不相応な落ち着いた様子で、腹の鼓をたたいた。

「さて、それでは僕は失礼します」

「ゆっくりしていきなよ」

 引き留めようとするレトに、目をまん丸くしてから一息に笑うと、ロズは腹を叩いた。

「僕は長旅で疲れてるからね。いざさらば」

 言うや否や、先刻ソルテを引き上げたツタを握りしめると、ロズは飛び降りた。一拍空いて、存外大きな地響きが起きる。

 ロズはツタの目算を誤り、控えめに言って墜落した。レトが心配して声をかけると、ロズは無事であることを告げて去って行った。ソルテは、あまり落ち着いてもいないのだと、それまでの評価を訂正した。

 日が落ちて、徐々に暗くなっていく小屋の中に二人が息苦しそうにしていた。その停滞を崩し、先に口を開いたのはレトでは無くソルテだった。

「良い友達だね」

 ソルテは自身の言葉に驚いた。

 そう思ったことさえ無かったのに、ここに来て言葉を交わし、改めてそう感じたらしい。レトはうれしそうに頷いた。

「ソルテ。実は、」

 レトは涙を浮かべているのか、額から滴る汗なのか、眦に雫の尾を引いて、浮かんでは消える言葉を掴んで紡ぎ、ソルテへと伝えようとする。言葉が喉の奥で鬱いだまま立ち止まったレトに、ソルテは「なに?」と声をかけた。

 レトは、頷いて口を開く。

「――ソルテ。旅に出たいんだ」

 丘の向こうに広がる世界、未知なる道、そこに思い描く希望の地図を、想像できる限界を超えてレトは語った。完全な暗闇となったその場所で、情熱の火だけを灯して、朝日が昇るまで夢物語のような冒険の予定を事細かに、ソルテへと届けた。

 やがてレトは喋り疲れて眠りに落ちた。

 朝の静かな風が窓から注がれるとソルテは頬から熱が奪われるのを感じた。頬にふれ、そのとき初めて、自身が知らず知らずのうちに涙を流していたことに気がついた。

 ソルテは涙を拭うと、同様に雫できらきらと耀く我が子を抱きしめた。

 樹上の小屋の床には、余すところなく、紡がれんとする物語や始まりを待つ冒険譚の数々が散らばっていた。その中で、ソルテは眠りについた。


 それから季節が一巡もしないうちに、レトとロズはケロの丘の向こうへと旅立っていった。

 ソルテは村に留まった。

 レトは、ソルテも一緒にと誘ったが、足手まといになるからと断った。長く村で生きたソルテには、どのみち外の世界で生きていく術など無い。術も無ければ希望も無い。希望の無い旅路に意味は無い。

 ならば、希望だけが道となる二人の旅は、有意義なものなのではないかとソルテは考える。

 歩いてどこまでゆけるのか。村の中から出られなかった自身よりは、遠くに行ってほしいと願う思いは、かつてのものよりも純粋なものだ。

 だからこそ、決意せざるを得なくなったのかも知れない。これまで避けてきたものを清算しようと、そう考えたかはさておいて、歩き出した。

 二人は旅立った。

 そしてもう二度と戻ることは無い。

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