苦くて、甘い

おおきたつぐみ

苦くて、甘い

 ドアを開けると、恵麻えまは冬の冷え冷えとした寒気を纏って部屋に入ってきた。

 十二月の空気は特別な匂いがする。華やかさと慌ただしさと、一年を終える寂しさと。

「いらっしゃい。準備できてるよ」

「お邪魔します。今年も買ってきましたよ、ケーキとクリスマスブレンド」

 鼻の頭を赤くした恵麻が、笑顔で二つの紙袋を渡してくれる。

 受け取る時に触れた指先が冷たかった。

「ありがとう」

 一つは小さめのホールケーキが入った真っ白い紙袋。恵麻と私の町の中間にある有名なパティスリーのクリスマスケーキで、毎年恵麻はこの日のために予約をして買ってきてくれる。白い箱には真っ赤なリボンがかけられていた。

 もう一つは茶色の小さな紙袋。中にはクリスマスツリーが描かれた茶色の袋が入っており、顔を近づけると、コーヒーの香ばしい香りがふわっと広がった。恵麻の自宅近くにあるカフェのオーナーが焙煎しているコーヒー豆だ。

 恵麻は私の家に来るたび、そのカフェのコーヒー豆をお土産にくれるのだが、この時期だけのクリスマスブレンドが私は特に好きだった。


 勝手知ったる様子で恵麻は脱いだコートを廊下のフックにかけると、ちらっとリビングを覗き、驚いた顔で私を振り返った。

「すごいごちそう! 琴子先輩がこんなに作ってくれたら、私ケーキ入れる隙間なくなるかも」

「クリスマスだから張り切っちゃった。さあ手を洗ってきて」

 私がケーキをしまおうと冷蔵庫を開けると、恵麻は素直に洗面所に向かった。

 リビングのテーブルには、オードブルのチーズ、バゲット、ポテトサラダ、イカとタコのカルパッチョ、ほうれん草とチーズのキッシュ、チキンのハーブ焼きを並べている。熱々を出したくて、カボチャのスープはまだ鍋の中だ。

 手洗いうがいを済ませた恵麻がキッチンにやってきて、グラス用意しますね、と私の背後から腕を伸ばして頭上の棚を開けた。

 恵麻は背が高い。こんな仕草にいつもドキリとする。

 グラスをテーブルに置いてきた恵麻は、私が鍋からスープをよそうのを見て、そろそろシャンパン出します、と冷蔵庫に向かった。

 何も言わなくても伝わる心地よさに、私は思わず微笑む。


 恵麻が家に来るようになってもう四年目になる。

 出会ったのは、私がいた営業部に恵麻が新入社員のひとりとして配属された時のことだった。私は教育係の主査のサブとして恵麻についた。二年目になったばかりの私の初めての後輩だった。

 最初の印象はあまり良くなかった。

 恵麻は笑顔が少なく、目も合わせず、声もぼそぼそとしていた。でも出身校が物語るとおりとても賢くて、一度聞いたことはすぐ覚えた。愛嬌だけで一年目を乗り切った私としては、どんな風に接したらいいかわからない相手だったし、新人だからと甘やかしてくれた先輩たちの関心が彼女たちに移ったのが面白くなかった。

 それでも恵麻は、律儀に何事も私に聞いてくれた。

 私は頼りないし、仕事が出来るとは言いがたいし、聞かれた質問に答えられないことも多かったのに、彼女はいつも先輩として私を立ててくれた。

 恵麻はだんだんと私と話す時には笑顔を見せるようになり、私、人見知りなんです、と教えてくれた。打ち解けた彼女はパソコン技術にもデータ処理にも長けていて、さまざまな面で私をサポートしてくれたから、誰より頼りになる後輩になった。


 一年間営業部で一緒に働いた後、私が法人営業部へ異動になった。会社でなかなか恵麻と会えなくなり、寂しくて月に一度は週末に遊びに出かけるようになるうちに、私は、手料理を食べに来ない? と恵麻を自宅に誘った。

 元々、料理を作って人に振る舞うのが好きだったけれど、それまで会社の人は誰も家に招いたことはなかった。

 仕事での強みがあまりない私は、コミュニケーション力でなんとか仕事をこなしているようなところがあった。可愛がってくれる上司や取引先も多いし、同期や後輩とも仲良くしている。

 オープンに見えるようにしていたけれど、本当の自分を奥深くに閉じ込め、決して外には出さないように常に気をつけていた。

 ――恋愛対象は女性だという、自分を。

 自宅に招いたら本当の自分がどこからか漏れてしまうような気がして、私は恋人以外はほとんど家に入れたことはなかった。

 けれど、憶測で物を言わず、人に流されることのない恵麻のことは信頼できた。


 熱々のカボチャスープをテーブルに運び、恵麻がシャンパンをグラスに注ぎ、乾杯すると二人だけのパーティが始まった。  

「あー、スープ美味しい! 栄養が体中に染みわたる感じ!」

 スープを口に運んでいた恵麻の手はもうキッシュに伸びている。

「キッシュ、生地がパリパリなのに中はとろとろ! ほうれん草久しぶりだから嬉しいです!」

 恵麻に手料理を食べてもらいたいと思ったきっかけは、この気持ちいいほどの食べっぷりだった。

 好き嫌いが一切なく、痩せているのに食べることが大好きだという恵麻は、外食時はもちろん、私の料理も本当に幸せそうに食べたし、どんな味かをひとつひとつ言葉にしてくれた。そんな恵麻を見ていると私も嬉しくて、暇な時はレシピサイトを見ては次に何を作ろうかと考えるようになった。

  

 いつしか恵麻は、学生時代の親友より同期より一番一緒にいて楽しい相手になったけれど、私は彼女に恋愛感情を抱いたことはなかった。

 新入社員の頃、恵麻は学生時代からの彼氏がいたし、少しして別れた後も同期の男性社員と噂になったことがあった。

 だから、私はただ彼女を心から信頼できる年下の親友だと思って接していた。

 そして二人で食べながら飲んで酔った時には、恵麻に聞かれれば自分の恋愛経験についても話すようになった。

 恵麻は、そうなんですね、と自然と受け入れてくれた。


「琴子先輩、また腕を上げましたね。でもさすがの食いしん坊の私でも食べきれないです」

「ちょっと作りすぎたか。余ったらお持ち帰りしてよ」

「もちろん、そのつもりです」

 恵麻はにこにこ笑って、置きっぱなしの私のグラスに勝手にグラスを合わせた。

 チン、という可愛らしい音が私たちの間に生まれ、すぐに霧散していく。

 恵麻と同じように私の顔も赤いことだろう。私たちはお酒に弱いわけではないけれど、同じくらい酔いやすかった。

「この会ももう四回目ですね、琴子先輩が法営に異動した年からだから」

「そうだね! 会えなくて寂しいからってうちで食べ飲みし始めたら、まさかの翌年、恵麻が追いかけてくるという」

「先輩だって喜んでいたくせに」

 恵麻がシャンパンの瓶を傾けたが、もう空だった。私がいそいそと赤ワインの瓶をキッチンから持っていく間に、恵麻は自分と私のグラスをシンクでさっと洗ってきた。お互いにグラスにワインを注ぎ合うと、私たちは何度目かの乾杯をした。

「そりゃあ嬉しかったよ。だから来年は客サ部に来てよ」

 

 法人営業部に異動になった翌年、なんと恵麻も法営に異動になり、私たちはまた担当こそ違えど同じ部で二年を過ごした。

 我が社は二年~三年で異動を繰り返すので、三年間法営で勤務した私は今年四月に顧客サービス部(通称客サ部)へ異動になり、再び私たちは離れた。

「客サ部での一年、どうでしたか?」

「こんなに弊社にクレームが多いのかって思い知ったよね。あと規約・マニュアル改訂しすぎだなとか。現場が混乱するのもわかるよ」

「客サって平和そうなイメージでしたけど」

「そうでもなかったわ。クレーム案件が来ると一気にやさぐれるよ。でも、恵麻はそろそろ本社へ行くんじゃない?」

 恵麻も今年で法人営業三年目だ。優秀な恵麻は本社への異動が囁かれていた。

「喜ばしいことだけれど、恵麻が東京に行ったら寂しいなあ」

 ぽつりと言うと、恵麻は

「いやいや、本人には何の打診もないし、寂しくなるの早すぎますよ」

と笑ってチーズを口に放り込んだ。

「もし恵麻が東京に行ったら、もうこんな気楽に付き合える相手ってなかなかできないと思う。恵麻だって二十六でしょ? 東京でいい人と出会って、するっと結婚しちゃいそう」

 私は空いた皿を片付けながら恨みがましく言った。

 恵麻は気が利くし、心を許した相手には思いっきり打ち解けて懐くところが可愛いから、誰かを好きになったらすぐ成就しそうだ。

 ただ、人見知りが災いしてなかなか恋に発展しないのだと言う。確かにここ数年は、恵麻に恋人がいたことはなかった。

 そしてそれは私も同じだった。

 出会いは探していたけれど、マッチングアプリや女性どうしのパーティでも、なかなか恋に至る縁がなかった。


「琴子先輩だってお年頃でしょう。あの推しハンドメイド作家さんは最近どうなんですか? 今日のピアスも彼女作のですよね?」

 ワインを飲みながらにやっと笑って聞く恵麻に、私はため息をついた。

「そうそう、聞いてよ。推し作家、どうやら彼女できたっぽいのよ」

 私は床に投げ出していたスマホを掴むと、ハンドメイド作品を購入できるアプリを開いた。数人のお気に入り作家を登録しているのだが、ここ一年ほどは「miwa」という同世代の女性作家の作品を定期的に購入していた。

 天然素材のパーツを大胆に使い、自分らしさを主張しつつもオフィスでも浮かない絶妙なデザイン。

 本人がモデルをした商品写真を見るのも好きだった。顔の全てが写っているわけではないけれど、黒縁の眼鏡に切れ長の瞳、薄い唇は口角が上がっていて形がよく、ショートボブから覗くピアスがよく似合っていた。

 つまりは好みの顔立ちだったのだ。


 初めてピアスを購入した時、数日後に届いた包みは、青い薄紙を何枚も使って丁寧にラッピングされており、添えられたメッセージカードには、

〈このピアスが琴子様に幸せを運びますように〉

と整った字で書かれていた。

 今日みたいに酔った日に、恵麻にカードを見せながら、

「ってことは、miwaさんが私の幸せってことでいいでしょうか」

 などとうざったく語り、一緒に次のアクセサリーを選んでもらったりもした。購入するたびに同封されるメッセージは毎回違って、購入した一人一人を大切にしていることが伝わり、私はmiwaさんにますます好感を抱いた。

 応援する気持ちも込めて月に一度は購入し、そのたびに着用写真と共にできるだけ丁寧にレビューを送ると、miwaさんはそこにもいつも返信をしてくれて、ブログで嬉しいレビューだと紹介してくれたこともあった。


 それなのに。

 一ヶ月ほど前から、miwaさんの商品写真に、明らかに別の女性がモデルとして登場するようになった。

 miwaさん本人が写っていた時よりもさらに顔立ちがわかりにくいような写り方になっているけれど、miwaさんよりも白くきめの整った肌、少し垂れ目の目尻、小さめでぽてっとした唇、すっとした首筋。肩よりちょっと長いくらいの栗色の髪をピアスのデザインに合わせて下ろしたり結んだりして写る彼女に、miwaさんのアクサセリーはとても映えていた。

 デザインも以前の大胆さが減り、モデルを務める彼女に似合うような、パールやシフォンを使った女性らしいものに微妙に変化している。

 彼女がモデルになってからmiwaさんのビジュアルが出ることはなくなり、代わりに「大切な人を思って作ったピアス」とか、「お揃いで着けるブレスレット」などの甘やかな言葉が商品説明に添えられるようになった。

 そして、絡ませた二人の指につけたペアの指輪の写真を見た時、私は彼女たちが特別な仲なのだと悟った。

 

 恵麻にmiwaさんのショップページを見せると、確かにと頷き、悲しげに私を見つめた。

「琴子さん、失恋ですね」

「失恋て……、推しにそこまで本気にならないわよ。哀れまなくても結構」

 私は笑いながら皿をキッチンに運んだけれど、胸には苦いものが広がっていた。

 ――今回も私は選ばれなかった。


恋がうまくいかない時、私の思考はいつも高校時代に飛んでしまう。

 初めて失恋した、あの時に。


 私の高校は公立の女子校だった。地元ではレベル上位の高校が男女別だったので、猛勉強してなんとかギリギリ受かることができた。

 小学校での初恋以来、目に入るのは女の子ばかりだったので、自分の恋愛指向は女性なのだと薄々わかってはいたけれど、男子の存在を気にする必要のない世界で堂々と女子どうし付き合っている先輩たちを実際に見かけた時は、ある意味感動した。

 それまで想像と数少ないコンテンツでしか、幸せそうな女の子どうしの恋を見ることはなかったから。

 私もここで女の子と恋をしたい――そう思った。


 やがて私は、入学して最初の掃除当番で一緒になって以来、仲良くなった五人のうちの一人に淡い恋心を抱くようになった。

 ポニーテールがよく似合う、スポーツ万能で物静かな、なつみに。

 五人は仲がいいとは言え部活はバラバラだったけれど、私はなつみと一緒にいたいばかりに興味もなかったテニス部に入部した。

 中学時代にエースだったなつみはすぐさま主力戦力候補になり、先輩達に混ざって練習した。私は全くの初心者だったから、ひたすらボール拾いと素振りばかりで、部活中はほとんどなつみと会話することは出来なかったけれど、帰りに途中まで一緒に帰ったり、土日の部活が終わると二人でファーストフードでランチすることが嬉しかったし、他の三人より仲がいい自信もあった。


 でも、なつみが好きになったのは、その三人のうちのひとり、早紀さきだった。

「早紀と付き合うことになったの。だから、これからは早紀と帰る。ごめんね」

 秋になる頃、放課後の教室で私に宣言したなつみの頬は紅潮し、緊張して目は見開かれていた。五人の仲はそのままでいたい、だけど早紀とは特別な関係になりたい。なつみの目はそう雄弁に語っていた。

 教室の後ろのほうには早紀がおずおずと控えており、私は笑顔で「わかった」と言うしかなかった。

 早紀はバスケ部だった。テニス部のほうが早く終わる時はなつみが体育館の出口で待ち、バスケ部のほうが先に終わる時は早紀が校舎の玄関で待っていた。そこからはテニスコートがよく見えたから。

 二人が寄り添って帰る姿を見送るたび、胸に苦い思いが広がった。

 なつみに近いのは私だったのに、私は選ばれなかった――と。

 テニス部は間もなく辞めた。

 

 それから私が恋をしなかったわけではない。二年の先輩から告白されてしばらく付き合い、それなりに青春を謳歌した。

 けれど、普段は五人でいたから、私は卒業までなつみと早紀という人生最初の失恋を、常に目にし続けなくてはいけなかった。


「なんだか私はいつもそんな役回りだと思うの。好きな人にどんなにアピールしても、近づいても、そもそも私なんて相手の眼中にもないのよ」

 冷蔵庫から取り出したホールケーキを大皿に載せ、添えられていたろうそくを立てながら私はぶつぶつと呟いた。

 恵麻は無言でキッチンに立ち、電気ケトルで沸いたお湯をドリッパーに落としていく。湯気と共に、香ばしいコーヒーの香りが部屋中に立ちのぼる。

「――ねえ、琴子先輩。クリスマスブレンドって、一年で一番苦い味なんですって」

「そうなの? 一年の最後くらい、甘い味が飲みたいようなものだけど」

「でも、先輩はクリスマスブレンドが一番好きなんでしょ」

と言って恵麻は少し笑いながら、私の前にコーヒーがたっぷり入ったマグカップをことりと置いた。私たちは二人ともブラック派だ。

 ふうふうと息を吹きかけ、コーヒーを口に含んだ。ふくよかな苦みが舌から鼻に抜け、脳までじんわりとしびれるような感覚に包まれる。一口飲む度に、アルコールの酔いが心地よく醒めていく。

「ああ、コーヒーって苦いのに、どうしてこんなに幸せになれるんだろう」

「甘いクリスマスケーキと合わせるために、クリスマスブレンドは深い苦みが出るまで焙煎するんだって、カフェのマスターが言ってました」

「なるほどね。じゃあ早速ケーキをいただきましょ。その前に、恒例のお願いごと」

 私はマッチをすると、ケーキに立てたろうそくに火を付けた。

「来年こそ素敵な恋がしたいな。恵麻は?」

「私は、ええと……私も同じく、ってことで。――せーの」

 小さな炎を一緒に吹き消すと、私たちは顔を見合わせてふふっと笑った。


 フォークをそのままケーキに刺して直に食べていくと、美しかった円形はたちまち無残な姿になっていく。お行儀悪いけれど、これが一番美味しい食べ方だと恵麻が言うから、毎年こうしている。

 大きく頬張ると、ケーキにたっぷり塗られた甘い生クリームが口の中で一瞬で溶け、その後にイチゴの酸味とふわふわのスポンジが優しくほどけていく。コーヒーでケーキの甘さが中和され、また自然とケーキに手が伸びる。

「恵麻とじゃないとできないけれど、ケーキはやっぱり直食べが一番美味しいね」

 恵麻も満たされた顔でもぐもぐと口を動かしていたが、ふと私を見つめた。

「琴子さんの今年は、苦かったですか? 甘かったですか?」

 私はコーヒーを飲みつつ、天井を見上げて記憶をたどった。

「そうねえ、初めての客サ業務でクレームもたくさん受けて、心が折れそうになったし、ストレスで肌荒れもひどくなったな。飲み会で部長に行き遅れってセクハラ言われたし、賞与査定も一年目だから仕方ないけど良くなかった。ダメ押しで推し作家は彼女作ったし、苦い一年だったな」

 すると、恵麻はマグカップとフォークを置き、指を折りながら話し始めた。

「――えっと、二月、琴子先輩は今までで一番の大口契約を取って、部長にもすごく褒められていました。三月、異動が明らかになったら、あの強面の大山工業の会長さんが栄転祝いだって、高い日本酒持ってきてくれましたね。最終日には橋本フラワーさんが立派な花束を届けてくださいました。五月、初めてのクレーム案件を担当して大変だったけれど、お客様が納得してこれからもご利用いただけることになって、喜んでいました。夏にはお姉さんに二人目のお子さんが生まれて、初めての姪っ子だって可愛いお洋服を買いまくっていましたね。十月は去年売り切れだったコートの新バージョンが買えたし、先月のお誕生日には法営の後輩たちがお祝い会を開いて、感動して泣いていました。ちなみにデキる幹事は私」

「……なにそれ、」

 泣きそうになったのをこらえて笑おうとしたのに、声が喉に引っかかってしまう。

 一つ一つの、ようやくつかみ取ったり、思いがけずに誰かから受け取ったり、日常に見つけたささやかな幸福が、恵麻に言われて色鮮やかに蘇る。

 そうだ、ただ忘れているだけで、今年もたくさんの幸せが私にもあった。


 指を折り曲げた両手を私に見せて、恵麻は得意そうに笑った。

「去年もこんな話したんですよ、私たち。あー今年もしんどかったなあ、いいことなかったなあって琴子先輩が言ってました。

 でも、人ってどうしても悪いことばかり覚えているけれど、実際はその何倍もいいことが起こっているんです。だからまた琴子先輩が忘れても、私が覚えていられるように、今年は先輩の嬉しかったことをスマホにメモしておいたんです」

 恵麻はバッグから自分のスマホを取り出すと、私に「ちょっと引くかも知れないけれど」と言いつつ、メモアプリ画面を見せてくれた。

 そこには今彼女が言った以上に、今年私が彼女に報告してきた、たくさんの幸せな出来事が記されていた。

「すごい……なんでここまでしてくれるの? こういうの私ダメ、泣いちゃう」

 思わず顔を両手で覆った私を、恵麻は優しく抱き締めた。


「琴子先輩のことが、好きだからです」


 私を包む恵麻の香りはラベンダーのように安らぐのに、彼女の心臓は早鐘のように打っていた。

 今のって、――まさか、告白?

 言葉に詰まっていると、恵麻が腕に力をぎゅっと込めた。

「琴子先輩のことが恋愛対象として好きなんです。――私じゃダメですか?」

「だ、だって恵麻は男の人が好きじゃなかったの?」

「琴子さんが可愛すぎて優しすぎて料理が上手すぎて、時々弱すぎるから、いつの間にか誰にも取られたくないって思うようになったんです。だから、さっき推し作家さんが彼女できたって聞いて、本当にほっとしました」

 初めてさん付けで呼ばれてドキッとしながらも、強く抱き締められたせいで、私はむせてしまった。

「あ、私ったら……すみません」

 ぱっと解放され、私は慌てて深呼吸をした。

「ちょ、ちょっと落ち着こうか」


 怖いくらい真剣な瞳で私を見つめる恵麻の視線をそらしながら、私はコーヒーを口に含んだ。それを見て恵麻も同じようにコーヒーを飲む。

「えと、ほ、本当に? もう何年も恋愛してないから、からかわれたり、やっぱり違いましたとか言われたら生死に関わるからね」

「本気で好きです。ずっとこの気持ちが恋なのかどうなのか、私だって自問自答してきてやっと確信したんです。私の性格、琴子さんならわかっているでしょう」

 恵麻がむくれる。

 そうだ、恵麻は冗談は言わないし、不確かなことも言わない。いつも彼女が発する言葉は彼女の本心から来るもので、正直さ故に法人営業の仕事がうまくいかない時期もあったくらいだ。

「本当は、琴子さんが法営に異動したから私も法営への異動希望を出したんです。今は客サへの異動希望を出しています。叶うかどうかはわかりませんが」

「そ、そうだったの……?」

 私の鼓動も早まる。恵麻がそんなに私を好きでいてくれたなんて。

「琴子さんこそ、こんなに近くにいる私を眼中に入れてくれなかったんですね」

 悲しげに恵麻が言う。

「そ、それは……! 可能性がない相手を好きになっても辛いだけだから、恋愛対象として見ないように気をつけていただけだよ」

 慌ててそう言うと、恵麻がふっと微笑んで私の顎に指を掛けた。


 えっ、と思う間もなく、唇が恵麻の柔らかなそれに包まれる。

 コーヒーの苦みがふわりと行き交うキスだった。


「じゃあ、これで恋愛対象として見てもらえますか?」

 唇をほんの少し離しただけの、まつげが触れそうな距離で、恵麻がじっと私を見る。緊張と衝動と愛情とがその瞳に揺れて、吸い込まれそうだった。

 一番信頼できて、一番気が合って、一番一緒にいて楽しい人が私を好きだと言ってくれている。

 恵麻との間に私が注意深く張っていた透明な膜を、彼女は気づいていたのだろうか。

 そしてその膜を今、恵麻が破り、私を抱き締めている。

 どれほど悩んで、どれほどの勇気を出して。


「琴子さんにどんな苦いことが起こっても、私が必ず甘くします。毎年毎年、いい一年だったって思ってもらえるようにします」

「ほんとに?」

「はい、一生、ずっと」

「一生って……プロポーズみたい」

「プロポーズしたいくらい、大好きです」

 照れくささに、ふふっと笑った私に恵麻が再び優しく口づけしながら、ゆっくりと体重をかけてくる。気持ちよさに身体中の力が魔法のように抜けていく。

 床にそっと横たえられる瞬間、唇を離した私は恵麻を見上げて言った。

「ねえ、私ずっとしてないから、うまくできるかわからないよ」

 私を見下ろしながら、恵麻は困ったように首をかしげた。

「……それを言うなら、私は女性と初めてです」

 その顔が心底、可愛かった。 

 こんな展開予想もしていなかった、そう思いながら私は恵麻の首に腕を回し、自分に引き寄せて、耳元で囁いた。

「もう来年の願い事、叶っちゃったみたい」

 私も、と微笑んだ恵麻の唇から、コーヒーの苦みが再び私の唇に伝わってくる。


 苦くて、甘い、幸せなキスだった。

                           (終わり) 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

苦くて、甘い おおきたつぐみ @okitatsugumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ