第5話 時化の海

「漁ですか――」

 海彦うみひこは痛む身体を押さえながら、入り口のムシロを開けて声をかけてきた海馬かいばに聞き返した。

 あの人魚事件からそれほど経っていない。あの日、村人の行き場のない怒りは彼に向けられた。暴力行為リンチと言う形で。その時の傷や痛みがまだ身体に残っている。

「そうだ。お前は、雑用からやり直しだ」

「……」

 海彦は応えなかった。

「明日の漁からだ」

 そう海馬は告げると、これ以上、用はないと去って行った。

 恐らく、人魚の彼女の件もあるだろう。この歳になって、網の引き上げなど漁師らしいことをしていたが、格下げされて雑用係からやり直し。そう村人達は彼を処分したのだ。

 そもそも海彦らは、双子ということで、忌み嫌われていた。まだこの村にいられるだけマシかもしれない。追放されて流れ者の身になるよりはマシだ。

 顔を上げ、ムシロの先にから見えるのは、いつもよりも少し濁った海だ。


 ――嵐が来るかもしれない。


 そう思ったが、この貧しい漁村は働かねば。少々の時化ぐらいで漁を諦めていては、皆飢えてしまう。


 ――そういえば、兄貴がいなくなった前の日もこんな海だったな……


 ふと、そんなことを思い出した。

 あの時、虚舟うつろぶねから顔を出したのは、果たして行方不明になった兄貴だったのかは、解らない。また会うことがあれば、それが解るかもしれないが、この広い海で偶然再会することなどあり得ないだろう。


 ――あの子はどうなったのだろう?


 次に思い浮かべたのは、人魚のあの子だ。

 人魚だったと言うこともあるが、少女として……あんなキレイな女の子は、もう会うことのないだろう。

 彼女の着物はまだ隠して持っていた。こんなキレイな着物、売れば金になるかもしれないが、どこで売っていいのかもわからない。

 あの件から村人の目線は冷たくなっている。村人には欲しいものはいるかもしれないだろうが、ましてや妖怪が着ていた着物だ。買い取る者はこの村にはいないだろう。売れたとしても「むしろ妖怪の着物を売りつけた」と、再びリンチの対象になり兼ねない。

 自分の身のためにも、黙ってこのまま持ち続けた方がいいだろう。


 ※※※


「――嵐になるかもしれない」

 網元だった村の長老が呟いたが、新しい若い網元は聞く耳を持たなかった。

「では、行ってくる」

 忠告を無視するように村人を連れて舟を出した。

 使うのはいつ建造されたか解らない帆船。数年前、大金をつぎ込んで新しい船を皆で買ったが、帰ってこなかった。

 海彦は飯炊きとして乗り込んだが、ただ下働きをするわけではない。舟は継ぎ接ぎだらけの横帆一枚だけなので、上手く風を掴むことは出来ない。手隙の者が総出でオールを持って漕がないと、船を沖に進めることは出来なかった。

「この辺でいいだろう」

 そして、波の高い海を沖へと数刻進む。

 陸はすでに見えない。

 海彦が空を見上げると、真っ黒い雲が覆い始めていた。


 ――長老の言ったとおり嵐が――


 そう思った途端、頭に激痛が走った。

「なッ、何だ!?」

 ゆっくりと振りかえってみると、海馬が立っていた。その手にはかいが握られている。

 痛みの走った頭をさすったら、ヌルッと生暖かいモノを感じた。

 そして、手を見れば赤く染まっている……血だ!

「なん……で?」

 意識がもうろうとしてくる。

「お前は、人魚に呪われている!」

 海馬は櫓を横から殴りつけた。

 海彦は脇腹に打ち込まれた勢いで、海に投げ出されてしまった。

「始末したか!」

 網元は海馬に確認をする。

「海に落とした! あの傷では助かるまい」

 実は彼等は嵐になり、時化になることは判っていた。

 それでも舟を出したのは漁をするためではなく、海彦を始末するためだ。

 海馬が語ったとおり、彼が呪われていると――

 人魚は凶兆だと言い出した者がいたのかもしれない。それよりも、金をもらうことが出来なかった恨み、不老不死というのはまだしも人魚の肉を食らえなかった恨み等は、あのリンチ程度で終わっていなかったようだ。

 海は時化が始まっているのか波が高い。

 海彦は海に落とされたときにはまだ意識があったが、高い波が何度も頭を越えていく。その間に見えたのは、ゆっくりと村へ帰ろうとしている船の姿だ。


 ――頼む! 置いてかないでくれ!


 彼は息継ぎをしようとするが、波がさせてくれない。

 一漁師をして、泳ぎには自信があったが、波が彼を押さえつけ海に引きずり込もうとしていた。

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