六福亭という宿屋の話

六福亭

第1話

ひどく寂れた、小さな建物だった。もうすぐで消えそうなランプを掲げた旅人は、その宿屋のみすぼらしい外装の全容を認めると、落胆の声を上げた。だが、財布には優しいに違いないとすぐに思い直す。おまけに、近隣に他の宿屋も見当たらなかった。


 呼び鈴を鳴らすと、エプロンを掛けた若い女が出迎えた。エプロンは粗末だが染みがなく、及第点とした。予想した通り、一晩の値段も安かった。入ってすぐのフロアは食堂らしいが、夕食を摂っている客はいなかった。ただ、最初の女と同じエプロンをかけた中年の男が、シチューの鍋をかき混ぜていた。


 客室のある階に案内されて、旅人は当惑した。


 食堂はあんなに閑古鳥が鳴いていたのに、客室はほとんど満室らしい。それぞれの部屋から話し声やいびきが聞こえた。壁が薄いのだなと不安になった。中には、何かを貪り食う不愉快な音をたてる客もいるようだった。

「心得ておられるとは存じますが」

 ここまで案内してきた女が、低い声で旅人に言った。

「他のお客様のお部屋を覗いてはなりません。互いに声を交わしてもなりません。どんなことが起きるか分かりませんからね」

 旅人は、その雰囲気に呑まれてついうなずいた。


 与えられた部屋は狭いが、なかなか居心地が良さそうだった。暖かな火が燃える小さな暖炉も、ふかふかのベッドもあった。たんすの中はからっと乾いていた。旅人はベッドに倒れ込み、そのままうとうととまどろんだ。


 __彼は夢を見た。背の低い、初老の男が立派な宿屋の前に立ち、旅人を歓迎してくれた。現実の宿屋とは大違いの豪華で快適そうな宿屋だった。男は誇らしそうに胸を張っていた。旅人はその笑顔につられて門をくぐり、……そこで目が覚めた。


 彼は現実との落差に少しがっかりしたものの、お腹が空いていることを思い出したので部屋を出ることにした。食堂はまだ開いているだろうか。窓から覗く空は真っ暗で、星も見えなかった。


 廊下に並んだ扉に目をやると、2つだけ鍵が開いている部屋があった。興味が湧いて、(いけないことだとは分かっていたけれど)扉をほんの少しだけ引いた。

 最初の部屋は、空っぽだった。暖炉に火が入り、ベッドもきちんと整えられていた。すぐに興味が失せて、扉を閉じる。

 その次の部屋の中には、人がいた。一人の若者が服を脱ごうとしていた。旅人は自分の非常識さを恥じ、音を忍ばせて退散しようとした。


 その時、若者の上半身が露わになった。

「あっ!」

 旅人は呆気にとられた。若者の肌は緑のうろこで覆われていた。腕に鋭いとげが生えていた。顔はとても整っていて美しいのに、背中には醜い傷が走っていた。

「ば、化け物……!」

 おののく旅人の肩を後ろから誰かが叩いた。

「ひっ」

 振り向くと、世にも恐ろしい顔の男が、暗がりから旅人を睨んでいた。旅人はその場で気絶した。


 

 気がついた時、旅人は自分の部屋で寝かされていた。ベッドの側に誰かがいる。最初に出てきた、宿屋の女主人である。

 旅人が慌てて身を起こすと、女は静かに押しとどめ、こう言った。

「あのお客様に気づかれなくて、良かったですね。__もし怒らせていたら、今頃命はありませんよ」

 女はそれほど怒ってはおらず、むしろ旅人をいたわっているようだった。それで、旅人の舌がほぐれた。

「何なんだ、この宿屋は。化け物ばかり……」

「化け物? 大事なお客様と、大切な仲間です」

 女はきっぱりと答えた。

「一体何者なんですか? あの体……」

「お話の続きは下でしましょう。ここでは、誰が聞いているかわかりませんからね」

 女主人について、旅人はまた部屋を出た。今度は、他の部屋を覗いてみようなんて気はとても起こらなかった。それどころか、彼女にぴったりくっついて歩かなければ、廊下に溜まる暗闇に呑み込まれてしまいそうな気がした。


 下の食堂には、まだ温かいシチューが残っていた。旅人の皿にシチューをよそい、女主人はコーヒーを淹れてくれた。シチューはこってりと濃厚で、美味しかった。

「夢を見ましたか」

 女主人が、唐突に尋ねた。旅人は何だかよく分からないままうなずいた。

「それはどんな夢でしたか?」

「大きな宿屋と、その主人らしい人が出てきた」

 女は、その男の特徴を尋ねた。あたっている。そう答えると、彼女は長い溜息をついた。

「うらやましい」

 旅人は、ただならぬ空気を感じ、話を変えることにした。

「さっきのお客さんは……?」

「ああ、あの方は、龍なんです」

 女はさらりと言った。

「人間がずいぶんとお好きでね、毎晩人間になる夢を見るのだそうです。夢に焦がれてどうしようもなくなった時、この宿に来るのです。ここに泊まる夜だけ、何故かあの方は人間の姿になれるので」

「魔法か何かがかかっているんですか?」

 女は首を傾げた。「さあ、分かりません。魔法かもしれないし、他の理由があるのかもしれない」

「僕の夢も本当になりますか?」

 彼女は微笑んだ。

「それも分かりません。あなたの夢の中身も、それがいつ現実になるかも」

 女はシチューのおかわりを勧めた。旅人はありがたくそれを受け取る。今度はパンも添えてくれた。

「この宿屋の名前は、『六福亭』と言うんです。先代の主人が名づけました」

「どういう意味が……あるんですか?」

 口ごもったのは、シチューをほおばっていたためである。

「命あるものは、誰もが一生をかけて六番目の幸福を探しています。それは他人には決して理解できないような幸福です。時には不幸に見えるかもしれません。……でも、誰にとってもかけがえのない、命と同じくらい尊い幸福なのです。」

 私たちはその幸福を求めつつ、お客様のお手伝いもするのです。彼女はそう言った。

「六番目の……幸福?」

「長く生きること、富めること、健やかであること、徳のあること、天命を全うすること。これで五つ。もう一つだけ、自分自身で見いだすべき幸福があります。どんなちっぽけなことでもいいのです」

 それは、例えばさっきの龍にとっては、人間になることなのだろう。

 では、旅人にとっては? 目の前の女主人は?


「昔は、ここもそんな特別な宿屋ではありませんでした」

 女主人は遠い目をした。

「普通の、人間だけが来る宿屋でした。ああ、でも今よりずっと建物が大きく、店員も沢山いました。たいへん繁盛していて、私たちは休む暇もないほどでした」

 それが今では、こんな風になった。

「あの人がいなくなってからです」

 彼女は床に目を落とした。

「先代のご主人ですか?」

「そうです。あの人は、すごい人でした。私は、尊敬しているし、大好きです」

 シチューをさらうと、芋やにんじんの塊が上がった。旅人はそちらばかりを見るようにした。

「……先代の主人が、『六福亭』という宿屋を建てました。彼の熱意と手腕で、宿屋は評判になり、増築を重ね、あっという間に大きくなりました。料理もきちんとしたフルコースを出していたので人気がありましてね」

「このシチューも美味しいですよ」

「ありがとう。作ってくれた仲間に伝えておきます。……ですが、先代の主人は追放され、それっきり戻ってきませんでした」

「追放……?」

 物騒な話だ。

「彼は賢く優秀でしたが、同時にお客様以外には横暴な性格だったので……恨みつらみをそこら中で買っていたのです。宿屋の店員たちの間で会議が開かれ、圧倒的多数が彼の追放を支持しました。それでおしまいですよ。あの時の六福亭は、世界一愚かでした。一番の功労者を、気に食わないというだけで追い出したんだから。その後みるみるうちに宿屋は寂れていきました。店員も次々と辞めていき、今は私と、もう二人いるばかりです」

「先代に戻ってきてもらったらどうですか?」

 彼女は首を振った。

「彼の消息は今も知れません。手紙も、電報も届きません。もう、私たちに愛想をつかしてしまったのでしょう。二度と……戻ってはこないのです」

 旅人は、女主人が泣くのではないかと思った。だけど、ちょっと顔を手で覆っただけで、彼女は覇気を取り戻した。

「だけど私たちは、六福亭を守ります。彼の心を感じていたいから」

コーヒーのおかわりを用意しながら、彼女は続けた。

「彼がいなくなってから数年経って、お客様がとうとう一月に一人も来なくなりました。それでも、部屋を整え、食事を用意していたら……今度は不思議なお客様がくるようになったのです」

「龍とか?」

「そうですね。龍も、幽霊も、鬼もいます。人間だって。だけど彼らには共通点があります。ここに泊まれるのは夢を見ている間だけだという点です」

 旅人はコーヒーカップに砂糖を入れた。

「ぼ、僕もですか?」

「あなたは違うみたいですね。だって、ちゃんと玄関から入ってきたから。特別なお客様は、決まって部屋の中でいつの間にかチェック・インしているんです。だから、部屋はいつもきれいにしておかなければなりません。そして、いつの間にかチェック・アウトされます」

 空っぽの部屋を思い出す。あれは、誰かが泊まりに来る直前か、もしくは出て行った後だったのかもしれない。

「宿賃はちゃんと払ってもらえてるんですか?」

 女主人は微笑んだ。

「あなたのようなお客様は、たいへん助かります」

 さあ、もうお休みになるお時間ですよ。

「明日出発なさるのでしょう? 今夜はゆっくり休んでくださいね」

 彼女は旅人を部屋の前まで送ってくれた。

「最後に一つ、聞いていいですか?」

 女主人はうなずいた。

「夢の中で、あなたは先代の主人に会えたのですか?」

 女主人の顔が強張った。それから、無理に笑顔を作った。

「私の六番目の幸福は、叶いそうにないようです」

 扉を閉じて、旅人はまたベッドに寝転んだ。


 朝、旅人は性懲りもなく、龍のいた部屋を開けてみた。そこにはもう誰もいなかったが、まるでうろこを切り取ったような見事なエメラルドが、ベッドの上にのっていた。

 

 宿屋を出発して、旅人はまた歩き続けた。それから何十年かが経って、来た道を折り返し戻った時、六福亭は変わらずそこにあった。扉を叩きながら、彼は自分の幸福はかなっただろうかと自分自身に問いかけた。

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六福亭という宿屋の話 六福亭 @rokuhukutei613

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