第2話 サブレ:Bパート

「サブレは、フランスのクッキーって話をしたじゃない?」

「うん」

「名前の由来はいくつかあって、発祥の街の名前がサブレであったとか、フランス語で砂はサブルっていうんだけど、その発音からとか、17世紀に実在したサブレ公爵夫人が考案したからとか、そんなものがあるらしい」


「街や人が由来っていうのは理解できるけど、砂っていうのはどういうこと?」

「食感がサクサクしていてそれが砂を連想させるかららしいよ」

「へえ。砂を噛むって日本だとあんまりいい意味じゃないよね。悔しいことの例えだっけ?」

「それ実は、違っていて、味わいや面白みがないっていうことらしい。誤用されている日本語だね」

「それじゃ、サブレっておいしくないものみたいになるね。言葉の違いっておもしろい。ハイネはいろんなことに詳しいね」

 わたしは感心してハイネを見上げる。

「長く生きているからね」

 ふわふわと浮きながら胸を張るハイネ。

「いや、もう死んでるでしょ」

「そうだった! あたし幽霊なんだもんなあ。でもお菓子は食べることができるからよかった!」


 ハイネと会話を交わしていると、本当に気の置けない友人と話をしている気分になる。ハイネが幽霊になる前に会いたかったなあ、と思う。でもハイネっていつ死んだんだろう。


「ハイネっていくつなの?」

「あたし? いくつなんだろう。少なくとも二十歳は超えて死んだかな。お菓子に関することについては次から次へと浮かんでくるんだけれど、自分の人生のことはあいまいな記憶しかないんだよ」

「パティシエだったのかな」

「たぶん違うと思うけど……。クリスチャンだっていうことしか分からないんだ。お菓子を食べたり、カレンと話をしているうちになにか思い出すかもね。

 さて、バターも柔らかくなったし、はじめようか」

 そう言って、ハイネはわたしに作業の指示を出す。


「まず、ボウルに入っているバターを、泡立て器で柔らかくなるまで混ぜて」

 わたしは言われた通りに泡立て器でバターを混ぜる。もう柔らかくなっているけれど、泡立て器の中にかたまりが入り込んで、何度かそれを押し出しながら、混ぜた。粘り気が出てきて、クリーム状に変わる。


「いい感じ。そこに粉砂糖を少しずつ加えていって。うんうん。オーケー。そして塩をふたつまみ入れてちょうだい。で、今度はふわっとなるまでひたすら混ぜて」


 バターと粉を混ぜる時、ちょっと不思議な気落ちになる。最初は分離しているみたいなのにそれがお互いを認め合うようにしてひとつになってゆく。そうすると手応えが変わってきてふわりと心地よさを感じる。


「では、そこに卵黄をひとつ混ぜて。白身は入れないけど、できる?」

「うん。わたし卵を割るのは得意なの」

 卵を割って、白身を殻に入れてうまく黄身を取り出す。今回、白身は使わないんだって。それなら後で料理する時に何かに使おう。

 オレンジ色のまんまるをボウルの中に入れる。


「生クリームも混ぜてちょうだい」

 大さじひとつの生クリームをボウルの中に注ぐ。

「この生クリームって液体だけれど牛乳となにが違うの。見た感じは一緒だけれど」

「脂肪分の違いだね。生クリームは脂肪分たっぷり」

 そうなのか。

「あのさ、ハイネ」

「うん?」

「わたしお菓子作りを子どもの頃にしていたって言ったじゃない?」

「うん」

「あの時は幼すぎて、全然わかっていなかったけれど、今なら分かる」

「何か分かった?」

「お菓子は太る要素しかない」

 うんうんとハイネは目をつぶって頷く。


「そうなんだよね。でも市販のお菓子でもそれは同じことだよ」

「だから、わたし、お菓子控えるようになったよ。手作りでもすごくおいしいし。でもね、いわゆるパティスリーとかそういうケーキ屋さんのケーキにはすごく興味を持つようになった。こだわり、すごいんだろうなあ、と思って」

「ね。リスペクトできるよね」


 レシピ通り作るとおいしいお菓子ができる。そのレシピを考えるのってすごいことだなあ、と思う。そう考えると市販のお菓子も作るの大変なことだよなって思う。

 混ぜる手間も大変だしね。

 わたしの手元の生地は卵黄と生クリームが混ざって黄色みを増して、また違う柔らかさを纏う。

「その生地に薄力粉をふるい入れて。そして粉気がなくなるまでゴムベラで切るように混ぜてみて」


 ハイネの指示に従って薄力粉をふるいにかけて入れる。わたしには意味が分からないけれど、粉をこうしてさらに細かくすることにも大きな意味があるんだよね。パサつきのある生地をゴムベラで混ぜてゆく。

 そうしてひとかたまりの淡い黄色の生地が出来上がる。


「綺麗にできた! これをラップに包んで冷蔵庫で15分寝かすよ」

「あのさ、生地を寝かすことに意味あるの?」

「うん。そうすることで型抜きがしやすくなるんだ。それに焼き上がった時に食感がサクサクになるの」

「へえ。そういうのって誰が発見するんだろうね。すごいなあって素直に思うよ」

「ほんとだね」


 生地を寝かせている間に、わたしはコーヒー豆を挽くことにした。スコーンの時は紅茶だったけれど、サブレならコーヒーでもいいよね。

 冷蔵庫から豆を取り出して、グラインダーでガリガリと豆を挽く。コーヒーチェーン店のブレンドだ。色々試してみたけれど、毎日飲むならこのテイストが一番落ち着くな、と思っている。

 コーヒーメーカーに豆と水をセットしてこちらも待機。


「そろそろ時間かな。じゃあ生地を取り出してめん棒で伸ばそう。厚さ3ミリくらいに伸ばしてちょうだい」

 お菓子作りと料理って似ているところはもちろんあるのだけれど、ハイネと一緒に作っていて決定的に違うな、と思うのはグラム数とかしっかり計量するところ。お料理だって計算する要素はあるけれど、お菓子ほど厳密に量ったりしないな。それはわたしが雑なだけかもしれないけれど。


 スコーンを作った時に知った、打ち粉というのをここでもやってみる。生地がベタつかなくてするすると伸びてゆく。

「型抜きをする前にオーブンレンジを予熱しておいて。180度でお願い」


 予熱のスイッチを入れて、いよいよ生地の型抜きだ。スコーンを作った時、型はあったほうがいいな、と思って百均でクッキー型を買っておいたんだ。今、百均に製菓コーナーなんてあるんだね。自分で作らない限り、一生気づかなかったと思うよ。


 丸型と菊型でシンプルにくり抜く。それをクッキングシートを敷いたオーブンレンジの天板に並べてゆく。

「結構、数作れるね」

「うん。50枚分の分量だから」

「そんなに?!」

「これも卵黄1個を使うところが基準になっているんだよ」

 確かに卵黄を分けたとしても、他に何に使ったらいいかわかんないや。とはいえ、白身の方も何に使ったらいいかはさっぱり思いついていないのだけれど。


 予熱の終わったオーブンレンジに型抜きした生地の乗った天板を差し入れる。

「あとは15分で焼き上がるのを待つだけだよ。結構、簡単だったでしょ」

「お菓子作りって楽しいね。粉とか液体を混ぜ合わせて形ができるのがなんだか不思議な気分になるよ。料理は食材からなんとなく形が予想されるけれど、お菓子はメタモルフォーゼする感じがあるね」


 わたしは焼き色がついてゆくサブレの表面を覗き込む。じっくりと焼けてゆく姿を見るのはなんだかわくわくするね。

 キッチンは挽いたコーヒーの香りと焼けてゆくバターの匂いで満たされてゆく。真夜中から早朝に向かっている時間に静かに匂いが満ちるのはとても幸せなことに感じる。


 ピーピーピーピーピー。

 オーブンレンジのブザーが鳴り、サブレが焼き上がる。オーブンミトンをして天板を取り出す。ふわっとバターの匂いが強くなる。

「香りも焼き色も最高じゃん! カレンはお菓子作りの才能あるよ!」

「ハイネが言った通りにしかしてないよ。でも、こんな風にできあがるとやっぱり嬉しいもんだねえ」

「じゃあ、早速いただいちゃおう!」

「夜明け前のサブレとコーヒー。フランスにあるアメリカのダイナーみたいだ」

 わたしはマグカップにコーヒーを注ぐ。


「あたし、コーヒーは飲めないからカレンの分だけ注いで」

「あれ? コーヒー飲めないんだっけ?」

「違うの。あたし、お菓子しか食べることができないから」

「ほんと変な幽霊だよね。さわれるのは聖書とお菓子だけなのか」

「それじゃいただきまーす!」

 わたしたちはお皿からサブレを一枚、つまんで齧る。


 割れたかたまりから、ふわっとバターの香りが立ち上がる。噛めば、さくさくしていて、これが砂みたいな食感? と訝しく思うけれど、口の中に広がるおいしさは、どこまでも続く海辺の砂みたいな雰囲気ある。うわあ、おいしい! 焼き菓子屋さんで買うのとおんなじだ!

「ハイネ、これ、すごくおいしい。何枚でも食べられちゃいそう。やっぱり金曜の夜は何にも食べないで寝るのが正解だ」

「はわあ! カレン、このサブレ、本当においしいよ。うん、あたしも何枚でも食べれちゃいそう」


 頬を赤く染め、ふくらましてハイネはサブレを齧っている。本当においしそうに食べるようなあ、とハイネの様子を見て、わたしは嬉しくなる。こんなに嬉しそうにしてるなら、もうすぐにでも昇天できちゃうんじゃない?

 ハイネの横顔を見ながら、わたしも続けざまにサブレを齧る。齧るたびにバターの匂いに包まれて、夢見心地になる。おいしくて嬉しいなあ、と思っていると、だんだん視界がぼやけてくる。目をこすってもハイネの姿がかき消えてゆく……。待って、ハイネ。まだ消えたりしないで!


「ハイネ、待って!」

 わたしはようやく声を出すことができた。すると、誰かが振り向いてこちらを見る。ハイネ、ではない。あ、あのお屋敷に住んでいる女の子だ。

 わたしはいつの間にか小高い丘の上に立って春風のような心地よい風に吹かれていた。お菓子を食べて、またわたしは夢を見ている?

「お姉ちゃん!」

 わたしは女の子に声をかけられる。女の子はこちらに向かって走ってくる。

「お姉ちゃん、あたしのことを呼んだでしょ」

 うーん、呼んだのはハイネなんだけれど、わたしまた変なことになってる?

「うん。呼んだ、みたい」

「お姉ちゃん。いっしょに遊ぼ」


 そう言ってハイネの面影のある女の子はわたしの手をとって走り出す。丘の上をひとしきり走った後で、女の子はばったりを倒れる。

 何事! と思ったけれど、肩で息をしながら女の子は

「楽しかった!」

 とあえぎながら笑っている。

 楽しいならいいんだけど。

「ああ、お腹すいた!」

 お腹すいたか。焼きたてのサブレ、あげられたらよかったんだけど。

「お姉ちゃん、ポッケになにを入れてるの?」

 女の子は体を起こし、わたしのズボンを指差す。なんかポケットに入れていたっけ? 右手を入れると、確かに何か入っている。取り出してみれば、それは今作ったばかりのサブレ。ほんのり温かさも残っている。

「クッキーだ!」

「これは、サブレっていうの。クッキーよりバターが多めなんだよ。食べる?」

「うん!」

 差し出したサブレを女の子は大きな口を開けて頬張る。


「おいしい! もっとちょうだい」

「え。もうないよ」

「そのポッケ、叩いたら出てくるんじゃない?」

 え、そんなことある? ぽけっとまさぐると確かにサブレの形。試しに叩いてみるか。

 ぽんと叩くと、一枚サブレが飛び出して女の子の手に収まる。

「わあ! 魔法のポッケだ!」


 これ、あれじゃない? 魔法じゃなくて聖書に書かれている奇跡ってやつじゃない?

 ポケットを叩くたびにサブレが一枚ずつ飛び出してくる。なにこれ、おもしろい。調子に乗って叩いていたら、女の子の手のひらにいっぱいにサブレが山となる。確かにすごくたくさん作ったけれど、こんなにも?


「お姉ちゃん、ありがと! これみんなに分けてあげていい?」

「もちろん。みんなで食べて」

 女の子は丘を駆け降りてゆく。その姿がだんだん朧げになってゆく。かすんで見えなくなったと思ったら、突然、自宅のキッチンに引き戻される。


 お皿の上にサブレが山盛りになっている。その脇にハイネの筆跡のメモ帳。

『サブレ、最高においしかった。昇天しちゃうんじゃない? と思ったけれど、まだでした。また来るね』


 わたしはお菓子を食べるたびに女の子に出会うことになっているみたいだ。いったいあの子は誰なんだろう。ハイネと関係があるのは間違いないと思うけれど。

 そしてわたしはハイネのメモが残されていることに、ちょっと安堵のような気持ちがあることに気づく。また来週末も深夜のキッチンスタジオは続くんだ。


 お皿の上には食べきれないほどのサブレ。会社に持って行けるのは週明けか。手作りのお菓子ってどのくらい日持ちするものなのかな。焼き菓子だからしばらくは大丈夫か。先輩に持って行ってあげよう。


 部屋着のポケットをぽんと叩く。サブレは現れなかったけれど、バターの香りが鼻をくすぐる。幸せな朝だなあと思う。

 サブレをかじり、コーヒーを飲んだ。



***


<参考文献>

フランス伝統菓子図鑑 山本ゆりこ著 誠文堂新光社

お菓子の由来物語 猫井登著 幻冬舎

聖書 新改訳第3版©2003 新日本聖書刊行会

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る