第3話 カトル・カール:Aパート
今、わたしはハイネの文字で書かれたメモ帳を見て、彼女と初めて会った日のことを思い出している。そうだ、このレシピには覚えがある。
遡ること数週間前。引っ越し業者が到着する前にわたしは新居のドアの鍵を開けにきていた。
鍵を開け、玄関で靴を脱ぎ、部屋の中へと進む。
まだ何も運び込まれていない空間は、日の光に満ちていて、外よりもずっと温かく静かだった。そんな空っぽの空間の床に一枚の紙が落ちていた。不動産屋さんか誰かが落としていったものかな、と思い、捨てるつもりでその紙を拾った。そこにはこんなメモ書きがされていた。
バター(食塩不使用)110g
粉糖 110g
溶き卵 110g
薄力粉 110g
パウンド型
パウンド型、と書かれているからこれはきっとパウンドケーキのレシピなのだろうと思った。まだゴミ箱すらこの部屋にはないから、ひとまず、着ていたジャケットのポケットにその紙切れを突っ込んだ。
その後、引っ越しがひと段落したあと、新しく買い換えた冷蔵庫は空っぽなので、買い出しに出かけた。その時羽織っていたジャケットのポケットからそのメモ紙がでてきたのだった。
スーパーに寄るから、これ買ってみようかな。
本当に気まぐれだったと思う。卵は常備していていいものだけれど、バターはそこまでたくさんいらないし、粉糖と薄力粉に関しては無用だった。
でも全部の分量が110gずつというのがなんだか気になったし、そんなの本当にあってる? と思ったりしていた。
それで、料理の食材や水回りのスポンジなどと一緒にこの材料を揃えたのだった。パウンド型は使い切りの紙製のものが置いてあったのでそれを購入した。
職場に近いうえに今までより家賃が安くなる物件を見つけた時、もうここしかない、と飛びついた。通勤時間が苦痛に感じていたので、会社に入社してからずっと物件検索は続けていた。
2階の角部屋で、隣と階下に住人がいない。広さもひとり暮らしには十分な広さ。窓は大きく採光もいい感じの日だまりを作っている。駅までは徒歩圏内、会社までも3駅。大家さんもいい人で、文句なしの物件だった。
ただ大家さんが気になることを告げていった。
「変な音とか、何か見えてもね、それはそういうもんだから。こんないい物件ないよ。しばらくすれば慣れるから、安心、安心」
今、思えば、それって完全に事故物件と言っているようなものだった。
そして、あの日のAM3:00がやって来る。
「ねえ。ねえ。起きて」
その日は残業で、食事を作るのが億劫で帰宅してから、シャワーだけを浴びてお腹を空かせたままベッドに潜り込んでいた。懐かしく甘い匂いがする夢を見ていた。
「ねえ。ねえってば。起きてよ」
「う、ううん……? お母さん……?」
わたしは完全に寝ぼけて目をこすって体を起こす。
「やっと起きた! おはよう。ちゃんと材料買ってきてくれたこと、とっても嬉しい! これからお菓子作りを始めようよ」
「はっ! 誰、あなた?」
一瞬で眠気が吹き飛んだわたしは、ふわふわと浮遊する人影を捉える。
「おはよう。あたしは小手毬ハイネ。ハイネって呼んでくれていいよ。せっかく一緒に住むことになったんだから、お菓子作ろ」
眠気が覚めたわたしだけれど、全然、このシチュエーションを飲み込むことができなかった。まだ夢を見ているのだろうと思った。そのくらい目の前の光景には現実感がなかった。それでなのかもしれない。わたしは奇怪な行動を取ることになった。
夢の続きだと思いながら、深夜3時に幽霊と一緒にお菓子を作ったのだった。
***
スーパーの中で取り出したメモ帳に書かれているのは、はじめてハイネと会った時と同じレシピ。きっとこれはあの時のリベンジを果たそうっていうハイネの誘いだろう。
パウンドケーキだと思っていたあのレシピは、カトル・カールと呼ばれるケーキだった。同じものを指すんだけれど、カトル・カールはフランス語。材料をそれぞれ1パウンドずつ使うのがパウンドケーキだけれど、1パウンドって450gもあるから、カトル・カールの方がしっくり来るのだとハイネは言っていた。なんか三位一体の話をしていたのだけれど、あの晩のことは夢だと思い込むことにしていたから、あんまりよく覚えていない。
ケーキもうまく膨らまずに失敗に終わっていたのだった。二度寝して起きた時に、ぺしゃっとしたケーキが残っていて、ケーキ作りが現実だったことを認識する。寝ぼけながらもお菓子作りをしたという自分に驚いてはいた。
でも変な夢だったなあ、くらいにしか実感はなかった。幽霊のことを怖いと思うこともなかった。そう、あの時も普通にお菓子作りをしていたから、これは幼い時代を思い返した夢なんだろうと思っていた。
まさか毎週のように幽霊がやって来るなんて思ってもみなかった。
「おはよう、カレン」
「おはよう、ハイネ」
わたしは午前3時に起こされて、ゆっくりとキッチンに向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲む。
「そうそう。水道管にひと晩溜まった水よりもそっちの方がいいよ」
わたしは腰に手を当てて、水をごくごくと飲む。飲み終えて言う。
「で、今日はあの時のリベンジってわけ?」
「ご名答! あたしたちの出会いの日、うまく膨らまなかったカトル・カールに再チャレンジするのです!」
わたしは冷蔵庫にミネラルウォーターをしまう。
「あ、今のうちにバター110gを常温に戻しておいて」
「オーケー」
わたしはキッチンスケールでボウルにバターを切り入れてゆく。
「前回の失敗はさ、膨らまなかったことじゃん? ベーキングパウダーを入れたらいいんじゃない?」
わたしの提案にハイネは腕組みをして頭を傾げて、うーんとうなっている。
「それだと簡単に膨らむんだけれど、トラディショナルな作り方でもうまく膨れてくれるはずなんだよね。あの時は、カレン、寝ぼけたままだったからうまく混ぜることができなかったんだよ」
「まあ、それはそうかも。あの材料だけで膨らむんだったら、それ試してみたい」
「そうこなくっちゃ。
「四位一体? 普通、
ハイネが身を乗り出してくる。
「おお! カレンは三位一体のこと知っているんだ!」
「なんかよく政治家が三位一体の改革、とかやるじゃない。意味はよく分かんないんだけれど」
ふふん、とハイネは腕組みをして話を続ける。
「三位一体って言うのはね、三つのそれぞれが同じ位格で、それが一つになるということだよ」
それは分かるよ。だから、
「カトル・カールは材料が四つそれぞれの量が一緒で、一つのものを作り出すから四位一体って言ってるんだよね」
「ご名答。それでね、三位一体っていうのは、神様とイエス様と聖霊様がそれぞれの位格を持ちながら、一体の神であると言うことなんだよ」
「お、また聖書の講義が始まりましたね」
「うん。でも聖書には三位一体という言葉は載っていないの。神学という学問の中で生まれた言葉なんだよね」
ハイネは聖書をぱらぱらとめくる。めくりながら話を続ける。
「神様と御子イエス様、それに聖霊という存在がそれぞれ神であることを示しているの。水と氷と水蒸気に例えられることもあるけれど、それだと不十分かな。変化するわけではなくて、それぞれが存在しあっているのに一体だということなの」
「なんだか難しいな。そもそも聖霊って何?」
「だよね。それが難しいんだよ」
「ハイネも聖霊?」
ぶんぶんぶん、と首を振る。とんでもない、と言って続ける。
「聖霊は神様の霊なんだよ。あたしみたいな幽霊とは全然違う。でも聖霊のことを伝えるのはとっても難しいな。聖書に載っているのはこの出来事の時」
ハイネはそう言って、めくっていた聖書の後ろの方を開く。
「"五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。"
使徒の働き 2章1~4節
聖霊に満たされると異国の言葉でも話せるようになるみたい」
「へえ。便利だね」
ハイネはぱたん、と聖書を閉じてうーん、と唸りながら話し出す。
「でも、そういうことじゃないんだよな。聖霊様のことは本当に伝えるのが難しいよ。でも、このことはクリスチャンにとってすごく大事なことなんだ。あたしも聖霊様に満たされればすぐに昇天できるような気もするんだけれどね。きっと邪念が多いんだよ」
「ハイネから邪念を感じたことはないけどね。全然、怖くないし」
「でもイエス様の求める基準てすごく高いからさ。なかなかそこまでたどり着けないでいるよ」
「ふうん、そうなんだ。でもさ、そしたらもっとこの世の中はクリスチャンの幽霊であふれかえったりしないかな? みんながみんなまじめなクリスチャンばかりでもないでしょうに」
ハイネはふるふると首を左右に動かす。
「いや、意外とみんなまじめなのかも。あたしはお菓子に気を取られて、それでうまく昇天できないでいるのかも」
だったら必要なのはお菓子作りじゃないんじゃない? と思ったけれど、それを言うことはしなかった。だってハイネとお菓子づくりをしている時間は、わたしの大事な生活の一部になっている。
ハイネは豊かな髪の毛をかき上げながら、難しいんだよね、とまた言っている。
「聖霊様のこと、もっと上手に伝えるように頑張ってみるね。でも、今は目の前のことに集中しようか。
カトル・カールのリベンジはじめましょう!」
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