第2話 サブレ:Aパート

 わたしはハイネの文字で書かれたメモを片手にスーパーの中を歩いている。

 ハイネが現れてから、土曜日の早朝はお菓子づくりの時間になった。なので、金曜日のお昼の時間に材料の買い出しをすることにしている。粉ものはまだ残っているので、足りないものを補充してゆく感じ。


 無塩バター、100gならまだ残っているから大丈夫。薄力粉も残っているはずだ。他には、……粉砂糖か。粉砂糖とグラニュー糖って何が違うのかな? よく分かんないから買っておこう。塩、卵はあるから大丈夫。あとは、生クリーム。小さいパッケージのこれでいいかな?


 うん、ひと通りの食材は揃えた。これでいったい何ができるんだろう。


 レジを終えて、持参した保冷バッグに食材を詰め込んでゆく。会社に自由に使える冷蔵庫があるのはとても助かる。まあ、会社と言っても繁華街の裏手にある一軒家なんだけどね。そこでわたしは輸入雑貨の卸をしている会社で事務をしている。


 事務所に戻ると先輩が訝るような視線でこちらを見つめている。

「たっぷり食材を買い込んで、またお部屋デートかよ」

 わたしは、まあ、と曖昧に返事をする。

「いいなあ。お部屋デート! でも私にはローツーがあるから!」

 ローツーと言うのはロードバイクツーリズムという2.5次元ミュージカルのことらしい。先輩の推しのメンカラはペールピンク。それで髪の毛にメッシュのピンクを入れて、マニキュアもそれに合わせている。自由な職場だからできることだと思うけれど、そういう推しがいる生活ってすごく楽しそうで憧れる。わたしの生活って地味かな。まあ、幽霊とお菓子づくりをするっていうのは、なかなかない経験ではあると思うけれども。


***


「おはよう、カレン」

「おはよう、ハイネ」

 ふんわりとした匂いが闇の中を漂う。いつものバターの香り。AM3:00の東京は、もちろん、しんと静まっている。

「カレン、さっそくなんだけれど、バターを冷蔵庫から取り出してくれるかな?」


 わたしはパジャマのまま、キッチンに向かい、冷蔵庫からバターを取り出す。

「100gを量ってボウルに入れておいてもらえる?」

 わたしはキッチンスケールでバターの分量をはかり、ボウルに入れる。

「これでしばらく待ちます。バターを室温に戻しておかないとうまく混ざらないからね」

「じゃあ、その間に顔を洗って、着替えてくるね」


 わたしは洗顔をし、部屋着に着替える。

 その間にちょっとキッチンを覗いてみたけれど、ハイネはふわふわとあちらこちらに浮遊している。


「今日は何を作るの?」

 わたしが声をかけると、ハイネは満面の笑みで答えてくれる。

「じゃーん!」

 そう言ってハイネが取り出すのはわたしの持ち物である聖書。ほんとに幽霊なのに聖書が持てたり、お菓子を食べることができたりするのはどういうことだろう、と思う。そんな幽霊であるハイネを受け入れているわたしもどうかな、と思うところもあるけれど。


「聖書の中にはパンと魚が増える話があります。イエス様のことを記録しているのは新約聖書の四書簡。それらは福音書と呼ばれているの。福音というのはよい知らせ、グッドニュースのことね。聖書ってそういうことが書かれているんだよ。それでパンと魚のお話は、四つの書簡のどれにでも登場するの」

「そのお話と今日作るお菓子に繋がりがあるということ?」

「そう! と言いたいところだけれど、実はちょっとこじつけかなあ。でもまずはその箇所を読んでみようか」


 ハイネが聖書をぱらぱらとめくる。

「"「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。"

ヨハネの福音書 6章9~13節

 5千人の給食と呼ばれている箇所なんだけれど、他にもイエス様は4千人の給食も行っているんだよね。とにかくほんの小さなパン切れからたくさんの人を養った話なんだよ」

 ハイネは、ぱたんと聖書を閉じる。


「給食って小学校みたいだね。でも、食を給仕するということかな。イエス様ってそんなこともしているんだね。パンを分け与えるなんて、すごい奇跡だと思うけれど、なんというか、すごい即物的」

「そうだね。お金の例えとかも多いし、読み進めるとおもしろいよ」

 わたし、あんな厚い本、読むことなんてできないようなあ、と思う。


「で、今回のお菓子はサブレ!」

 ハイネは元気に今日のお菓子を宣言する。

「サブレ? サブレってクッキーみたいなやつ?」

 ハイネは頷く。

「ご名答。サブレはフランスのクッキーかな。サブレの方がクッキーよりもバターの量が多いんだ」

「またバターたっぷりか」

「そうだよ。バターが少ないと眠い味になっちゃって、あたしが昇天するには力不足なんだよ」

「で、サブレにはどんな効力があるの?」

 えっと、とハイネは言い淀む。

「……サブレは、ポケットに入れてたたくと増えるでしょ」

「は? それはビスケットの話でしょ」

「ま、サブレもビスケットみたいなものだから」

「ポケットに入れて叩いたって割れるだけで増えないでしょ」

「ほら、だからイエス様はすごいってことだよ。そのことを聖書から学びましょうということ」

「ん? ハイネってわたしのことクリスチャンにしようとしてるでしょ」

「なったらいいなあ、って思ってる」

 うふふ、とハイネは笑う。


「でも死んで天国に行けないで、さまようんだったら意味なくない?」

 うっ、ハイネは胸を押さえる。ハイネ、いちいち仕草が芝居掛かっているんだよね。それがかわいくもあるのだけれど。

「なかなか鋭いね。そうなんだよ。あたしクリスチャンなのに幽霊になっちゃって、情けないなあって思っているよ」

 ハイネがなんだかしょんぼりしてしまった。やっぱり幽霊でいることは寂しいことなんだろうか。


「そうやってさ、ハイネは聖書を持てるわけじゃん。だから少なくとも悪霊の類ではないんだから安心していいんじゃない?」

 慰めるつもりでそう声をかけたけれど、ハイネはこんな風に答えるのだった。

「実は悪霊も聖書はしっかり読んでいるんだよね。イエス様が40日40夜断食をした後、サタンの試みを受けるんだけれど、その時、サタンは聖書の箇所を引用して話をするんだよね。それをやはりイエス様も聖書の箇所からやり返すんだけれど、そのやりとりが結構スリリングなんだよ」

「へえ。サタンも聖書を読むんだ。ほら、ドラキュラとかってさ、聖書が弱点だったりするじゃん。そういうわけではないの?」


 ああ、それね、とハイネは答えてこう続ける。

「そういうわけではないみたい。だからわたしもただの幽霊で、天国に行けないのならば、ほんとのクリスチャンじゃないのかもしれない」

「これだけ聖書のこと知っていたら大丈夫でしょ。神様だって認めてくれるでしょ。でも、よほどこの世に深い執着があるんだね。それがお菓子作りで解消するのだったらさっさと作り始めようよ」

「あ、またそうやって急かす! お菓子作りは丁寧に作ってゆくものだよ。手際のよさは必要だと思うけれど」

 ハイネは頬を膨らましてわたしのことを指差す。


「そうでした。丁寧に作るよ」

「でも、カレン、混ぜるのとかとっても上手だよね。自炊もよくしているしね」

 わたしの手元を覗き込んでうんうんと頷く。

「え、ハイネ、いつもわたしのこと監視しているの? なんかプライベートを覗かれているのってやっぱりやだなあ、って思うけど」

「ごめんごめん。もちろんそんなことしないよ。いい匂いがするなあ、とかおいしそうだなあ、とかちょっとそういう匂いにつられて覗き込んでしまっただけだよ。カレンのプライベートは重視しているから!」

 午前三時に起こされてプライベートも何もあったもんじゃないけれど。でも幽霊だから仕方ないか。


「お菓子作りの手際がよいのは、子供の頃、よくお母さんといっしょにお菓子作りをしていたからだよ。それを今、思い出しながら作ってる。当時は別に楽しいとも思っていなかったけれど、実は結構、楽しみに待っていたのかも。

 そうそう、ハイネがやってくる時に、いつも子供の頃の日曜日の午後の気分になるんだ」

「どうして?」

 幽霊は首を傾げている。


「うん。いつも日曜の午後がおかし作りの時間だったから。バターの匂いってその時の思い出の香りなんだなって思ったよ。やっぱりハイネ、バターの匂いがするんだよ」

 ハイネは、そうかな、と言って自分の服をくんくんとかぎだす。白い衣は風もないのにゆらゆらと揺れていて、わたし、ハイネのことを幽霊を見るようではなく、天使を見ているようにしているのだと気づく。


「バター、まだ柔らかくならないね。今日はちょっと冷え込んできているから、少しお湯を使おうか」

「ポットにお湯を入れるから、沸かすね」

 電気ポットに水道水を注ぐ。数十秒でお湯が沸いてしまうのを、これはすごい技術だなあっていつも感心している。

「沸いたお湯の上にバターの乗ったお皿を載せよう」

 お湯を深い鉢の食器に注ぎ、その上に蓋をするようにバターを乗せているお皿を置く。

 少し温めたバターには、ナイフがすんなりと入る。もう少しだけ時間を置けば、バターは常温に戻るだろう。

 いよいよサブレ作りだ。

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