第1話 スコーン:Bパート

「それでは、さっそく作り始めようか。じゃあ、まずは粉を混ぜてゆこう。薄力粉とグラニュー糖、それにベーキングパウダー。塩ひとつまみをふるいにかけるよ」


 わたしはハイネの指示する通りに粉を量ってビニール袋の中に入れてゆく。薄力粉200g。クッキングスケールを使って、なるべくレシピ通りのグラム数になるようにする。200gって結構あるな。次はグラニュー糖25g。ひえー、お砂糖こんなに入れちゃうんだ。


「お砂糖、なかなか入るね」

「それなりの個数ができあがるからね」

「じゃあ、少ない数にして、それぞれを控えめにしたらいいんじゃない」

 うーん、と腕組みをするハイネ。


「卵一個、使いたいんだよね。そういう分けにくいものを基本に考えると、数を作った方がよくなるんだよ。その方がおいしく出来上がることは確かだしね」

「ふうん、そんなものなんだ」


 粉の入った袋にベーキングパウダーを小さじ2杯。レシピのメモ書きを見た時、計量スプーンいるなあ、と思って購入した。自炊もそれなりにするけれど、料理はだいたい目分量なんだよね。塩はひとつまみか。ひとつまみってどのくらい? これは感覚でやっちゃおっと。


 今度は、混ぜ合わせた粉をふるいにかけてボウルの中に入れてゆく。

「そして、バターだよ! やっぱりお菓子をおいしくするのはバターだよね。あたしバター大好き!」

 バターも量るけれど、50gはなかなかの量だよ。カロリーどのくらいになるんだろう。

 粉の入ったボウルの中にバターを細切れにして入れてゆく。それをゴムベラで切るようにして混ぜてゆく。


「今度はそれを手で混ぜて」

「手で触っていいものなの?」

「体温で柔らかくしながら、そぼろ状にしてゆくの」

 手を洗ってからよく拭いて乾かし、バターの入ったボウルの中に突っ込む。冷えて固かったバターのかたまりがゆるゆるとわたしの手の熱で溶けて小さなダマになってゆく。


「じゃあ次は卵と牛乳を別のボウルで混ぜ合わせて」

 卵50g。どうやって量るのかと思ったけれど、割ってみたらちょうど一個が50gなんだね。ハイネが分けにくいと言っていたのはそういうことか。生卵を半分にするのは難しいことだものね。

 割った卵に牛乳70mlを加える。それをバターを混ぜた粉が入ったボウルの中に流し込む。


「今日は暑くも寒くもない気候だから水分の調整は難しくないかな。うまく混ざるでしょ」

 わたしはハイネの言葉に頷いて、ボウルの中身を混ぜ合わせてゆく。ゴムベラの先で生地が出来上がってゆくのを感じられる。なんか不思議な気分になるよね。粉とバターと牛乳と卵を混ぜ合わせるとなんとも魅力的なクリーム色の柔らかいかたまりが出来上がってゆく。


「あ、いい感じじゃん! じゃあそれをまな板の上に乗せよう。強力粉を少し撒いて板にくっつかないようにして」

 ハイネに言われた通りにまな板のうえに強力粉を撒いてゆく。これを打ち粉というのだって。これを撒くことによってまな板と生地がくっつかないようにする役割があるみたい。なるほど、粘り気のある生地だけれど、粉をまぶすとさらさらだから、くっつかなくてすむんだね。


 これを今度はめん棒で伸ばしてゆく。めん棒は何かの料理を作る時に買っておいたものだ。ワンタンの皮を作ろうと思った時かな。それもずいぶん以前の話。ずっとほこりをかぶっていたけれど、役立つ時が来るなんて!

「何回か折り重ねてよく捏ねてちょうだい」

 生地を触っていると、なんだか幼い頃に粘土遊びをしていた時の感覚になる。楽しいんだよね。柔らかいものを伸ばしてゆく時、気持ちよさを感じるよ。


「では、いよいよ型抜きをします」

「あ、わたし、クッキー型って持ってないよ」

「大丈夫。コップのふちを使えばいいだけだから。そういうありものを使って作ってゆく方が素朴な味わいが出ていいものだよ」


 そうなんだ。わたしはガラスのグラスを取り出して、伸ばした生地から型を抜いてゆく。こんななんの変哲もない丸の型でほんとにスコーンてできるのかな?


「じゃあ、オーブンを予熱して。200℃にして、予熱が完了したら、あとは15分くらい焼くだけだよ」

「へえ。なんか簡単」

「そう。手軽にできるけれど、バターたっぷり入っているしおいしいよ!」


 予熱をしている間にオーブンシートの上に型抜きした生地を並べてゆく。九つの丸型が出来上がった。でもこれ、ほんとに膨らんでくれるのかな。

 オーブンレンジのブザーが鳴って予熱が完了した。すぐに生地を乗せたオーブン皿を差し入れる。

 これであとは焼き上がるのを待つだけだ。


「カレンはスコーンがどんな由来のあるお菓子なのか知ってる?」

「いや全然。なにか特別な物語でもあるの?」

「うん。スコーンは『ヤコブの枕石』にルーツを持つお菓子なの。聖書にはこんな箇所がある。

"ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。"

創世記 28章11~12節

 この彼というのがヤコブという人で……」


「ちょ、ちょっと待って!」

 わたしは声を荒げる。

「ハイネ、その本、なに?」

「なにって、聖書だよ」

「ど、ど、どうして持てるの?」

 そう、ハイネは分厚い本、聖書を開いてその箇所を読んでいる。


「ああ、そうなんだよね。なぜか聖書だけは持つことができるんだよね。あたしがクリスチャンだからかな」

「え、本当は生きている普通の人なんじゃないの」

「え、あたし幽霊だよ」

 そう言ってハイネが右手を差し出す。わたしはその手のひらを握ろうとするけれど、すうっとすり抜けてしまう。

「ほらあ」

 わたしはハイネの持つ聖書に触れてみる。そっちの方はちゃんと掴むことができる。物理として存在している。


「でも、カレンが聖書持ってるなんて驚いた」

 あ、この聖書、わたしのか。

「そうだった。わたしミッション系の高校に通っていたから。クリスチャンの叔母さんが入学祝いにくれたんだよね。もらってそんなに嬉しいものでもないし、でも捨てられないじゃん。だからずっと本棚に刺さったままだったけれど」

「でも、今こうして活用できるわけだ。叔母さん、グッジョブだね」

 ハイネはサムアップする。


「それで『ヤコブの枕石』なんだけれどね。

 聖書には描かれていないその後の話があるんだ。古代エジプトの玉座の下の石にされていたとか、ユダヤ教の難民によってアイルランドに持ち込まれたとか、そのあとスコットランドに運ばれたとか。

 スコーンという名前の由来は、スコットランドのスコーン城の国王の戴冠式に使用された椅子の土台にされたものが由来になっているとか。それを『運命の石』と呼ぶのだけれど、その元になっているのが『ヤコブの枕石』っていうことみたい。実際に今も本物の石がスコットランドのエディンバラ城にあるみたいだよ」

「へえ」


 わたしはその話よりもハイネが聖書を持っているということの方が驚きで話の内容がうまく入ってこない。

 こんな風に幽霊のハイネと言葉を交わしているけれど、でもどこかでこれはわたしの妄想に過ぎないんだろうなあ、とか、夢見ているんだろう、と思っていた。

 でも聖書のその実体に触れた時に、これはなんかおかしなことが起こっているぞ、と認識を新たにする。


「お、焼き色ついてきたんじゃない?」

 ハイネがふわふわとしたままオーブンレンジの中を覗き込み、わくわくした声でそう告げる。

 わたしは、なんかスコーンどころではないような気がしているけれど、ひとまず落ち着こう。


 カーテンの向こうから鳥の鳴く声が聞こえてくる。カーテンを少し開いて外を見る。まだ真っ暗だ。それでも、もう確実に朝に向かっていて、親密な夜の気配はもう失われている。忙しない朝がもうすぐやってこようとしている。


 ピーピーピーピーピー。

 オーブンレンジから焼き上がりを告げる音が鳴り響く。いや、ほんとこんな真夜中にオーブンでお菓子を焼いているなんてどうかしてるよ。2階の角部屋で隣と階下に人が住んでいなくてよかったよ。夜中にこんなバタバタとしていたら、たちまちクレーム入れられちゃうよ。


「さあ、取り出して」

 ハイネに促されてわたしはオーブンミトンをはめ、オーブンレンジの四角い黒い角皿を取り出す。

 ふわっとバターの香り! これはとってもおいしそうだぞ。

「すごい、ほんとに膨らんでる! 盛り上がっていて、お店で見る筒形のスコーンみたいになってる!」

「卵黄を表面に塗ったりしたら、もっと焼き色がこんがりすると思うんだけれど、こういうシンプルなスタイルがあたしの好みなんだ。素朴な感じが、故郷の空を思い出させるんだよ」


 ハイネはまだイギリスにいた設定を続けている。でも実際にいたのかもしれないし、何よりこのスコーンはイギリススコーンとしてよくできている。

「カフェで見るスコーンとは形が違うよね」

「多分それはアメリカン・スコーン。あっちは三角のが多いよね。でもコップでくり抜いて作るっていうのがイギリスの本場っぽくていいでしょ」


 スコーンをお皿に並べ、わたしはスマートフォンでその様子を写真に収める。

「さあ、買っておいてもらったアプリコットとフランボワーズのジャムをつけていただこう。あ、クロテッドクリームももちろん用意してくれたよね」

「うん。なんかそこそこ高いクリームだったよ」

「クロテッドクリームがスコーンを食べる時の肝になるんだよ。この食べ方が一番おいしいとあたしは思っている」

 ハイネはわくわくを隠せないでいる。


「イギリスだから飲み物は紅茶だよね」

「そうだね。コーヒーじゃちょっと幻滅」

「ティーバッグのものしかないけどいい?」

「うん。それで十分。さあ、モーニングティーをはじめましょう」


 わたしのおなかがぐう、と鳴る。そうだよ、夕食抜きでこの時を待っていたのだからね。お湯が沸くまでの間にスコーンを皿に取り分ける。九つ焼きあがっている。

 テーブルにハイネと向かい合わせに腰掛け、モーニングティーの時間をはじめる。ハイネは椅子には腰掛けないでふわふわとしながらスコーンを真ん中から割る。

「なんでも『ヤコブの枕石』という神聖なものを由来としているから、ナイフは使わないで横半分に割って食べるのがマナーになっているんだって。マナーの割になんか野蛮な感じがして、あたし、それも好きなんだ。割ったところに、まずはクロテッドクリームを塗って食べてみてよ」


 ハイネに促されて焼きたてのスコーンを横に割り、そこにクロテッドクリームを載せる。クリームはすうっと溶けてしまって、すぐに生地に馴染む。これがおいしいわけ? と訝りながら頬張る。

 !

 うまい!

「スコーンもおいしいけど、なにこれ、このクリームなんとも言えない素敵な味わいがあるよ!」

「でしょう。このクロテッドクリーム、ほんとにおいしいんだから」

 わたしは夢中でスコーンを頬張る。ジャムを載せてもいい。甘酸っぱさがスコーンの粉の感じに絶妙にマッチしている。粉物でむせるような口の中にクリームのコクとジャムの甘さが波打ちながら広がってゆく。何よりバターの味わいが豊かで、おいしさの海を漂っているみたいだ。すごく幸せな気分になる。おいしいって、とっても嬉しいことだ。

 もうひと齧り。はむっとスコーンを頬張った時、カチン、と光が瞬く。


 その時、ふっと景色が変わった。

 わたしは明るい、どこかのお屋敷の庭にいる。

 その庭で小さな女の子が遊んでいる。ちょっと危ないよ、と思いわたしはそちらの方に向かう。

 そこでは高い木に架けられた梯子を小さな女の子がのぼりくだりしている。やんちゃな感じがするけれど、どうみても危なっかしい。誰かこの子を見守る人はいないの?

 と思って見ているうちに

「あっ!」

 女の子が足を踏み外す。わたしはすぐに駆け寄りその女の子の体をキャッチする。ずん、と重い。でもしっかりキャッチできたからよかった。その女の子は驚いたままの表情でわたしの顔を見ている。

 この子、ハイネにそっくりだ。幼い頃のハイネはきっとこんな感じなんだろうと思う。

 ゆっくり地面に下ろしてあげると、女の子はてててっと屋敷の中に入っていった……。


 はっ! わたしは顔を起こす。どうやらテーブルに突っ伏して眠っていたみたいだ。部屋の電気は消され、開かれた窓から吹き込む風で、ブラインドがカタカタ音を立てている。

 テーブルの上にはまだ温かいスコーン。その横に小さなメモ書きが添えてあった。

『おいしいスコーンをありがとう。でもまだこの世に未練があるみたい。また来るね。カレンの体を借りてお片付けしておきました。

シーユー』


 ハイネの筆跡で描かれているメモ。その下にもう一枚あって、それは次回のお菓子の材料が記されている。

 キッチンは綺麗に片付けられていた。

 なんか、変なことばかり起こるな。


 ハイネみたいな女の子はいったい誰だ。というか妙に生々しいあの夢はなんだったんだ。女の子の体の重さが腕に残っている。その手でお皿の上のスコーンに手を伸ばす。

 スコーンをひとつ割り、クロテッドクリームを載せて頬張る。

 でも、おいしいから、いっか。

 おいしい不思議。次はどんなお菓子を作るんだろう。



***


<参考文献>

お菓子の由来物語 猫井登著 幻冬舎

イギリスのお菓子教室 ビスケットとスコーン 砂古玉緒著 講談社

聖書 新改訳第3版©2003 新日本聖書刊行会

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