第6話 桜貝

 それから毎日、清美は放課後里子のところへお弁当を持って現れるようになった。

 清美は夏の間は毎週日曜日の午前中は水練学校に通っている。だから一旦家に帰ってから里子のところへやって来るのだが、水着を着たままやって来てはいっしょに潜るようになった。


 水中で里子のやっていることをよく見ておいて、同じように真似をするのだが、清美は水練学校に通っているだけあって水中のかなり深い所まで平気で里子に付いて来るし、何も教えなくても見よう見真似で器用に獲物をとるから結構役に立った。清美のおかげで里子の持ち帰る収穫は倍増した。でも里子の手元に入ってくるお金はそんなには増えなかった。それでも里子は一人ぼっちではなく清美と二人で漁をすることに今までにはなかった楽しさを覚えるようになっていた。


 ただ、里子は他人から親切にされると去って行った健のことをどうしても思い出してしまう。誰かによくしてもらったらつい期待してしまう。つい甘えたくなってしまう。そしていきなりその支えを外されたら今度こそ倒れてしまうかもしれない。その時が恐ろしかった。


 一ヶ月過ぎて、約束の期限が過ぎても清美は里子のところへお弁当を持って通い続けていた。里子もそのことに気づいてはいたけれど、そのお弁当のおかげで随分助かっているのは確かなのだ。

 清美の作ったお弁当も当所は量重視で味はかなり贔屓目を入れればなんとか美味しいと言えるレベルだったのが、最近では清美の腕も随分上がって、きちんと心から美味しいと感じられることが多くなってきた。たまに「え?」って言うのは未だにあるけれど。


 そんなんだから里子からはどうしても断る勇気は出なくて、ずるいとは分かっていたけれど清美が何も言い出さないことに甘えていた。放課後、毎日清美が来てくれることが里子には当たり前になりつつあった。


 清美にも3才離れた弟がいるらしく小さい子の扱いにも慣れていて、里子の弟の慎吾の相手もしてくれる。慎吾は母が亡くなってからずっと今まで里子以外の人に優しくされたことがなかったからすっかり清美がお気に入りで里子が潜っている間、二人は石ころの浜で石を積み上げたりして遊んでいるのだった。

 お母さんが死んでから里子と二人っきりで暮らすようになって、慎吾はほとんど口をきかなくなった。普段から里子以外の人と話すことがないせいもあるだろう。里子と二人だと首を縦に振ったり、横に振ったり、あとは簡単な身振り手振りで大抵のことは通じてしまうから不自由はない。里子もこんな状況がいいとは思っていない。でもつい忙しさに紛れて何もできないでいた。


 最初、慎吾は清美に対しても同じような感じだったが、清美と遊んでいるときは声を出して笑うようになった。里子が漁を終えて浜へ上がってきたとき、慎吾の笑い声が聞こえてくることさえある。里子はそんな慎吾を見て、よかったと安堵の吐息を漏らすのだった。


 里子は何か清美にお返しをしたいと思った。でも里子が清美にあげられるもので清美が喜びそうなものなんて何もない。

「そうや」

 清美は部屋にある『大事な物入れ』の缶を開けた。中にはお父さん、お母さんの写真、自分も入って3人で撮った写真、慎吾が生まれて4人で撮った写真などが数枚、母の形見の髪留め、それに以前に母に買ってもらった千代紙。これで慎吾に折り紙を作ってやった。それから白いハンカチで大事に包んだものが入っていた。


 里子はそのハンカチを取り出して、そっと開いた。中には2枚続きの桜貝が入っていた。その名のとうり淡いピンク色で桜の花びらのような形をしている。大きさも桜の花びらくらいの小さな貝殻だ。以前に母と浜辺を散歩していて見つけたものだ。

「桜貝は幸せを運んでくる幸運の貝やで。しかも2枚つながってるもんは珍しいから大事にし。きっと里子が誰か大切な人と出会えるようにしてくれると思うよ」

 そんなことを母は言っていた。里子はその貝に『お母さんとずっといっしょにいられますように』とお願いした。でも、その願いは叶わず、母とは死に別れてしまった。さらに幼馴染のタケちゃんとも別れてしまうことになった。そんなんだからきっとこの桜貝にはご利益はないんだと思っていた。でもこの頃は清美と出会うことができたのはもしかしたらこの桜貝のおかげかもしれんなあと思うのだった。


 里子はその桜貝をハンカチに包み直すとカバンの中に潰れないように注意深く入れ、学校へと出かけた。

 昼休み、里子は給食を食べ終えて、清美の席へと歩いていった。近頃は昼休みは清美とずっと教室でいっしょにいる。清美は読書家で、よく図書室で借りてきた本を開いては里子に読み聞かせてくれたりする。

 里子は清美が読んでくれるお話を聞いているのが好きだった。小さい頃、よくお母さんが里子に絵本を読んでくれた。清美の声を聞いているとまるで小さな子どもに戻ったような不思議な、そして幸せな気分になるのだった。

 里子が学校から慎吾の喜びそうな本を借りて帰って、寝る前に読んでやったりするようになったのも清美の影響だ。


 里子はカバンから取り出したハンカチを手の平に乗せて、座っている清美の前に差し出した。

「清美ちゃん。これ」

「なに?」

 清美が里子を見上げる。

 里子がハンカチを開いて2枚続きの桜貝を見せた。

「わあ、きれいやねえ。なんていう貝?」

「桜貝。幸せを運んで来てくれる幸運の貝やねんて。うちのお守りやねん」

「へー、いいなあ。私も探して見ようかなあ」

「2枚繋がってるんは珍しくて、誰か大事な人と出会えるようにしてくれるんやって」

「じゃあ、大切にしないといけないね」

「これ、清美ちゃんにあげる」

「ええ!だめだめ。そんな大事なもん、もらえないって!」

「うちは、この桜貝持ってても、お父さんともお母さんとも、仲良しの幼馴染の子とも別れてしもたやろ。そやから、きっとうちが持っててもご利益ないと思うねん。清美ちゃんが持ってて、いっしょにいられますようにってお願いしてくれたらきっと叶うような気がすんねん」

 清美は、そんな風に話をする里子の顔をじっと見つめてちょっと考え込んでから、

「分かった。じゃあ、私がずっと里ちゃんといっしょにいられますようにってお願いしたらええんやね」

「うん……」

 里子はちょっと顔を赤くして恥ずかしそうに俯いた。

 清美は本当にその桜貝が願いを叶えてくれるかどうかなんて分からなかったけれど、私は絶対里ちゃんから離れないでいようと決心した。


 清美は結構前から里子のことを『里ちゃん』と呼んでいたが、里子は頑なに清美のことを蔵立さんと呼んでいた。でもこの頃ではようやく里子も清美のことを蔵立さんではなく『清美ちゃん』と呼ぶようになった。そんな里子の変化が清美にはひどくうれしかった。


 その日、里子は昨晩から体調が悪かった。どうも生理になったらしい。噂には聞いていたがずっと考えないようにしていた。初めてであったが学校の授業などで知識はあったから、里子はその日、学校を休んで生理用品を買いに出かけた。少ないお金をこんなことに使わなければならないことに里子は腹が立った。里子は自分が女であること自体が腹立たしかった。

 タケちゃんみたいに男だったら体も大きくて力も強くて、獲物ももっといっぱい採れるだろう。生理にもならないし無駄な出費も必要ない。そして何よりおじいさんから嫌らしいことをされないで済む。


 午後からいつも通り海に出たが、体がだるく、潜るとお腹がキリキリと痛んで気分が悪くなった。深場で潜ることは諦め、なるべく浅いところで獲物を掻き集めたが、たいした収穫にはならなかった。その日は仕方なく少ない獲物をかかえておじいさんのところに行くしかなかった。学校が終わるには時間が早いから、清美はまだ来ないだろう。里子はそう判断しておじいさんの部屋へと入って行った。


 里子の獲物が少ないのを見ると、おじいさんはにやりとした顔で里子を引き寄せた。いつものことが始まることを里子は覚悟していた。上から順に水着を降ろされて汗ばんだ手とざらついた舌で露出した肌を触わられる。下半身に触れたところでおじいさんは「ん?」と声に出して言うと里子の股間から手を引き抜いた。里子の生理のオリモノがその手にべったりと付いていた。

「お前、月のもんが始まったんか。うわ、汚らしい!」

 おじいさんはそう言うと慌てて手を洗いに表の水道に駆けて行った。

「今日はやるもんはなしじゃ。さっさと出て行け!」

 そう怒鳴ると、里子を汚いものを触るような仕草で外へ追い出した。外で水着を身につけて部屋に戻ると慎吾はいなかった。


 清美が来たとき、里子はおじいさんの部屋にいて、声をかけようとしたところを慎吾が止めたのだ。里子が裸で水着を抱えて出てきたとき慎吾は素早く清美を物陰に隠した。

「今の何?」

 今見た光景が理解できなくて清美は小声で慎吾に話しかけた。慎吾は黙って清美の顔を見返した。その目が「聞かないで」と言っているように思え、それで清美にはすべて理解できた気がした。もっとも清美の理解が正しいかどうかを確かめるすべはないのだけれど。もしその通りだったとしたら慎吾も知っていて敢えて黙っているということか。そう思うとよけいにその事実が清美の心には堪えた。それから二人は何食わぬ顔で里子の部屋へ戻った。


 清美はその日、家に戻って散々迷った。でも自分ではどうすることもできない。やはり大人の力を借りるしかないと思い至り、里子の家で見たことを母親に話した。

「あれってたぶん虐待だと思う。誰か助けてあげられないのかな」

 お母さんはその話を聞いて深い溜め息をついた。母は里子の家庭事情をある程度は知っている風だった。

「里子ちゃんの家庭環境については母親の会でも話題になったことがあるの。先生も心配しておられたんだけど。そこまで酷いことをされているとは思っていなかったわ」

 でもね、と前置きして、

「里子ちゃんが虐待の事実を絶対認めようとしないそうなの。虐待されてる本人がその事実を認めてくれないと、周りの大人は何もできない」

「なんで里ちゃんは虐待を隠そうとするの?」

「それは分からないけど……たぶん、告げ口すると里親から酷いことをされるんじゃないかな。小さい弟さんもいるみたいだし、守ろうとしてるんだと思うんだけど」

 自分にも弟がいる。もし自分が里子で、自分のせいで弟が酷いことをされるなら自分は何をされても黙って我慢するだろう。釈然とはしないけど、簡単にどうこうできる問題ではないらしいということは理解した清美だった。


 里子は3日を休んで、4日目には登校した。前よりさらにやつれたように思えた。里子が休んでいる間も清美は毎日お弁当を届けがてら様子を伺いに里子のところへ通っていたが、給食もなくて十分に食べられていないのだろう。

 清美は里子を家へ呼んだことが何度かある。でもいつも断られた。今以上の施しを里子は頑なに拒絶する。それが里子のプライドによるものなのか、もっと別の理由があるのかは分からない。


 8月のお盆を過ぎると海水浴場も閉じられて、賑やかだった和歌の浦周辺もいつもの風景に戻る。そんなある日曜日、里子は清美を弁天島に行こうと誘った。母親が亡くなってから弁天島の祠の掃除に一度も行っていなかった。他の海女が掃除はしてくれているはずだが、やはり自分でもお参りしてお祈りをしておきたいと思ったのだ。

「榊の枝をお供えしてお祈りしたら願い事を叶えてくださるんだって」

 榊の木は海辺の雑木林に生えている。里子はその枝を一本切ってきて水着の背中に差し込んだ。


 弁天島へ行くと言っても、船などないから二人は石ころの浜から弁天島に向けて泳ぎだした。干潮の時間帯を選んだから、弁天島までの距離は比較的短い。次に潮が満ち始めると海峡の流れが速くなって泳いでは渡れなくなるから、それまでの間に行って帰ってこなければならない。里子は何回も行き来しているからそのことに不安はなかった。清美も里子の手伝いでいっしょに海で潜るうち、里子と同じくらい泳げるようになっていた。週一回、暖かい間だけの水練学校とは別に、ほぼ毎日海で潜るようになって、清美の泳力は飛躍的に向上したのだ。


 波に合わせて腕を振り、水を掴む。波に合わせて顔を上げて呼吸をする。海で泳ぐための基本的なことも身について、清美は里子と並んで弁天島まで泳ぎきった。

「里ちゃんは何をお願いしたん?」

「……内緒や。叶わんお願いって分かってるんやけどな」

 里子は祠の下の岸壁に座って足の下にひたひたと打ち寄せる波を見ながらつぶやいた。里子の横顔を見ていると清美はなぜか猛烈に不安を感じることがある。

「清美ちゃんは何をお願いしたん?」

「里ちゃんとずっといっしょにいられますように。里ちゃんとずっと仲良しでいられますように。慎吾ちゃんともずっと仲良しでいられますように。それから」

「まだあんの?」

「里ちゃんが幸せでありますように」

「それは叶わんかもしれへんけどな……」

「里ちゃん、私がいるよ」

「ごめん。清美ちゃんがいてくれるだけで幸せやな」

 行こって言うと、里子は勢いよく海に飛び込んだ。

 泳いで行く里子の小さな身体を見ながら、

「どうか里ちゃんを守ってください」

 もう一度祠に向かって手を合わせてから清美は里子を追って海に飛び込んだ。

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