第5話 清美と里子

 両親が亡くなり、里親にいじめられ、里子はもうこれ以上悪いことはないと思っていた。だから唯一里子の味方だった健が居なくなったときには里子はもう生きて行くのは無理だと思った。何もしないで餓死してしまおうかと真剣に思った。でも幼い弟のことを思うとあまりに不憫でそんな考えを無理やり頭から追い出した。


 里子が獲物を取っている海は瀬戸内海と太平洋の出入り口にあたるところで紀伊水道と呼ばれている。『水道』と言うだけあって四国徳島と本州和歌山に挟まれたその海域には淡路島、友ヶ島と言った大小の島々が点在しており海は狭くなっていて大きな川のような様相を呈している。

 その島々の1つで、里子暮らす漁村の沖に浮かぶ『弁天島』と呼ばれている小さな島には海の神様が祀られた祠があって、この漁村の人たちの信仰の対象になっていた。豊漁を祈る秋のお祭りには神職が手漕ぎの小舟に乗って島まで渡り、榊を奉納することになっている。


 祠の維持管理は昔から海女の仕事である。母もよく仕事の合間を見て祠とその周囲の掃除をしていた。里子もよくそれを手伝ったことがある。

「榊をお備えして一生懸命お祈りしたら願いごとを叶えてくださるんだよ」

 そう母は言っていた。里子にも願い事はあったけど、海の神様が海のこと以外のお願いでも叶えてくださるんだろうかと里子は思ったものである。だから、

「海女の獲物が豊漁でありますように。お母さんがずっと海女を続けられますように」

 と海になぞらえて母の健康を祈願したものだ。結局その願いは聞き届けられなかったけれど。


 季節は春になり、里子は5年生になった。里子の願いは暖かくなって海に潜る時間が長くなったら獲物が増えて生活がちょっとでも楽になることだけだった。獲物がたくさん採れたらあの嫌なおじいさんにいやらしいことをされずに済む。


 先生が授業中に生徒を指名して意見や答えを求めることは普通にあるけれど、そんなとき里子は大儀そうに立ち上がると大抵、

「わかりません」

 とぼそっと答えてさっさと着席する。どの先生も里子にはそれ以上は聞きとがめようとはしない。


 最初、清美は里子は勉強が苦手なのかなと思っていたのだが、算数の授業で指名されたとき里子はやっぱり大儀そうに立ち上がって、

「109」と答えた。

 清美は里子がちゃんと答えたことに驚いたが、何よりその問題に清美は苦戦していたから里子がちゃんと正解を答えたことに驚いた。


 しばらく里子のそんな授業態度を見ていると里子は短い言葉で答えることができるときだけちゃんと答えるのだということが段々と分かってきた。要するに「わかりません」と答えるよりも短い言葉で答えることができるときだけちゃんと答えるのだ。

 里子は決して勉強が苦手なわけではない。授業内容はすべてちゃんと理解している。ただ極端な省力志向であるらしい。それはたぶん彼女のあの極端に痩せた体格とも関わりがあるように思われた。


 7月。今日も体育の授業は見学だ。里子が体育の授業を見学することについては、家庭の事情を分かった上で先生も大目に見てくれている。

 今日の体育の授業は水練だ。里子の小学校は和歌の浦という景勝地の近くで、河口から海に長く突き出した砂洲に守られた広大な干潟が広がっている。見学だけど一応里子も水着に着替えて海辺へ向かった。


 海辺には松林と白砂の浜辺が長く続く海岸線があり、眼の前には遠浅の穏やかな海が広がっている。海は学校から徒歩で歩いて行ける距離にあった。

 まだこの時代、学校にプールがあることは珍しく、川や海で水泳の授業が行われるのが普通だった。水泳ではなく水練と言った。

 里子は浜辺に座って授業する生徒たちをぼんやり見ていた。里子にとって海は仕事をする場であり、そんな必要がない生徒が水練なんて習う必要があるのだろうかと思っていた。


「山下さん」

 不意に名前を呼ばれてびっくりした。砂のせいで近づく足音が聞こえなかったのかもしれない。顔を上げて声がした方を見たら見たことがない顔の少女がこちらを向いて立っていた。彼女は太陽を背にして立っていたから顔が日陰になって暗くてよく分からなかった。里子は黙ってその子を見つめた。

「横、座っていい?」

 なおも黙っている里子に返答を諦めたその子は里子の横に座った。陽のある方にその子が座ったから里子はその子の影に入ることになった。

 膝を抱える恰好で座ったその子からは何かいい匂いがした。里子が知っている女の子たちでこんな匂いのする子はいない。誰だろう。里子はちょっと気になった。

「私、蔵立清美。清美って呼んでね」

 ああ、転校して来た子か。里子は納得した。

「他の子から山下さんって泳ぐの得意って聞いたんだけど」

 なんか喋り方おかしい。言っていることは理解できるんだけどなんだろうこの違和感は。

「実は私も水泳得意なんよ。前に住んでたところでも水練学校に通ってたし」

「……」

「なんで見学してるの?」

「……」

「なあ、よかったら競争しない?」

「いやや」

 即答した。こいつはアホや。なにが悲しくてそんなことで体力使わなあかんねん。里子は無視することにした。

「えー、どうして?やろうよー」

「……」

「じゃあ、なにか賭けようか」

「なにかって?」

「なんでもいいよ、言ってみて」

 こいつ本気なんかな。じゃあ、

「給食一ヶ月分」

「え?なにそれ」

「私が勝ったら1ヶ月間あんたの給食は全部うちがもらう」

 その子は驚いた顔をしてちょっと固まった。きっと私が出した条件が意外っだったんだろう。理解するのに少し時間を要したらしい。

「ええよ」

 即答か!まあ、こんなお嬢さんにとって給食なんてなくても平気なんやろうな。家帰ったらいくらでも食べるもんあるんやろうし。けど給食を一ヶ月も貰えたら弟にもっといっぱい食べさせてやれる。これは仕事や。

「よっしゃ、やろ」

 里子は立ち上がった。


 二人で並んで広い砂浜を海に向かって歩いて行く。海はこの時間帯、引き潮で水辺まではずいぶんと遠かった。海に向かって歩く二人を周囲の同級生たちがびっくりして見ているのが分かる。里子がこんなに動いているのが珍しいのだろう。いったい何をするつもりなんだろうと好奇の目が注がれる。

 水辺に着いた。ざぶざぶと水の中に入っていく。遠浅なので水辺からずいぶん沖まですすんでようやく腰あたりまで水に浸かったところで、

「あの沖の浮き標まで速く泳ぎ着いた方が勝ち」

 清美が言って、海水浴場と外海の境界を示すために沖に浮いている浮き標を指さした。里子はその浮き標をじっと見て、おおよその距離を素早く割り出した。あれくらいなら問題ない。たいして体力を使わずに泳ぎ着くことができるだろう。


「わかった」

「じゃあ、よーい、どん!」

 清美の掛け声とともに飛び込んだ。沖から岸辺に向けて波が一定間隔で寄せてくる。その波に合わせるように腕をかきながら波を切り裂いて進む。里子はちゃんと泳ぎを習ったことはないが、その泳法はいわゆるクロールだった。清美も同じくクロールで泳いでいる。

 里子が浮き標にたどり着いたとき、清美はまでだいぶ離れたところをこちらに向かって泳いでいた。清美は波のリズムと水をかくタイミングがあっておらず、呼吸も波の影響でうまくとれていないように見えた。海で泳いだ経験がないのだろう。ようやく浮き標にたどり着いた清美は息が上がって苦しそうだった。浮き標に捕まってぜえぜえとしばらく肩で荒い息をしていた。ようやく息が整ってきたところで、

「山下さん、すごい。速いなあ」

 と里子に笑顔を向けた。そんな屈託のない笑顔が自分に向けられたのはずいぶん久しぶりで、里子はちょっと面食らってしまった。清美は疲れたらしくしばらく浮き標に捕まったまま波に揺られててゆらゆらと揺られていた。里子も仕方なくそれに付き合った。


「約束、忘れんといてな」

「もちろん、忘れたりしないよ」

「それやったらええ」

 浜に戻ってみると、先生が心配そうに水辺で待っていた。

「里子ちゃん、急にどうしたん?」

「なんでもないです」

「清美ちゃんも何があったん?」

 そう清美に尋ねる先生と清美を置いて、里子はさっさと元の場所に戻って再び膝を抱えて座った。濡れた体を夏の日差しがさっそく乾かしてくれる。里子は、そう言えば獲物を採る以外の目的で泳いだのはいつ頃以来だろうかと考えた。昔、お母さんと遊びで泳いだ頃の楽しい記憶がちょっと頭をよぎりそうになったので、里子は慌てて頭を強く左右に振ってその記憶を頭から追い出した。これも仕事やしな、と自分に言い聞かせた。


 その日も里子は放課後いつものように海に潜った。その日は豊漁で、たくさんの獲物でふくらんだ『たまり』を抱えて石ころの浜に上がった。そこでちょっと座って一休み。里子がこんな風に休憩の時間を持つことは珍しい。いつも寸暇を惜しんで働いている。

 今日は結構ええ日やった。あの子からしばらく給食を貰えるし、結構たくさん獲物が採れた。けどあいつ、ほんまに約束守るやろうか。もし守らんかってもしょうがないけど一発くらいはしばいたろ。そんなことを考えて太陽が沈む直前の黄色に染まった空と海の境界あたりをぼんやりと眺めていた。


「山下さん」

 不意に後ろから声を掛けられてびっくりした。

「あんた……蔵立さん?」

「山下さん、海女さんやって働いてるって本当なんだね」

「なんでここにいるん?」

「山下さんの家、中塩路さんたちに聞いたの」

 里子は嫌な感じがした。自分の家と言っても里親の家だ。それに自分たちが暮らしているのは家なんて言えるもんじゃなくて物置だ。そんなところを他人に見られたい訳がない。

「なんか用なん?」

 里子は明らかに不機嫌になって言った。

「あの約束のことなんだけど」

 さらに嫌な感じがする。やっぱり止めるとか言うつもりなんだろうか。

「給食をそのまま里子ちゃんにあげたら私、食べるもんないでしょ。それに先生に見つかったら怒られると思うんだ」

「だから何?」

 さっさと結論言えよ!清美の持って回ったような言い方に里子はイライラした。

「だから、給食の代わりに毎日お弁当を里子ちゃんの家に届けるのはどうかなって思って」

「は?」

「学校で渡してもいいんだけど、暑くて傷んじゃったらまずいでしょ。だから直接お家に私が配達するのがいいと思うんだ。どうかな?」

「まあ、それは確かに……」

 里子も確かにそこまでは考えていなかった。結構頭の回る子だなと思った。

「それで、これは今日の分」

 そう言って清美は布巾に包んだお弁当箱を里子に差し出した。

「家に帰ってから私が作ったんだよ。味は、うーん、どうかな。たぶん大丈夫だと思うけど。また感想聞かせてね」

 受け取った里子は何も言えずに、ただ黙って清美を見つめていた。

「入れ物は学校で返してね」

 そう言うと清美は、

「また明日学校で」

 と言って駆けて行った。


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