第7話 里子の失踪
9月。大型の台風が接近しているらしい。強風でふくれあがった大波が海岸に打ち寄せている。ちょうど大潮と重なり、海岸近くに建っている学校は通学が危険なためお休みになった。里子の住む漁村への道も一部で波をかぶって通行できなくなっているらしく清美も訪ねて来ない。
一昨日から慎吾の容体が思わしくない。朝から食欲がないと言い出し、その日の夕食を吐いた。おでこを触ってみると熱があるようだ。氷などないからタオルを水で絞って何度もおでこに乗せ換えた。夜中からどんどん熱が上がっている。それに伴って発汗も多くなって、何度着替えさせてもすぐにシャツが汗で湿ってくる。そのくせ本人は寒そうに両手で自分の身体を抱いて身体を縮めている。お医者さんに診てほしいけど、そんなことをおばさんに言えるはずもない。せめて薬が欲しい。解熱剤くらいならあるだろう。
深夜、意を決して里子はおばさんの住む家に忍び込むことにした。表の玄関は施錠されているが、裏口のおじいさんの居る部屋を通って行けば中に入れるはずだ。台風が接近しているせいで風が強く、屋根や壁が強風にあおられてバタバタと騒がしい音をたてている。忍び込むには好都合だ。
里子は裏口に回って扉の取っ手を回した。思ったとうり鍵は掛かっていなかった。おじいさんは大きないびきをかいて眠っていた。そっとその横をすり抜けて奥の廊下に進む。
居間から灯りが漏れている。そこからおばさんと男の声が聞こえる。いつもの情夫が戻ってきたらしい。話し声とその合間に笑い声が混じる。
居間の隣の部屋はおばさんが寝室にしている畳敷きの部屋で、里子はその部屋の箪笥の上の棚を探った。薬箱が見つかった。里子はそれを抱えようと手を伸ばしたとき、隣りにあった写真立てに手があたった。あっと思ったが、写真立てはそのまま床に落ちて「がちゃん」と音を立てた。
「誰かいるんか?」
居間との境のふすまが開いた。明るい光が差し込んで里子を照らす。
「おまえ、ここで何してるんや!」
そう言いながら里子に掴みかかってくる。髪の毛を掴まれて引きずり回されても里子は薬箱を抱えて離さなかった。
「なんや、薬が欲しいんか?」
里子にそう聞いたのは男の方だった。キセルを斜めに咥えた男は、髪の毛を男にしては長く伸ばし、全体にやせていて、一見やさしそうな風貌をしていた。
「薬やったら、これやってみ」
男は咥えていたキセルを手で持って、いきなり里子の口に咥えさせた。思わず息を吸い込んでしまった里子は、ぐっと喉が詰まって激しく咳き込んだ。
眼の前の景色が歪んだように見えた。上を見ると天井がぐるりと回転した。里子は倒れそうになるのを感じて壁に手をつこうとして右手を伸ばしたが、その手は空を切り、バランスを崩した里子は後ろ向きに倒れ込んだ。
「どや、ええ気持ちになってきたか?」
そんな声がなぜか遠くで聞こえた。
「お嬢ちゃん、パンツ見えてるで」
男が笑いながら倒れた里子の上にのしかかろうとした。里子は咄嗟に両膝を曲げてかぶさってくる男の体を跳ねのけようと足を蹴りだした。偶然その踵が男の顎に当たった。
「がぎっ」という顎の骨と歯がぶつかる音がして男が横に倒れた。痛そうに両手で顎を抱えて転がっている。
「このガキ、うちの人に何さらすねん!」
里子は髪を掴まれて引きずり起こされ、何度も顔を殴られた。その拍子に抱えていた薬箱を取り落とした。
「おばさん、お願い。慎吾が熱出して死にそうなんや。薬ちょうだい!」
「やかましい。あんなガキ、死んでしもたらええんじゃ」
激昂したおばさんはそばにあったほうきの柄で里子を散々に叩いた。里子は丸くなって耐えたが、あまりの痛さに気が遠くなりそうになった。
「おい、それ以上やったらほんまに殺してまうぞ」
里子に顎を蹴られた男がおばさんを止めてくれなかったら、里子は本当に気を失っていただろう。痛む体を引き摺って里子は慎吾のところへ戻った。そして疲れ果ててそのまま倒れ込むように眠ってしまった。
今日も台風の接近のため学校は休みだった。ラジオによると今日の夜半に和歌山に上陸するらしい。清美は今日も来れないだろう。慎吾は相変わらず高熱が続いて、うわ言を言う回数が増えてきたように思う。ずっと食べ物は受け付けず、水も飲まない。今日でもう3日になる。里子はとうとう観念した。おじいさんに頼んでみよう。もうそれしか方法はなかった。
里子の話を髭の伸びた顎を摩りながら聞いていたおじいさんは、
「わかったからこっちへ来い」
と里子を手招きした。里子は素直にそれに従った。もう何をされても我慢するつもりだった。
「お薬くれるんか?」
「言うことを聞いたらやる」
おじいさんはいつもの下卑た笑いを浮かべてそう言った。
おじいさんの手が里子の肩に伸び、里子を引き寄せた。シャツの中に手が入ってくる。
「里子は生理が始まってから胸も大きゅうなってきたなあ」
おじいさんはにやにやしながら両手で胸を触わる。
右手がスカートの中に入ってきた。里子は固く目をつぶり唇を噛んで必死に堪えた。おじいさんはしばらく里子の身体を撫で回していたが、里子を抱き上げて畳の床に寝かせると、上からかぶさってきた。今までとは違う激しい動きで里子の衣服を剥ぎ取ろうとする。手と舌が里子の露になった肌をなぶるように這いまわる。
おじいさんがズボンをおろして里子の足の間に入ってきた。里子は咄嗟に抵抗した。でも年寄りとは思えない強い力で手首を抑え込まれて身動きが取れない。身体全体が里子の上にかぶさって来る。むっとした強い体臭を吸い込んで吐き気がする。里子は顔の横で自分の手首を掴んでいるおじいさんの手に噛みついた。
「いてて、なにするんじゃ、このガキは!」
里子から体が離れる。おじいさんは里子の顔を平手で殴った。その強い力に里子の体が床の上で横倒しになった。
「おとなしくせんと薬はやらんぞ」
そう言いながらおじいさんは自分の下着を脱いで裸になった。薄く笑いながらさらに上からかぶさってこようとする。里子はその顔を見て背筋がぞっとした。生まれて初めて恐怖を感じた。無意識に飛び起きた里子はおじいさんを両手で思いっきり突き飛ばした。
おじいさんは後ろ向きに倒れて、箪笥に強くぶつかった。箪笥の上に置いてあったラジオがおじいさんの上に落ち、その頭を直撃したとき、里子は「あ!」と思った。里子はおじいさんから目を外らせるとそのまま外へ駆け出した。もうだめだ。おじいさんは絶対に怒って私を殴るだろう。もしかしたら死んでしまったかもしれない。もし死んだら私は人殺しだ。
里子は自分の部屋へ戻った。慎吾は相変わらず苦しそうな息をしている。里子は慎吾のおでこに水で絞ったタオルを乗せてやった。里子はもう何も考えられなかった。おじいさんが気がついたら私を殴りにやって来るかもしれない。そう思うと背筋が震えた。このままでは慎吾が死んでしまう。里子はそう確信した。財布を握って外へ飛び出し、表の通りに出た。
台風の風はますます強さを増しているようで、新聞紙やゴミが空中に舞い上がり、木桶が通りを転がっていく。里子は風に煽られながら電話ボックスに走った。
電話ボックスの中に入るとその中は外の嵐が嘘のように静かだった。そこがすごく安全なところのように感じて、里子はちょっと深呼吸をした。それから財布から小銭を出して電話機に投入すると清美の家の電話番号を回した。清美の家の電話番号は里子にとってただ1つの連絡先だったから空で覚えていた。
何回か呼び出し音がして、受話器から「もしもし」という女の人の声が聞こえた。
「清美ちゃん?」
里子は勢い込んで受話器に向かって話しかけた。
「どなた?清美のお友達?」
どうやら清美のお母さんらしい。優しそうな声。電話の向こうからは嵐の音は聞こえない。まったく別のどこか遠いところへ電話しているような錯覚に陥りそうになる。
「山下里子って言います。清美ちゃんはいますか?」
「はい、います。ちょっと待ってね」
しばらく音声が途切れる。本当に清美につながるのかな、里子は不安になりながらじっと受話器を強く握りしめて待った。通話時間は3分しかない。
「もしもし、里ちゃん?どうしたの?」
電話口から清美の声が聞こえてきた。里子は急いで喋った。
「清美ちゃん、慎吾が病気なんや。3日前から熱も高くて、汗いっぱいかいて、ずっと何にも食べへんねん。お願い、助けて、お願い!」
「もしもし、里ちゃん。落ち着いて。今どこにおるん?」
「外の電話ボックス。もううち、あかん。お願いやから慎吾だけでも助けたって。お医者さんに診せたって。慎吾が死んでしまう!」
「分かった。里ちゃんは家におって。私、今から里ちゃんとこ行くから」
「ほんま?来てくれる?」
「うん、待って……」
そこで通話は突然切れた。通話時間の3分が経過したのだ。
里子は切れた電話を耳に当て、今聞いたことを反復した。確かに清美は来てくれると言った。頬が濡れているのは雨のせいではない。まだ雨は降っていない。そこでようやく自分は泣いているのだと気がついた。
里子は電話ボックスから出て浜へ向かった。あと自分にできることは1つしかない。清美が慎吾を助けてくれることを祈ることだけだ。もう家へ帰ることもできない。
里子は浜に出ると、岸壁に生えている榊の枝を一本折った。そしてそれを背中からシャツの中へ突っ込み、枝の先をスカートの腰のゴムで押さえるようにした。
海は強い風のため、高い波が石だらけの浜に打ち寄せている。どうやら今は干潮であるらしい。潮が満ちたら石の浜は海中に没して見えないはずだ。
里子はぞうりを脱ぐと、そのまま石の浜を海に向かった歩いて行った。強い波に押し返されそうになりながら、沖に向かって進んだ。もうこれ以上は歩いて進めないところまで来たとき、里子は頭から海に飛び込んだ。
里子は弁天島の神様にお願いするつもりだった。
「榊をお備えして一生懸命お祈りしたら願いごとを叶えてくださるんだよ」
お母さんはそう言っていた。
健の顔が頭に浮かんだ。ごめんねタケちゃん。もう会われへんかもしれん。次に清美の顔が浮かんだ。清美ちゃん、慎吾のことお願い。それから母の顔、父の顔が浮かんだ。みんな幸せそうに笑っていた。たぶん私ももうすぐそこへ行くのだと思うと、この状況を怖いとは思わなかった。
台風はもうすぐそこまで接近していた。風は強く、雨も降り出し、巨大な三角波が次から次ヘと里子を襲った。そんな中を里子は懸命に弁天島に向かって泳いだ。
大波の中を泳ぐ里子は木端よりもっとちっぽけな存在だった。泳いでいるのか、ただ打ち寄せる大波に翻弄されているだけなのか分からなかった。里子自信も自分が本当に弁天島に向かっているのかどうかまったく自信がなかった。ただ、心の中で慎吾が無事であることを祈りながら腕と脚を懸命に動かした。
清美と清美の父が里子の家へタクシーを飛ばしてやってきたとき、里子の姿はなかった。
「里ちゃん!」
いくら呼びかけても返事はない。
里子の暮らしていた部屋で、弟の慎吾が苦しそうに呻いているのを発見した清美の父は、その容態が極めて悪いことを一目で理解した。それで待たせてあったタクシーで直接病院へ連れて行くことにした。
里子の姿が見えないことはとても気がかりだったが、里子は自分の友達だし里子から弟を頼むと言われていたから、清美は意を決して父といっしょにタクシーに乗り込んだ。
慎吾は栄養状態が極端に悪く衰弱している上、肺炎を起こしていてかなり危険な状態だったがなんとか命をとりとめた。それからの清美の父の行動は早かった。慎吾が瀕死の状態で病院に運び込まれたことを虐待の証拠に、里子姉弟の里親を警察と教育委員会に訴えたのだ。
すぐに警察の捜査が入った。里子が通っていた学校の先生などの学校関係者や里子の友人への聞き取り調査が行われた。もちろん里子の親しい友人として清美も証言した。その結果、明らかな虐待行為があったとして里子の里親であるおばさんとその内縁の夫、およびその父親、里子にわいせつ行為をしたおじいさんが逮捕された。
でも、里親は里子の捜索願の提出を頑として拒否したため、あれ以来行方の分からない里子の捜索が開始されることはなかった。そしてほどなく行方不明として処理されてしまった。
里子のぞうりは堤防の内側で発見された。周りの人たちは、里子が海に近づいて誤って波に呑まれたんだろうと囁いていた。
「親族や血縁関係の者しか捜索願は出せないんだそうだ」
清美の父は清美に一言そう説明すると、そのまま口をつぐんだ。法律だからどうしようもないんだ、とその苦渋の表情が語っていた。
台風がこのあたりを直撃した夜、弁天島の祠に新しい榊の枝が備えられていたことは清美以外には誰も知る人はいなかった。清美はその榊を見たとき、あの夜の里子の切ない心を思って泣いた。
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