第8話 千歳
水城頼子(みずきよりこ)は、和歌山南部の西側の海岸線にあり海にも山にも恵まれた小さな村、言い方を変えれば山と海に挟まれた狭い村、で代々暮らしてきた水城家の本家筋にあたる。
頼子の娘の千鶴は仕事先で知り合った男性と幸せな結婚をして都会で暮らしていたが、お盆や正月には夫婦そろって頼子の住む和歌山南部の実家を訪れることが恒例だった。結婚して3年めに初孫の「千歳」を授かってからは親子3人連れ立って姿を見せてくれるようになった。
千歳の両親が事故で亡くなったのは千歳が10才、小学校4年生の年末の慌ただしい頃だった。千歳をどうするかについては年始早々から親戚中で色々揉めたが、みんな千歳を厄介に感じていることが言外に感じられ、結局祖母の頼子が引き取ることになった。祖父が早くに亡くなってから女手一つで育てた自分の娘が生んだ子だ。かわいくないはずがない。小さいときからよく遊びに来ていたから千歳も頼子に懐いていた。千歳が頼子の住むこの村へ来たのは早春の3月。千歳の両親が亡くなってから3ヶ月が過ぎていた。
千歳は海を見るのが好きだった。晴れた日であればたとえ風が強く吹く日であっても、堤防に座ってずっと飽きずに海を見ているような子だった。両親が健在だったころの千歳とはやはり少し変わってしまったと感じたが、両親を亡くしたのだからそれは仕方のないだろう。時間が彼女の心を癒やしてくれることを祈るしかないと思った。
千歳が来て1月が過ぎ、ようやく友達も出来て笑顔も見せるようになり、少しずつではあるが明るさを取り戻してきたように見えた。でも気が付くとやはり防波堤に一人座って海を見ていることがまだ時折あった。
そんな千歳と一番の仲良しになったのは春菜だった。春菜の家は代々林業と農業で生計をたてており、父親は村の青年団の団長もしていた。その関係もあって、春菜の母や父は、孫を引き取ることになった頼子ばあちゃんや、その孫の千歳のことを何かと気きかけていたし、同い年の春菜にも千歳と仲良くしてあげなさいと、しつこいくらいに言った。
春菜自身、世話好きな父母の血を受け継いでいるから、困っている人を見たら放ってはおけない性分であった。
そんなこともあり、春菜は村の友達と遊ぶときには千歳も仲間に入れようと、頼子ばあちゃんのところへ千歳を誘いに行くようにしていた。
でも、いつも千歳は出てこず、頼子ばあちゃんが済まなそうな顔で「いつも誘ってくれて悪いんやけど、まだちょっと人と遊ぶ気持ちにはなれへんみたいでなあ……」と言って、ちょっと千歳の部屋のある二階に目をやるのだった。
「分かった。ほな、また来るわ」
そう言って帰ることが、日常になっていた。だからその日も誘いに行って、同じように断られたことを別段残念に思ってはいなかった。
その日は海辺で友達と遊んでの帰り道、春菜は一人の少女が防波堤の上に膝を抱えて座っているのを見つけた。見たことない少女。この村でそんな子は一人しかいない。あれが千歳って子なんだ。何度も遊びに誘いに行ってはいたが、実のところまだ一度も千歳を見たことはなかったのだった。
背中の中程までかかる長い髪の毛は、ちょっと癖っ毛で微妙に波打っている。その髪が夕方の潮風に靡いて、時折その間から横顔が見える。
季節は春と言ってもまだ肌寒く、海から吹く風も冬の気配を残して冷たく、強かった。千歳は膝丈の厚手のスカートを身に着け、裸足の足に下駄履き、とっくりのセーターに袖なしの半纏を羽織っていた。
なにしてるんだろう。この状況では誰もがそう思うであろうことを春菜も思った。話しかけてみようか。春菜は躊躇した。でも、このままではいつまで経っても千歳は春菜の前に姿を見せてくれないだろうとも思えた。それで思い切って声を掛けて見ることにした。
千歳の座っている防波堤のところまでは、今春菜がいる場所からずっと防波堤沿いに歩いて行けばいい。春菜はゆっくりと歩いて行った。千歳を驚かせないようにという配慮もあるが、何て話しかけようかと考えていることもあった。
すぐ近くに来ても千歳はじっと海を見ているだけで、春菜に気づいた様子もない。それどころかまるで人形みたいに身動き1つしない。動いているのは風になびく髪の毛だけだ。
「千歳ちゃん?」
春菜は思い切って声を掛けた。その後のことは結局何も考えていなかった。目の前にいる千歳を見ていると、声を掛けた後の展開をまったく予想できなかったのだ。はたして千歳が自分の声に反応するかどうかすら怪しいと思えた。
千歳がゆっくりと振り向いた。春菜を見ているのは分かる。でも表情はまったく動かない。これと言って特徴がない顔だけど、下がり気味の眉が優しそうな印象で、頼子ばあちゃんにちょっと似てるなと思った。
「うち春菜、有田春菜」
千歳はコクンと微妙に頭を動かして頷いたように見えた。言葉は通じているらしいのだが、そのまま前を向いてしまった。
「横に座ってええ?」
尋ねて見たが反応がない。春菜は防波堤に上がって千歳の隣に不自然でない程度の間を開け、足を海の方に垂らして座った。
防波堤の海側は、浜からだいぶ高くなっているが、道側は春菜の腰より少し高い程度しかないので、道側からだったら簡単に上がることができる。
春菜は足をぶらぶらさせながらしばらく黙って座って、千歳の様子を伺っていた。別段警戒されている風も嫌がれている風もなさそうなので、なおも声を掛けてみた。
「何してるん?」
「海、見てるん」
答えを期待していなかったので、思いがけず千歳が返事をしてくれたことに気を良くした春菜はさらに会話を続けてみた。初めて聞く千歳の声は、やはりこれといった特徴はなかったが、年相応の女の子らしくかわいらしい声だった。
「海見てて面白い?」
この質問には返答がなかった。この言い方ではちょっと答えにくかったかと思い、
「海のどこが好きなん?」
と聞き直してみた。
「ニライカナイ」
「え?」
千歳がなんと言ったのか分からなくて、思わず聞き返した。
「ニライカナイ」
千歳はさっきと同じ言葉を繰り返したのは分かったが、まったく聞いたことがない言葉。果たして日本語かどうかすら分からない。どう言葉を次いでいいのか分からず困惑した春菜に気付いたのか、千歳から言葉を繋いでくれた。
「ニライカナイは、沖縄の古い民話に出てくる楽園の名前。海のずっと向こうにあって、神様とそこに集まった善良な人たちが住む理想の国。前にお母さんが読んでくれたお話に出てきてん」
「ニライカナイ?」
「そこにうちの死んだお父さん、お母さんもいてるような気がして。ずっと見てたら見えるんやないかって思って」
学校の世界地図を見たら分かるように、紀伊半島の沖は太平洋で、ずーと先まで大きな島なんかない。赤道あたりに南太平洋の島々が点在し、そこから先は南半球で、オーストラリアとかニュージーランドがあって、もっと行ったら南極があってお終いだ。
ニライカナイって言う島なんて地図上にはない。民話の世界にだけ出てくる架空の島なんだろう。でも今の千歳にはニライカナイが本当にあって、そこで神様といっしょにお父さんやお母さんが暮らしていると信じることで悲しさや寂しさを紛らわせているのだろう。だからなんとか話を合わせてあげたい。そうや!
春菜は防波堤から浜へ飛び降りた。結構な高さがあって、着地でバランスを崩して前につんのめって、危うく顔から砂に突っ込みそうになったが、なんとか手を着いてこらえた。さっと立ち上がると手の平をぱんぱんと叩いて砂を落とし、そのまま水際まで駆けて行った。水際をしばらくうろうろして何かを探していたが、目的のものを見つけたらしく、また千歳のいる方へ駆け戻ってきた。千歳の座っている防波堤の下まで来たが、そこからは高すぎて登れないことに気づいた。仕方なくずっと先の防波堤の途切れているところまで駆けて行き、そこから道沿いに千歳のところまで駆け戻ってきた。千歳はそんな春菜の動きを不思議そうにずっと目で追っていた。
戻ってきた春菜は握っていた手を開いて千歳に見せた。そこに乗っていたのは小さなピンク色の貝殻だった。千歳の目がその貝殻に釘付けになったのが分かった。興味を持ったらしい。
「これ桜貝って言うねん。幸運を運んでくれるって言われてる」
そう言って桜貝を千歳の手の平に乗せる仕草をした。千歳はつられて自分の手の平を開いたので、春菜はその手の平の上にころんと桜貝を乗せた。
「こんな風な二枚続きの桜貝は幸運な出会いを連れてきてくれるって言い伝えがあるんやで」
千歳はじっと自分の手の平に乗った桜貝を見つめている。
「その貝、もしかしたらニライカナイから来たんかもしれんな」
そう言うと、千歳は顔を上げてじっと春菜の顔を見つめた。その目からみるみる大粒の涙が盛り上がって、頬を伝い落ちた。春菜はびっくりしてどぎまぎしてしまった。
「それあげるから泣かんといて、な、な」
と言いながら千歳の背中を慌ててさすった。千歳は桜貝の乗った手の平をそっと握って、胸の前で両手を合わせ、祈るように頭を垂れたまま嗚咽を漏らし続けた。
あたりは薄暗くなり始めている。頼子ばあちゃんが心配しているかもしれないので、春菜は千歳といっしょに通い慣れた村の道を千歳の家まで送って行くことにした。案の定、頼子ばあちゃんは玄関先で千歳の帰りをうろうろしながら待っていて、二人の姿を見つけるなり駆け寄って来て、
「よかったあ、心配しとったんやで」
と言いながら千歳を抱きしめた。
「春ちゃん、ありがとうな。千歳といっしょにいてくれてんなあ」
「うん。遅なってごめんな」
春菜は千歳に向かって、
「千歳ちゃん、明日、いっしょに貝殻拾いせえへん?」
「うん。する」
頼子ばあちゃんは、そう返事をする千歳を見てびっくりするやらうれしいやらで、千歳と春菜を交互にきょろきょろ見ながら、満面の笑顔になるのだった。
その日から春菜と千歳はよく浜辺で貝殻拾いをして遊ぶようになった。
学校から帰って一旦家にカバンを置いて浜に行くと、防波堤のいつも同じ場所に千歳が海をじっと見つめて座っているのだった。
千歳の部屋で、二人で集めた貝殻をきれいに並べて遊んだり、貝殻に紐を通してネックレスやブレスレットなどの飾りを作ったりした。ニライカナイのことを書いた民話の絵本を見せてもらったこともある。千歳の部屋には童話や絵本がたくさんあった。
春菜は千歳のことを「ちいちゃん」と呼ぶようになり、千歳は春菜のことを「春ちゃん」と呼ぶくらいに仲良くなった。
仲良くなってみると千歳は案外甘えん坊なところがあることが分かった。春菜が千歳の家へ遊びに行くと、必ず泊まって行けとせがむ。泊まって行くとなると、いっしょにお風呂に入りったがり、いっしょのお布団で眠りたがる。きっと寂しんだろうと思い、春菜も千歳の言うとおりにしてやる。
ただ、眠りながら千歳が「お母さん」とつぶやいて鳴き声を漏らしているのを聞いたときには、千歳が泣き止むまでそっと背を撫でてやるのこともあった。そんなとき春菜も胸が痛んで泣きたくなるのだった。
水が温む季節になると、素足で海に入って貝拾いをした。貝だと思って拾い上げたところ、中からヤドカリが出てきたのを見た千歳が悲鳴を上げて尻もちをつき、着ていたワンピースがびちょびちょに濡れてしまったときには春菜は大笑いした。千歳もバツが悪そうに苦笑いしていた。
夏。漁港の横の海岸線には長い砂浜が広がり、遠浅のこのあたりは海水浴客で賑わう。海岸沿いの家々ではこの季節だけ民宿を開いているところも多い。浜辺には木材や竹を縄で縛って骨組みを組み、トタン板を天井に乗せて屋根にし、よしずを立てただけの簡素な海の家がいくつも開かれる。
春菜は千歳を誘って、今日は水着で海辺で遊ぶことにしていた。春菜は海辺の村の育ちで、泳ぎは普通に出来たが、千歳は泳げないらしい。海に入るときは必ず空気を入れたタイヤのチューブにつかまっていた。
それでも水中メガネで水の中を見るのは好きで、浅瀬で浮かんで波に揉まれながら飽きずに水中の景色を眺めているのだった。
春菜はいつものことだが、都会育ちで色が白かった千歳も真っ黒に日焼けした。
「千歳はもうすっかりこの村の子やなあ」
頼子ばあちゃんはそう言うと、愛しそうに目を細めて千歳を見た。
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