第9話 千歳の失踪
千歳がこの村に来た最初の夏も後半に入った9月のこと、大型の台風が村を襲った。和歌山南部の西側の海岸線にあるこのあたりは台風のいわゆる通り道で、毎年この時期になると1つや2つは台風が上陸して通り過ぎて行く。だから地元の人間も慣れたもので、事前に手際よく台風に備える体制を整えていた。
港の漁船は陸揚げするか、もしくはぶつからないように間隔をあけてしっかりと係留された。頼子も風で飛びそうなものを物置や家の中に入れ、停電に備えてろうそくを準備したし、食料もいつもより多めに買い置きしてある。後は夜になったら雨戸を閉めれば準備完了になるはずだった。
昨日から強風と高波で学校は休みになっている。大潮と重なったため満潮時には海沿いの道路はすでに冠水しているところもあるようで、一部の通学路は通れないところもあるらしい。頼子の家は港から離れた山側にあるから海からの波の心配はない。敢えて言えば、裏山が崩れるとか鉄砲水が出るとかの方が考えられるが、頼子が知って居る限り、この村で山からの被害がでたことはないから、まあ心配はないだろう。
そんなことを考えて一息ついたところで、千歳はどうしているのだろうと気になった。今朝見たっきりでその後は姿を見ていないことに気がついた。部屋にいるはずだと思い、千歳の部屋を覗いてみることにした。
頼子の家は昔ながら日本家屋で、屋根は瓦葺きで洋間はない。全ての部屋は畳敷きの和室で部屋と部屋の境目は壁でなければ障子かふすまだ。敢えて言えばトイレだけは板の引き戸になっているし、お風呂場は磨りガラスの引き戸ではある。千歳の部屋は2階の南向きの8畳間で、窓を開ければ海を見ることができる。頼子はふすま戸の前で声をかけた。
「千歳、いるかい?」
当然いるはずと思って掛けた声に返事はなかった。訝しく思って「入るよ」と声をかけてふすま戸を開けた。部屋には千歳はいなかった。どこにいるんだろう。トイレかもしれない。頼子は家中を探し回ったが千歳はどこにもいなかった。だんだんと不安な思いが込み上げてくる。ふと玄関を見ると、いつも千歳がこの季節に履いているぞうりがないことに気がついた。もしかしたら。頼子の頭に嫌な考えが浮かんだ。千歳はまだこのあたりの台風の恐ろしさを知らない。
自分のぞうりを突っかけて外へ飛び出す。強い風がいつからか降り始めた雨を伴って吹き付けてきた。頼子はちょっと迷ったが一旦戻って雨合羽を羽織ってから風雨の中に出ていった。
頼子が真っ先に向かったのは海岸のいつも千歳が海を眺めるとき座っている防波堤だった。向かう途中、何人かの村人とすれ違った。みんなこの風雨のなかを海岸に向かう頼子を訝って声を掛けてくるが、頼子はそれに答えている余裕はなかった。ただ「千歳を見んかったか?」と尋ねたが、誰からも期待したような答えは返ってこなかった。
海岸に着いたが千歳の姿は見えない。まだ満潮までには時間があるが、潮は徐々に満ち始めており、普段は防波堤の向こうに広がる砂浜は大半が海中に没して、大きな波が防波堤近くまで打ち寄せていた。
頼子はそのまま駐在所に向かった。ずっと駆け通しで、雨合羽の中は汗と首筋から入り込んだ雨でぐっしょり濡れている。もう着ていても着ていなくても同じような状態だった。
「駐在さん、千歳がおらんようになった。家の中を全部探したがどこにもおらん。千歳のぞうりが無いから外に出たかもしれんが、いつもの防波堤のところにもおらんかった」
そう早口でまくし立てた自分の声を自分で聞いたとき、頼子は眼の前が真っ暗になるような気がして、その場に崩れ落ちた。
「俺もいまから探す。消防団にも連絡してみんなで探すから安心し。頼子ばあちゃんは一旦、家に戻ったほうがええ。千歳ちゃんが帰ってるかもしれんし」
頼子は祈るような気持ちで、家への道を急いだ。だが、千歳は家にはいなかった。
それから夜間にかけて村人総出で千歳の捜索が行われた。とりあえず村の誰かの家に千歳がいるというこはないことが分かった。頼子は仏壇の前でずっと祈りながら千歳が見つかったという連絡をひたすら待った。
夜になり、風雨がさらに強まって二次災害の危険も出てきたため、捜索は一旦打ち切られ明日未明の台風の通過を待って再開することに決まった。明日の捜索場所の分担を決めて男たちは引き上げて行った。
頼子は不安で潰れそうな胸をかかえて眠れない夜を過ごした。が、千歳が実は部屋にいた夢や、玄関から何もなかったように「ただいま」と言って帰ってくる夢を見たから、知らず眠っていたのかもしれない。そしてそれが夢であることを知るたびに耐えられなほどの胸の痛みに襲われるのだった。
早朝、台風が通過した村では総出の捜索が再開された。頼子は捜索の人たちに混じって防波堤にそって海岸沿いをずっと先まで行ってみたり、浜や岸壁を見て回ったりしたが、手がかりは何もなかった。各所に分かれて捜索していた人々が昼過ぎ頃から段々と何の成果もなく駐在所に集まって来るようになった。
午後も遅い時間になり、すべての捜索が終了したことを確認して駐在さんが、
「頼子さん、もう後は捜索願いを出して沿岸一体を警察に探してもらうしかないやろう」と言った。それはある意味、千歳の生存は保証できないという宣告でもあった。
頼子は黙ってその手続きを駐在さんにお願いし、書類に署名したり印鑑を押したりした。印鑑は持ち歩いていなかったので一旦家まで戻らなくてはならなかった。そんな時間があったら少しでも千歳を探したいと思ったが、察した駐在さんが自転車に乗せて家まで送ってくれた。
警察が船で沿岸の捜索を始めたのは数日後だった。生きている千歳を探すにはあまりにも遅すぎる捜索の開始だった。彼らの中ではもう千歳は死亡しており、どこか沿岸に流れ着いた遺体を発見することが使命であるとしか思えなかった。
頼子は村の漁師に頼んで回った。みんな快く引き受けてはくれたが、漁師も仕事があるからずっと捜索することはできないことは分かっている。でも、もし海の上で何かに掴まって漂流しているところを発見されることだったあるかもしれない。頼子はとにかく藁にもすがる思いで、頭を下げて回った。なにかしていないと気が狂ってしまいそうだった。
千歳のぞうりが片方だけ沿岸で発見されたのは千歳がいなくなって3日後だった。漁をしていた海女が岩場に打ち上げられているぞうりを見つけて、もしやと思って持ち帰ってくれたのだ。それを確認した頼子はそのぞうりをまるで千歳が戻ってきたように両手で強く抱きしめて泣いた。千歳が海に呑まれたのはこれで確実となった。
警察の捜索は3日間行われたが何の成果もなく終了した。ただ沿岸の村々には、もし漂着者を発見したら連絡するよう通達が出されただけだった。
警察の捜索が終わってからも、頼子は毎日朝から日暮れまで海沿いをあてなく歩き続けた。なにか手がかりがないか、もしかしたら千歳が……そのあるかなきかの望みにすがることだけが今の彼女の生きる力だった。村の人たちはそんな頼子を心配そうに見ていたが、娘を失い今度は孫まで失った哀れな老婆の心情を思うと掛ける言葉もなく、ただ黙って見守っているしかなかった。
あの日、もっと千歳のことを気にかけてやっていたらこんなことにはならなかったかもしれない。防波堤に座って一心に海を見ている千歳の姿が目に浮かぶ。あの子は海を見ながら何を考えていたんだろう。もっと話をすればよかった。こんなことになって娘に申し訳がない。次から次へと後悔が押し寄せてくる。もし、千歳が見つからなかったら私も死んで娘と千歳に詫びよう。そこまで思い詰めていた。
頼子はまずいつも千歳が座っていた防波堤のところまでやって来て、そこから浜辺と岩場をひととおり見て回ってから、海岸沿いをひたすら北に、南に、終日かけて歩き回った。
捜索が打ち切られてからも毎日そんな風に千歳を探し続ける頼子の様子を村人達はやり切れない思いで、ただ見つめているしかなかった。
「頼子ばあちゃん、どうにかなってしまわなんだらええがなあ」
村人同士が出会うたび、そのように言い合うのが日課になりつつあった。
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