第10話 奇跡

 千歳がいなくなって早7日が経過した。その日、頼子が防波堤に着いたのは早朝の5時頃で、朝日がまだ山の端から出る前の明るくなりかけた頃だった。あの千歳を呑み込んだ台風が嘘のように凪いだ海からは、砂浜に静かに波が打ち寄せている。まるで何もなかったかのようないつもの風景が広がっている。今の頼子にはそれが一番つらかった。一番大事なものがなくなっているのに、その他のどうでもいいものはすべていつものまま存在している。


 頼子にも本当は分かっている。もう千歳は帰って来ない。そんな思いでぼんやりと浜辺を見ていた頼子ははっと息を飲んだ。浜辺に何かある。自然物ではない何か。頼子は防波堤から浜辺に降りるとその何かに向けて走った。砂に足をとられて何回か転びそうになったが、目はずっとその何かに釘付けになっていた。

 近づくにつれてそれが人であるように思われ、頼子の心臓は早鐘のように激しく打った。まさか、まさか……と言う考えが頭の中に渦巻いて気が遠くなりそうだった。


 それが人だと確信したのは本当にすぐ間近まで来たときだった。仰向けになった姿勢で波打ち際に横たわっている。スカートを身に着けている小さな体から女の子らしいことが分かる。短い髪が千歳とは違う。千歳の髪は背中まで届くほど長かった。頼子がよく髪を結ってやった。がりがりに痩せている。着ている服は海藻や砂にまみれている。千歳の着ていた洋服とは違う。見たことない服だ。ただ、背格好は千歳と似ていた。髪の毛と砂と海藻が付着した顔を手で拭う。幼い少女の顔が現れた。息をしている!頼子は思わずその少女を抱き上げて「千歳!」と叫んだ。


 体が冷たい!急いで温めないと死んでしまうかもしれない。こんな偶然があるはずない。これは千歳だ。神様が私に返してくださったのだ。

 そこからの頼子は必死だった。もう何があっても助けなくては。その強い思いでその女の子を背中に背負うと、家まで一目散に駆けた。年老いた自分にまだこんな力があったことを自分で驚くばかりだった。これも神様がこの娘を救えとおっしゃっているに違いない。


 まず体をきれいに拭いて着替えさせる。裸にして見るとその娘の体にはあちこち傷があるのが分かった。それが海で溺れてついたものか、そうでないのかは分からなかった。傷の手当をして千歳のパジャマを着せた。痩せこけたその娘には千歳の服は少し大きかったが長さはちょうどいいようだ。


 その日から頼子は付きっきりで看病した。体を温めて、白湯を少しづつ口に含ませる。弱々しいながらもその娘は確かにそれを飲み込んだ。喉がこくんと動く。この娘はこんなに傷ついて痩せこけてもまだ懸命に生きようとしている。そう思うと頼子の目から涙が溢れてくるのだった。


 医者の見立てでは、栄養失調が酷いので、白湯から始めて重湯、おかゆへと徐々に変えて行くこと。胃も弱っているから決して急いではいけない。下痢などしたら取り返しがつかないことになる危険性がある。衰弱が激しいので風邪などの軽い病気でも命取りになるので注意すること。当面は毎日往診に立ち寄ってくれるという事だった。


 村人たちの驚きは大きかった。千歳が見つかった。生きていた。頼子さんが海岸で打ち上げられているのを見つけた。よかった、よかった。でも7日間も海を漂っていたからガリガリに痩せこけて風貌も変わってしまっているらしい。そんなふうに噂が広がった。


 千歳は頼子の付きっきりの看病で徐々に回復に向かっていた。発見されて3日目には目を開けて頼子を見つめた。でもそれ以降、ただ、不思議そうにあたりを見回すだけで、まだ口は訊けないでいる。それでも頼子が千歳、千歳と呼びかけると頼子の方をじっと見つめる。


 千歳が「おばあちゃん」と口を訊いたのは発見から半月あまりも経った頃だった。どうやら自分が誰かが分からないらしい。海で溺れたとき何かで頭を打ったかどうかで一時的に記憶が無くなっているのだろうと医者は言った。記憶が戻るのか、いつ戻るのかは分からないらしい。一度、町の大きな病院で詳しく検査してもらった方がいいとも医者は言った。しかし頼子はそれをしなかった。


 記憶を失った千歳に頼子は幼い頃からの生い立ちから順序立てて話してやった。繰り返し、繰り返し、少しずつ。話が千歳が海で溺れてしまったところまで進んだ頃には、千歳の体ははすっかり元気に回復していた。


 まだ外には出ないように言いつけていたから、動けるようになった千歳は、最初のうちは家の中を珍しそうな様子でうろうろと見て回っていた。そのうちおばあちゃん、おばあちゃんと言ってまるで幼い子のように頼子の後を付いて回るようになった。いっしょにご飯を作り、お風呂に入り、いっしょの布団で眠った。

 目が覚めると千歳がいなくなっているのではないかと不安で頼子は夜中に何度も目を覚ました。その度に隣で眠る千歳の寝息を聞いては安心するのだった。


 10月も終わりが近くなる頃、すっかり元気になった千歳は畑仕事も手伝うようになった。通りかかる村人と挨拶するたび、頼子は何処の誰それさんだよと千歳に教えてやった。村人のなかには生還した千歳をお化けでも見るようにまじまじと見るものもいたが、結局は「よう帰ってきたなあ」と言って、頷きながら去っていく。

 千歳だと言われると背格好も同じくらいだし、顔もそんな感じだったかと思われる。髪が短くなったから以前と感じが違って見えるが、療養中に頼子が切ったという事らしい。千歳は元々あまり村人との交流がなかったから、特に疑う者はいなかった。ただ、子どもたちはなかなか慣れないらしく、特に千歳と一番仲が良かった春菜だけは、今の千歳にはなかなか近づこうとしなかった。


 それでも時間がたつにつれて、みんな千歳を受け入れるようになった。子どもたちにとって記憶を失った千歳は転校生が来たのと同じようなものだったのかもしれない。

 ある日、頼子は先祖のお墓の隣に赤い前掛けを着けた小さな地蔵を備え、その足元にはあの日、千歳が履いていたぞうりを埋めた。その地蔵が誰のためのものか、詮索する人はいなかった。



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