第11話 奇跡2

 長い夢を見ていた。


 朝起きて眠たい目を擦りながら居間を覗くと、隣の台所でお母さんが朝ご飯の準備をしている。台所の窓から朝の光が漏れていてお母さんの後ろ姿は影になっている。


 早朝、漁から戻って来たお父さんは獲物の水揚げが終わったらしく、漁具の後片付けで隣の漁具置き場と船の間を行ったり来たりしている。


 居間のちゃぶ台の上にお母さんが朝ご飯を並べている。お母さんが自分を呼んだ。

「……、顔洗って、ご飯とお味噌汁よそって」


 いつもの朝の会話だ。私は返事をして言われたとうり、ご飯をよそって、お味噌汁を入れる。お父さんのお茶碗、ご飯は大盛り。お母さんのお茶碗、普通くらい。自分用のお茶碗は二人より小さい子ども用で、それに普通くらいよそう。


 お父さんが入ってきて、夕べの漁のことを話しながら朝ご飯をみんなで食べる。お母さんと私は「いただきます」と手を合わせてから食べ始めるが、お父さんはめったに「いたきだます」をしない。私はちょっとそのことが不満だった。学校ではご飯を食べる前には「いただきます」、食べ終わったら「ごちそうさまでした」って言うように教えられているのに、どうしてお父さんは守らないのだろうっていつも思う。 でも、お父さんもお母さんも健康そうに日焼けして笑っているから、まあいいか。


 ご飯を食べたらさっさと学校へ行く準備をしないと、友達が迎えに来てしまう。お母さんは食事の後片付けをして、それから漁に出る。お母さんは海女をしている。

「いってきます」と言って、家を飛び出した。表にはいつもいっしょに学校に行く友達が待っていた。


 お父さんの船で釣りに出かけた。いいお天気で、海の波も穏やかだ。お父さんが釣り針にイワシを付けた罠をどんどん海に投げ込んでいく。罠には浮きが付いているから罠を仕掛けた場所はすぐ分かる。ぐるっと輪になるように罠を落とし終わったら、最初の罠から順に引き上げていく。竹の棒の先に引っ掛けるカギ型の金属の針がついた『ハッカイ』という道具で釣り糸を手繰り寄せると、罠にかかった魚が水面に浮いて来るのが見える。獲物がかかっているのを見るといつもドキドキする。きっとお父さんもそうなんだろうな。魚が採れないときもあるらしいけど、私が船に乗せてもらうときはいつも大漁だ。


 上がってきた魚を網ですくい上げる。結構大きい。私の首から下くらいはあるかな。お父さんがすくった魚を生け簀に投げ込む。私が生け簀を覗き込んでいる後から後からお父さんが魚を投げ込んでくる。顔に水しぶきがかかって文句を言う私を見てお父さんが大声で笑う。私もつられて笑う。


 桜が満開だ。お父さん、お母さん、私、それに小さな弟はお母さんと手を繋いでちょこちょこ歩いている。2才前の弟はまだ歩き方がぎこちない。

 お父さんが私を抱き上げて桜の花の間近まで私の顔を寄せて、

「どや、ええ匂いやろ」と言う。私は正直花の香りは全然感じなかった。それよりもお父さんの匂いを強く感じた。汗と潮の香りと、油が混じったような匂い。小さい頃からづっと嗅いできたお父さんの匂いだ。


「花の匂いやのうて、お父さんのくさーい匂いしかせえへんわ」

 そう言うと、私は自分の鼻をつまんでしかめっ面をする。

 弟はお母さんに抱かれて花びらに鼻をくっつけて、香りを一心に嗅ごうとしいる。

「あれは花の匂いやのうてお母さんの匂いや。お父さんの匂いはくさーい」

「そうか?」

 そう言いながら首を曲げて自分の肩のあたりの匂いをくんくんと音をさせながら嗅いでみて、

「なるほど、こら魚臭いわ。漁から帰って風呂入ったんやけどなあ。体に染み付いてとれへんのや」

 お父さんは分かりやすくしょんぼりした。素直に認められると返って罪悪感が湧いてくる。私は慌てて、

「うそ、うそ。くさないって。うちはお父さんに匂い、大好きやで」

 そう言うと、お父さんはまた分かりやすく相好を崩して、

「嬉しいこと言うてくれるやないか」

 そう言いながら私に頬ずりする。

「ぎやー、やっぱりくさい。やめてー!」

 私の悲鳴を聞いて、みんなで大笑いになる。


 お母さんといっしょに海に潜っている。水中メガネを付けたお母さんの顔は水の中でみると別の人みたいに見える。私の顔も別の人みたいに見えているのかな。

 海底の岩場に引っ付いているアワビを道具を使って手際よく剥がしては、腰の網に放り込んでいく。私はまだお母さんほど深いところには潜れないから、少し上の方で獲物を探している。車エビはずっと深いところの岩の間にいるから、私には手が出ない。お母さんはそんな深場でも潜って行って、いっぱい獲物を採ってくる。私もいつかお母さんみたいな凄い海女になって、いっぱい獲物がとれるような一の海女になるのが夢だ。私は海中を舞うように潜るお母さんの姿をうっとりと眺めていた。


 はっと気がつくと、あたりは急に暗くなって、お母さんも見当たらない。もしかしたら漁を終えて帰ってしまったのかもしれない。私、そんなにぼーとしてたかな。急に不安になった私は、急いで浮上しようと手足を漕いで海面に向かって泳いだ。


 海面に浮かび上がったら、そこには嵐が吹き荒れていて、大きな波が次々と頭の上から落ちてくる。そのたびに海中に押し込まれる。息つぎが出来ないくて苦しい。必死で海面に浮かびあがろうとする。海面に顔を出してお母さんを探す。見当たらない。それどころか帰るべき陸地がどこかも分からない。また波が落ちてくる。体が海中でもみくちゃにされ、上か下かも分からなくなる。息が苦しい。「お母さん!」と心のなかで叫んだ。


 苦しさから逃れようともがいているところで目が覚めた。夢だったのだろうか。自分の目から涙が流れていることに気がついた。手の甲で涙を拭いながら、私は今さっきまで見ていた夢ってどんなだったかを思い出そうとした。

 すでに夢の記憶はあいまいで、はっきりと思い出せなかった。ただ、目を覚ます直前に見た怖い夢のことは断片的に憶えていた。私は怖くて涙を流していたのだろうか、それとも……


 そんなことを考えたとき、天井が見えた。私の家ってこんな天井だったかしら?

 ふと今涙を拭った手の甲にかかるパジャマの袖を見た。私、こんな模様のパジャマ持ってたっけ?

 頭を動かくすと頭の下の枕がじゃりっと鳴った。そば殻が入っているんだろう。なんか感触がおかしい気がする。私の枕ってこんな風だったかな?


 そえから部屋の様子が目に入ってきて、私は驚いた。見たことない部屋だ。思わず起き上がろうとしたが体に力が入らず、わずかに首が持ち上がっただけだった。私、どうしたんだろう。体に力が入らない。ゆっくりと寝返り打ってみた。なんとか横向きにはなれた。別に怪我をしているわけではなさそうだ。そのままさらに転がってうつ伏せになる。手に力が入らず、起き上がることはできそうにない。


 敷布団からはみ出した足と手が畳の感触を感じる。鼻が畳のイグサの匂いを感じる。こんないい匂いのする畳の部屋にいた記憶がない。うつ伏せのまま右横になった顔から正面に見えるのは両開きの襖だった。破れたり修復したりした跡のないきれいな、そしてやはり見覚えのない模様の襖だった。


 不意にその襖がすっと開いた。入って来た人は足しか見えない。その人は「千歳」と叫んだ。何度も「千歳」と叫びながら私を抱いて、仰向けに寝かせてくれた。そしておでこに触ったり、頬を撫でたりした。どうも「千歳」って私のことらしい。やさしそうなおばあさん。でもやっぱり見たことないおばあさんだった。おばあさんは涙を流していた。


「気がついたんやね。よかった、よかった」と言う。

 私、病気なのかな。でもなんで知らない家に寝てるんだろう。この人は誰だろう。私の名前って「千歳」だったっけ?

 頭に霞がかかったみたいに、これまでのことが思い出せない。何かヒントになるものはないかと、わずかに動く頭を右に傾けたり左に傾けたりしながら目をきょろきょろさせて見える範囲のものを見てみた。


 さっきおばあさんが入ってきた襖の反対側は障子になっている。外から明かりが差しているところを見ると、今は昼間らしい。枕もとの上には箪笥がある。引き出しが6つ付いている和箪笥だ。箪笥の上に何があるのかは見えない。足元の方にも両開きの襖がある。隣の部屋に繋がっているのか、もしかしたら押入れかもしれない。天井はきれいな木目板で、傘のついた電灯がぶら下がっている。昼だから電灯は点いていない。おばあさんが入ってきた障子の上には何かの飾りが掘られた欄間になっている。もう一回足元を見る。そっちの襖の鴨居の上は白い壁になっているから、その襖の向こうはきっと押入れなんだろう。そんなことを考えたが、結局、そのどれにも見覚えはなかった。


「何か少し食べるかい?」

 おばあさんが聞く。空腹は感じなかったが、私は病気なんだから元気になるためには何か食べなくてはいけないのだろう。

「うん」と声を出そうとするが声は出なかった。ただ口をぱくぱくさせて頷いただけになった。


 おばあさんは温かい白湯をスプーンですくって口元からゆっくりと流し込んでくれた。温かい液体が胃まで流れていくのが分かる。

「もう一口お食べ」

 私は声をだすのは諦めて首だけで頷く。それを何回か繰り返すうち、いつの間にか眠りに落ちた。何も思い出せないけど、とても幸せな気持ちだった。


 目を覚ますといつも側にはあのあばあさんがいてくれて、目覚めた私のおでこに手をあてたり、頬を優しく撫でてくれる。

 毎日、清潔な肌着に着替えさせてくれて、体を温かいお湯で絞ったタオルで隅々まで、足の指の間までもきれいに拭いてくれる。そして私のことを「千歳」と呼んで話しかける。


 私はもう怖い夢を見ることはなかった。代わりにおばあさんが夢に出てきて、にこにこしながら私に優しく語りかけてくれる。「千歳」と。

 私はおばあさんの優しさを感じ、安心感に満たされてずっと眠り続けた。


 口にするものが白湯から重湯になる頃には、私は声が出るようになっていた。

 私が最初にしゃべった言葉は、

「おばあちゃん」だった。それから、

「おトイレに行きたい」だった。

 ずっと白湯しか口にしていなかったため、ずっと排泄がなかった。気がついてから始めて感じた尿意だった。


 おばあさんは私が言葉をしゃべったことに驚いたり、喜んだりでしばらくそわそわしていたが、私が再び「おトイレに行きたい」と言ったら、

「起きられるかい?おむつをしようか?」と言った。

「ううん、おトイレに行く」と言うと、それじゃと、私を抱き起こして座らせ、私の脇に自分の頭を入れて腕を掴み、背中にもう片方の腕を回して反対側の脇に手を差し込んで支え、「よっこらしょ」と掛け声を掛けて私を立たせてくれた。私は足を踏ん張った。おばあさんに支えられて、なんとか立ち上がることができた。


 そのとき私は自分の足がひどく細いのを見て驚いた。ほとんど骨と皮しかない。でも、歩くうちにだんだんと足取りがしっかりしてきて、おトイレに着くころには、ほとんど自分の足で歩けるくらいになった。ちょっと恥ずかしいけど、おトイレもおばあさんに支えてもらってなんとか済ます。


 部屋に戻るときは、おばあさんに捕まって歩きながら、周りを見るくらいの余裕が出来てきた。私が寝ていた部屋からおトイレまではまっすぐ廊下で繋がっていて、廊下にはガラス戸がはまっていて、ガラスを通して外が見える。そこから見える景色はおばあさんの家の庭なんだろうけど、やっぱり見覚えがなかった。ただ、次からは一人でもおトイレに行けるだろうと思った。



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