第12話 疑惑

 あの台風の日に千歳がいなくなって7日後、浜辺に打ち上げられているところを頼子ばあちゃんが見つけた。そのとき千歳にはまだ息があって、頼子ばあちゃんが必死に看病して命を取り留めた。それから段々と元気を取り戻してきている、と聞いたときには春菜は飛び上がって喜んだ。


 さっそくお見舞いに行きたいと母親に申し出たが、

「まだ完全に元気になってないから」

と止められた。

「今、風邪とかを移したりしたら取り返しがつかないことになるから」

とも言われた。その時はなるほどと思ってずっと我慢してきたが、いつまで経ってもお見舞いの許可を出さない母親にジリジリしていた。千歳だってきっと私に会いたいに決まってる。


 近所の人達が頼子ばあちゃんの畑で千歳を見かけて「良くなって、ほんまによかったなあ」と話しているのを聞いたときには、もう待ってはいられなくて春菜は母親の許可も待たずに頼子ばあちゃんの家に駆けて行った。


 畑で頼子ばあちゃんと並んで何かの作業をしている千歳と思われる女の子の後ろ姿が見えた。髪の毛が短くなっていることは聞いていた。

「ちいちゃん!」と春菜は叫んだ。

 以前、春菜は千歳のことを「ちいちゃん」と呼んでいたのだ。

 その声に振り向いたのは、頼子ばあちゃんだけだった。頼子ばあちゃんは隣の女の子にちょっと声を掛けておいて春菜の方へ早足でやってきた。その顔が何故か困っている様に見えて春菜は立ち止まった。


「春菜。千歳に会いに来てくれたんやな」

「うん。ちいちゃん、もう良くなったんやろ?」

「ああ、体はすっかり元気になったんやけどな……」

 言い淀む頼子ばあちゃん。その向こうにはずっとこちらに背を向けて畑仕事をしている女の子が見えていた。どうして振り向いてくれないんだろう。


「お母さんから聞いてへんかな、千歳のこと」

「ううん」

「千歳は、記憶喪失って言う、病気にかかっててな」

「きおくそうしつ?」

「今までのことを全部忘れてしまう病気。あの子は自分の名前も生年月日も家族のことも全部忘れてしもてるんよ」

「ほなうちのことも覚えてへん?」

「ああ、覚えとらんやろ。私のことも忘れとったし」

 だから呼んでも振り向いてくれないのか。でも、今までのことを全部忘れるなんてことが本当にあるのだろうか。たとえそうでも私のことは憶えててくれるんじゃないかな。ほんのちょっと前のことなんだし。


「ちいちゃんと話してもええ?」

 そう言うとやっぱり頼子ばあちゃんはすごく困った様な顔をした。しばらく黙っていたが観念したようにため息をつくと、

「千歳」と呼びかけた。その声に女の子が立ち上がって振り向いた。

 まさかこんなことってあるのだろうか。顔が全然違う。髪が短くなったとかそういう話じゃない。背格好は確かに同じくらいだけど。

「あんた誰?」

 思わず言葉が口をついて出てしまった。村の人達はともかく、頼子ばあちゃんが分からないはずはない。


「頼子ばあちゃん、この子、ちいちゃんと違う!」

 それを聞いた女の子は、

「うち、水城千歳と違うの?」

 そう言うと頼子ばあちゃんと春菜を交互に見て、泣きそうな顔になった。頼子ばあちゃんはそんな女の子を抱きしめて、

「よしよし、何を言うてるんや。おまえは千歳じゃ。私のかわいい孫や。間違えるはずがないやろう」

「頼子ばあちゃん……」

 さらに言い募ろうとする春菜を頼子ばあちゃんは目で制した。そして首を横に振った。これ以上何も言うなってことだと言うことは春菜にも分かった。春菜は喉元まで出かかっていた言葉を強引に呑み込んだ。


「春菜、この子は記憶を全部なくしてどんなにか心細い思いをしとる。そんな病人に鞭打つような言い草は儂が許さんぞ」

 春菜はこれ以上何を言っても無駄であることを悟った。春菜は女の子にさっと近づくと、いきなりシャツの裾をめくった。その子のおヘソのあたりが見えた。それを確認すると春菜は踵を返して自分の家へと駆けた。


 春菜の母は台所にいた。お昼ご飯の用意をしているらしい。鍋から湯気が立ち上り、その横でお母さんがまな板の上でお菜を切っているトントンというリズミカルな音がする。春菜はお母さんの後ろ姿に向かって声を掛けた。

「お母ちゃん、うち千歳に会うて来た」

 お母さんの背が一瞬ビクッとなってお菜を切る手が止まり、お母さんが振り向いた。

「そうか」

 お母さんはそれだけしか言わなかったが、なんとか平静を装おうとしていることが分かった。


「あの子、ちいちゃんと違う。なんでみんな分からへんの?」

 お母さんは黙って春菜の言う事を聞いていた。やっぱり頼子ばあちゃんと同じように困った様な顔をしている。

「記憶喪失で、昔のことは何にも覚えてへんのやろ。心が入れ替わってしもたんやから見た目も変わってしまっても不思議はない」

「けど、ホクロはなくなったりせえへんやろ。千歳はおヘソの右横にホクロがあった。何回もいっしょにお風呂に入ったから憶えてる。けど、あの子にはホクロがなかった。絶対、偽もんやって!みんなに教えたらんとあかん」

「春菜、やめなさい!」

 お母さんが大声を出した。お母さんのそんな悲鳴のような声を聞いたのは始めてだった。春菜はびっくりして肩がすくんだ。


「もし、あんたの言う通りあの子が千歳ちゃんと違ったとしても、それを暴いてどうするつもりなん?それで誰かが幸せになるんか?千歳ちゃんはどうなる?記憶を無くしたあの子は頼子ばあちゃんのとこ以外、何処に行くとこがあるの?それに千歳ちゃんがどっかに行ってしもたら頼子ばあっちゃんはどうなる?千歳ちゃんが見つかってあんなに喜んでるばあちゃんをまた悲しませるんか?今度こそばあちゃん死んでしまうぞ」

 春菜は言葉に詰まった。でも、「嘘はあかんのと違うの?」と言う言葉はあまりにも幼稚な気がして口にするのは憚られた。


「真実を言うことが必ずしもいいこととは限らへんのと違うか?」

 お母さんはそう静かに言った。その言葉がすべてを物語っている。春菜は黙った。お母さんの言うことは分かる。誰かを不幸にしたいわけではない。でもでも、何か納得が行かない。何か大事なことを忘れているように思えたが、それが何なのかこのときの春菜には分からなかった。





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