第3話 里子

 清美が引っ越してきた家から道を少し北へすすむと、山が海に迫った傾斜地に続いていて、その先には小さな漁港が点在している。漁港の周りに平地は少なく、傾斜地を上がったところまで家が建っている。ほぼ全員が漁業で暮らしをたてている漁村だ。里子の父は漁師で母は海女をしていた。父は船持ちの漁師だったし母は腕のいい海女だったから、幼いころ里子は贅沢はできないにしろ、特に何不自由なく育った。


 父が夜引きの船上でウインチに巻き込まれて死んだのは里子が小学校1年生のときだった。里子には下に5つ年の離れた当時まだ2才になったばかりの弟がいた。母は海女を続けて二人を養ってくれたのだが、父が漁船を購入したときの借金は漁船を売り払ってもまだ足りず、その支払いにも追われることになった。里子も小さい弟の世話や家事を懸命に手伝ったが、やっと借金を払い終えてすぐの、里子が小学校4年生に上がった年の春、過労が原因で母はあっけなく死んでしまった。


 同じ漁村に住む父方の親戚が里親となって里子たち姉弟を預かることになったのだが、その親戚は役所から支給される養育手当が目当てであって、里子姉弟は厄介者として扱われることになる。


 里親のおばさんは和歌山市内で水商売をしており、情夫らしき男と暮らしていた。同居しているおばさんの父親である「おじいさん」は元は漁師だったが、今はずっと家にいてお酒ばかり飲んでいる。

 里子と弟の慎吾が暮らしていた元の家はいつの間にか人手に渡り、二人はその親戚の家の物置のような一室で暮らすことになった。


 弟の慎吾は普通なら幼稚園に行く年だが、そうはさせてもらえず、ずっと家にいる。里子は海で海女の真似事をして働いた。採ったあわびやさざえ、車エビなどを里親の家の「おじいさん」のところへ持っていく。おじいさんはそれを漁協に持って行って金に換える。そこから自分の小遣いを差し引いた残りを里子にくれる。里子がもらう金額は本当に僅かで、それで食料や日用品を買わなければならない。


 でも子供である里子が採った獲物を直接漁協で換金することはできない。それに里子が海で獲物を採ること自体が違法なことであった。海女として海で獲物を採るには免許が必要で、里子はもちろんそんなものは持っていない。でもその漁村の海女達は母のことや現在の里子の身の上を知っているから、そんな里子の違法行為も大目に見てくれているのだった。たまに獲物を分けてくれる海女もいたが、換金後に里子が受け取るお金はいつも僅かだった。


 里子は幼いときから母について海女のように海に潜っていた。そのころの里子は将来自分が海女になるとは思っておらず、単なる遊びの延長でしかなかったのだが、母は里子に色々役に立つ事を教えてくれた。深く潜る時の耳抜きの方法とか、どこに潜ればどんな獲物が採れるとか。岸壁に沿って磯を巡りながら、値の張る獲物であるウニ、さざえ、あわび、車エビ等がたくさんいる場所を母は里子に伝えていた。


 海女の道具も母が使っていたものを見ようみまねで使っている。獲物を入れる『たまり』という網、船の錨のように流されないように体を固定する『いかり石』、岩から貝を剥がすときに使う『磯かね』、海面に浮かべておいて獲物を入れる『磯おけ』、重り付きのベルト、足ひれ、それらを入れる背負いかご。里子が海に出ている間、弟の慎吾は岩場を歩いて海藻やなまこ等を採って歩いた。


 最初、里子はお金を稼ぐために海女の仕事に夢中になるあまり、学校にまったく行かなくなっていた。ある日そのことで里子の担任の先生が家にやって来ておばさんに詰め寄ったらしい。そんなことは知らずに家に帰った里子はおばさんに手ひどく殴られた。それ以来、里子は昼間は学校に行き、放課後だけ海に出るようになった。海に出る時間が減ったから当然獲物も少なくなり、里子の生活はますます困窮することになった。


 学校の給食をおかわりしてできるだけお腹を膨らませること。入れ物を持参して給食の残りをもらって持ち帰ること。体育など無駄な運動はしないで体力を温存すること。母が亡くなった年の春から夏、秋はそんな風にしてなんとか乗り切った。でも身の回りのことまで手が回らなくて、里子の身なりは段々とみすぼらしくなっていった。そして体も見る影もなく痩せてしまった。


 当時の担任の先生もそんな里子の変わり様をずいぶん心配してくれていたのだが、先生が家に来たら里子が殴られるので、里子は頑なに何でもないと言い張った。里子が虐待を認めな限り、大人は手を出すことはできなかったのだが、里子にはどうすることもできなかった。


 そして冬。里子は相変わらず放課後海に潜ることを続けていた。当時はドライスーツのようなものはなかったから、相変わらずスクール水着で海に入った。12月も半ばを過ぎる頃には海水は身を切るような冷たさに加え、強い北風に体温を奪われ、里子は凍える手で獲物の入った網を握り、歯の根が合わずにカチカチなるのを堪え、這うようにして石ころの浜を家まで帰って来るのだった。


 海中にいると体温が奪われ、頭が寒さのため朦朧としてくる。潜っている時間が短いため、どうしても獲物は少なくなる。ほとんど獲物が入っていない袋を抱えておじいさんのところへ行く足はさらに重くなった。


 おじいさんの部屋はストーブが焚かれていて暖かかった。おじいさんは里子にこっちへ来いと手招きし、その両手で里子の頬を包み込んだ。おじいさんの手は暖かくて里子は一瞬おじいさんが冷え切った自分の体を労わってくれているのかと思った。おじいさんの手はそのまま里子の小さくて細い両肩に降りてきた。そして里子の水着の肩ひもを外すと水着をそのまま下へずり下げた。里子の薄い胸が露になった。里子は体を固くしたまま動けなかった。体全体が寒さのために小刻みに震えている。おじいさんの生暖かい手が里子の冷えた体の上を撫でる。さらに水着が下げられ、里子の足元に落ちた。おじいさんはしばらく里子の体をじろじろと睨めるように見回してから、体を撫でまわした。里子はぐっと口を結んで目を固く閉じ両の拳を握りしめて、何をされても体を固くして動かなかった。 


 そうしてひととうりの事が終わった後、

「こんな貧弱な体やと立つもんも立たんわ」

 そう言うとおじいさんは里子を離した。

「ほれ、これ持って行け」

 膳の上にあった食べかけの配食弁当を里子に与えた。

「獲物が少ないときは今日みたいに体で払ってもらうで」

 口の片端だけを持ち上げた下卑た笑顔を浮かべて言うのだった。


 里子は急いで濡れた水着を身につけると、配食弁当の残りを抱えてその場を立ち去った。そしてその持ち帰った弁当を残り物と悟られないようお皿に盛り付け、持ち帰った給食の残りとともに弟の夕食として膳に並べた。そうしておいて自分は急いで水着から着替えると表へ出た。


 外はもう暗くて北風が吹き付けていて寒かった。そこで里子は母親が亡くなってから初めて涙を流した。自分の大切なものを汚い土足でめちゃめちゃに踏みにじられたような口惜しさを噛みしめて里子は泣いた。そしてそれからは一度も泣くことはなかった。泣いても何も変わらないことを里子は誰よりも身に染みて知っていた。


 それでもどうにかその冬を乗り越えた里子は5年生になった。春になってまだ自分が生きていることが幸せなのか、冬の間に死んでしまっていた方が幸せだったのか里子には分からなかった。

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