第2話 清美
清美が某大手化学メーカーで技術者として働いている父の都合で、和歌山の小学校に転校して来たのは5年生の新学期にあわせてのことだった。清美は神奈川の結構大きな街で生まれ育ったから、和歌山市内のこの街に来たとき、なんて平坦な街だろうっていうのが第一印象だった。高いビルがなくて空が広い。車や人通りに比べて道が広い。
国鉄(現在のJR)和歌山駅前の繁華街も、唯一賑わいのある近鉄デパートから離れると閑散としており、前に住んでいた神奈川の街にあった繁華街に比べたらあまりにも貧弱だと感じる。
今までだったら何か欲しいものがあると、何処に行けばお目当てのものが手に入るかが頭にすぐ浮かんだものだが、繁華街すらこんなに閑散としているこの街では、何処に行けばなんてまったく想像できない。おそらく何処に行っても手に入らないという理解が正しいのかもしれない。私、ここで大丈夫かな。ちょっと、いやかなり不安になる。
当時の和歌山で一番の繁華街は和歌山駅前ではなく、古くから和歌山城の城下町として開けた『ぶらくり丁』であることを当初の頃の清美は知らなかった。
清美は水泳、それも競泳にはまっている。小学校の低学年から通い始めた当時の水練学校(現在のスイミングスクール)で、清美は同じ学年のなかでは泳ぐのが一番速かった。神奈川で開かれる水泳の大会では小学生の部門で何回か優勝したこともある。
だからこの街に引っ越すことが決まったときも、引越し先でも水練学校に通うことできること、というのが清美が両親に出したただ1つの条件だった。和歌山は海、川に恵まれた土地柄で、当時の水泳選手も多く輩出していた。
引っ越してすぐに母親と見学に行ったその水練学校の場所は、県大会レベルの公式な大会が開催されるだけあって、古いが一応の設備は揃っていて、短水路(25m)プールの他、競泳用の長水路(50m)プールや高飛び込み用の水深の深いプールもあったし、通っている生徒も子供から大人まで結構賑わっているように見えた。
水泳教室は短水路のプールを使って行われているが、そのとき見た小学生と思われるクラスではそれほど目を引く選手はいないようで、ここでもたぶん自分が一番速いだろうと清美は思った。
ちなみにこの当時、1960年代の初め頃、温水プールはあるにはあったが冬季の大会等に使われるのみで、水練教室で利用できるような一般的な施設ではなかった。そのため水練学校では冬季の練習はなく、春季から夏季、秋季までの期間のみ、川や海で行われるのが普通な時代であった。したがって清美のように競技用のプールを使えること自体かなり恵まれたことであったと言える。
4月に入って春らしい暖かい晴れの日が連続して続き桜が一気に満開になった。そんなある日、清美が新しく通うことになる小学校の新学期が始まった。
清美が転校してきた小学校の5年生は1組から5組まで5クラスあって、1クラスはだいたい40名くらいだった。
転校生の清美は初日という事もあって、今日はお母さんと一緒に登校し、まずは職員室を訪れる。そこで担任の斉藤先生と初めて顔合わせをした。斉藤先生の担当は国語。年齢は言われなかったのでこれは清美の想像であるが、おおよそ30代後半くらいではないかと思われた。見た目結構優しそうだけど叱るところはきちんと叱るタイプの先生かなと、第一印象ではあるが清美はそんなふうに感じた。
お母さんとはそこで分かれ、清美は斉藤先生に連れられて教室に向かった。連れて来られた教室に掛かったクラス標識を見て、清美は自分のクラスが5組であることを知った。
教室に入ると斉藤先生は入口を入ったところに私を待たせておいて、まずは騒がしいクラスの子どもたちを着席させてから、
「みなさん、初めまして。5年5組を担当する斎藤です。まず最初に転校生を紹介します。神奈川からこちらに転校してきた蔵立清美さんです」
そう言いながら先生は黒板に私の名前を漢字で書いた。そして『くらだてきよみ』と読み仮名をふった。
「蔵立さんはお父様のお仕事の関係でこちらに来られました。みんな仲良くしてあげて下さい。じゃ蔵立さん、挨拶して」
「神奈川から来ました、蔵立清美です。特技は水泳です。よろしくお願いします」
そう言ってお辞儀をしたら、椅子に座ってこちらを見ている同級生になる子らからあまり心がこもっていないパラパラとした拍手が起こった。
清美は転校するのが初めてでちょっと緊張しているが、迎える側の子にとっては特にどってこともない出来事なのだろう。
自分も前の学校で何回か転校生を迎えたことがあるからその気持は分かる。まあそんなもんだろう。でも自分が転校生の側になってみると、もうちょっと心のこもった反応があってもいいんじゃないかとちょっと嫌な感じがした。人間って勝手なもんだ。
自分に与えられた机と椅子に移動してランドセルを机の横に掛け清美は着席した。それから一通り全員の自己紹介が続いた。一回聞いても絶対覚えられっこないんだし、こんなの意味あるのかなと思いながら清美は次々と行われる自己紹介をぼんやりと聞いていた。
「……」
何を言ったのか聞き取れなかった。その女の子は中腰で俯いたまま何やらボソっと言った後、すぐに着席した。先生が何か言うかと思ったが、特に何の突っ込みもなく自己紹介は淡々と続けられた。それで返ってその子のことが気になってしまった。
ショートに切った髪はなんとなくバラけていて、ちゃんと櫛を通してきたようには見えない。白い制服の半袖シャツは、汚れているわけではないけれど、長く着ているせいで元々の白が少し黒ずんでいる。清美のお母さんだったらきっとああなる前に漂白して真っ白にするだろう。紺のスカートのプリーツは折り目が消えかけて皺になっている。たぶんアイロンをあまりかけていないのだろう。ずっと俯いて顔を上げようとしない。前髪が垂れて顔を隠しているから、その子がどんな顔をしているのかまったく分からない。それにその子の手足はすごく細かった。
その日は新しい教科書と明日からの時間割をもらって終わり。もらった教科書を全部ランドセルに入れると結構な重さになった。それをよっこらしょっと担いで帰ろうとしたところで声を掛けられた。
「蔵立さんって何処に住んでんの?」
「お父さん、何のお仕事してはんの?」
「水泳が得意って言うてたけど、水練学校とか行ってんの?」
「好きな食べもんって何?」
あんたらおばさんか!って突っ込みたくなるような質問攻め。これが関西人ってやつか。これからはこのノリに付いて行かないといけないのかと思うといささかげんなりする清美だった。
清美はふとさっきの子が気になって、その子の席の方を振り返ったがその子はもういなかった。
「あのさあ、さっきそこの席に座ってた子、なんて名前なの?私、よく聞き取れなかったんだけど。みんなは聞き取れたの?」
「ああ、里子ちゃんやな」
「なに里子ちゃん?」
「山下里子ちゃん。ちょっと訳ありの子で。まあ、蔵立さんは関わらんほうがええで」
「訳あり?」
そう聞くと、みんな顔を見合わせて言いにくそうにするだけで、訳ありの中身については誰も何も答えてくれなかった。
清美は和歌山に来て初めて、社宅ではあるが一戸建ての家に住むことになった。これまで住んでいた神奈川の家も社宅だったけれど6階建ての集合住宅だった。清美は集合住宅以外の家に住んだことはなかったし、別に一戸建てに住みたいとも思ったこともなかったのだが、両親は一戸建ての家で子供を育てるのが理想だったらしい。
父が新しく通うことになる工場は、和歌山港からちょっと南に行ったところにあって、工場のすぐ近くに集合住宅型の社宅もあったのに、わざわざ工場から随分離れた海辺の閑静な住宅街にあるこの一戸建て社宅を選んだらしい。
この社宅は『役員社宅』と呼ばれていて、原則的に会社の偉い人しか入れないことになっているのだが、空きがあるときはある程度以上の職級の人であれば入居が認められるらしい。父はうまくその空きを引き当てたという訳だ。
『役員社宅』と言うだけあって、広い庭がついていて隣家との空間もゆったりとってある。室内の間取りもゆったりしていて一部屋一部屋が広く部屋数もあって、親子3人で暮らすには広すぎると思ったくらいだ。母親は広いキッチンと隣あった洋風のダイニングスペースがとりわけ気に入った様子で、荷ほどきもそこそこに、さっそく板敷の床にカタログを広げて鼻歌混じりにダイニングテーブルを選んでいた。
その『役員社宅』から歩いてすぐのところで防波堤に突き当たる。それを越えるとその先には松林と広い砂浜が広がっていて、さらにその先には太平洋が広がっているのが見える。広い砂浜と遠浅の海は夏季シーズンには海水浴場になり、多くの人で賑わうらしい。繁華街から外れていて買い物にはちょっと不便だが、清美はここが結構気に入った。
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