宿命

藤塚明紀がC清掃会社でアルバイトを始めて半年が過ぎた。季節は初夏になっていた。爽やかな日曜日のことだった。会社は休みだった。藤塚明紀は、アルバイト代で買った格子柄の半袖シャツを着て、公園の噴水の近くに立っていた。噴水から上がる水しぶきにも日の光がそそぎ、まぶしく輝いていた。その向こうから、尾原知果が、藤塚のほうに歩いて来た。彼女は水色のワンピースを着ていた。何の柄も模様もない無地のワンピースだった。飾りっ気のない彼女らしかった。


彼女は、あの時の藤塚のアルバイト作業員への接し方を見て、彼に尊敬の念を抱いた。以降、彼の明るい振る舞いを見ているうちに、それが、彼への恋愛感情へと変わっていった。藤塚もそのことに気づいていた。彼も彼女に好意を抱いていた。


尾原知果は、藤塚の傷跡のことが最初は気にならなかった。でも、尊敬の気持ちが恋愛感情に変わるにつれて、気になるようになった。何故、傷跡があるのかについて、藤塚は話さない。彼女は本当は訊きたかったが、それはできなかった。彼が自分から話すまで待つべきだと考えた。


そして、今日、藤塚から話があると彼女は言われ、待ち合わせ場所の公園に来た。きっと傷跡のことについて話をするつもりなのだと思った。藤塚も自分に好意を抱いていることが分かる。彼は礼儀正しい人間だ。交際を申し込む前に、傷跡のことは話しておかなければならないと思ったのではないか。彼女がそう思うのには理由があった。藤塚が、尾原知果に会って話がしたいと言ったのは、昨日の夕方だった。仕事が終わって帰る寸前だった。直前まで、彼は悩んでいた。でも、打ち明けようと思った。そして、いつになく深刻な表情で彼女を誘った。彼の表情を見た彼女がそう思ったのは自然なことだった。


藤塚は、尾原知果とは、これまで何度か、休みの日に会ったことがある。尾原知果は、緊張していたこともあり、ほとんど話をしなかった。彼は明るく振る舞い、気の利いた話をして、彼女を楽しい気持ちにさせた。彼女は仕事中は話をする。でも、普段は寡黙だった。口下手とも言えた。だから、藤塚のように、そのことを踏まえた上で、楽しく話をしてくれる相手というのは、とても貴重な存在だった。ましてや、藤塚は男である。彼女は、藤塚明紀に男性の一種の理想を見ていた。


藤塚は、尾原知果と初めてプライベートで会った日、映画を観て、その後、彼女の好きな絵本を本屋で何冊か見た。その時、一冊、彼女のために絵本を選んでプレゼントをした。そして、帰ってきた。

静かなデートだった。しかし、藤塚は帰宅してから、自分自身に驚いた。藤塚は、同年代の女の子と話をすることすらできない青年だった。そんな彼にとって、尾原知果とのデートは生まれて初めてのものだった。それが、口下手な彼女のために、率先して話をして、二人で楽しい時間を過ごしたのだ。以前の彼なら、たとえデートの約束ができたとしても、重圧のあまり約束をすっぽかして逃げていたに違いない。この変化は一体何なんだと彼は考えた。


住野の振る舞いと思想を借りているうちに、それらが、俺自身のものになったのかもしれない。住野の振る舞いと思想を借りたままの状態でいた場合、きっと、それが苦痛になってくるはずである。何故なら、住野の真似をし続けなければならないからだ。でも、俺は特に苦痛を感じていない。ということは、借りているのではなく、自分のモノにしたということだ。もう闇に紛れて隠れるように生きる人生とはオサラバだ。傷跡のことも、これまで過剰に捉えすぎていた気がする。誰も俺のことに関心なんてない。傷跡もそれと同じなんだ。あの大怪我をした日以来、ずっと違う道を歩いて来た。でも、俺は元の道に戻る。そのためにも、まず彼女に本当のことを話さなければならない。


日曜日の公園には人が多かった。藤塚は、静かに話ができる場所に向かった。公園の近くの古い喫茶店に入った。尾原知果は驚いた。その店には看板が無かった。だから、廃業した店だと思っていた。額に傷跡がある藤塚が、誰にも見られずにくつろげる場所として、この喫茶店を利用していた。この店を見つけたきっかけは自分でも覚えていない。傷跡のある彼の切実な嗅覚がここを見つけたのかもしれない。


二人は窓際のテーブル席に座った。二人が座った椅子は古い木製の椅子だった。テーブルも同じだった。無愛想な老紳士が注文を取りにきた。二人ともコーヒーを注文した。

店内に音楽は流れていなかった。壁には一枚の絵も飾られていなかった。客は二人だけだった。少しすると先ほどの老紳士がコーヒーを運んできた。無言でテーブルの上に置くとカウンターの中に戻っていった。

二人はコーヒーを飲んだ。とても美味しかった。

藤塚は言った。

「コーヒーの味に自信があるから、この店は看板も店内の装飾も一切無しにしているんだ。マスターの笑顔もね」

尾原知果は笑った。

彼女の笑顔を見ながら彼は思った。大切な話がある今日も、自分は、緊張せずに機知に富んだ話までできる。大丈夫だ。これなら、彼女に分かってもらえる。

彼は彼女を愛していた。本当のことを話し始めた。

「僕はいつも職場の人たちに感謝しているんだ。大人の人たちが多いからだろうか。僕の額の傷跡のことに気づいていても、誰もそのことには触れずにいてくれる。変に同情的になることもない。とても自然な態度で、みんな、僕に接してくれる。僕はみんなといる時、実は額に傷跡など無いのではないかと思うことすらあるんだ。そして、君も、その優しい人たちの一人だ」

藤塚の話を聞いて、尾原知果は、彼は、やはり、傷跡の話をしてくれた。私たち二人のこれからのことを真面目に考えてくれている。そう思って嬉しかった。彼女は話の続きを待った。


藤塚は続きを話し始めた。

「ところで、そんな人たちに対して、僕はとてもやましいことがあるんだ。そのために、僕は、アルバイト代を銀行振込じゃなくて、手渡しでもらうようにしている」

「急にどうしたの? バイト代は学生支援所が手渡しで、住野君は、それが便利だったから同じにして欲しいって社長に頼んだ。それで、社長も、社員の場合は無理だけど、アルバイト一人ぐらいならいいって了解してくれた。何も問題ないはずだけど」

藤塚明紀は、C清掃会社のアルバイト代を、本当は、自分の銀行口座への振り込みの形で受け取らなければならなかった。世間一般の方法であり、特別なことではない。だが、その当たり前のことが、藤塚はできなかった。何故なら、彼は「藤塚明紀」ではなく「住野高次」としてC清掃会社で働いているからだった。住野にも無断でやっていることだから、彼に助けを求めることもできなかった。


藤塚は彼女の質問には答えず、更に、続きを話した。

「この前、山辺社長から、大学を卒業したら正社員として、うちで働かないかって誘われたんだ。でも、断った」

「知らなかった。住野君。生き生きと働いてるから、今の職場が楽しいんだと思ってた。やっぱり、大きな会社で働きたいの?」

尾原知果は、傷跡のことから話が離れていくことに不安を覚えた。

藤塚は、いよいよ打ち明けようと思った。正直に自分の本当の名前を名乗る。それから、彼女に謝る。その後のことは、まだどうしていいか分からない。でも、とにかく嘘をついたままでは良くない。彼は彼女に話した。

「僕は、住野高次じゃないんだ。本当は、藤塚明紀っていうんだ」

尾原知果は、彼の言うことの意味がよく分からなかった。

「偽名を名乗っているっていうこと?」

と訊いた。

「偽名じゃないんだ。友だちの名前なんだ。それと、経歴も住野の経歴なんだ。僕は君と同じで、去年の春に高校を卒業している。でも、A大学には進学していない。A大学で勉強しているのは、友だちの住野だ。住野は真面目な奴だから、毎日、大学で勉強している。最近、勉強が忙しくて、バイトもしていない。つまり、C清掃会社でバイトをする時間もないのが、本当の住野なんだ」

尾原知果は、何故、彼が友だちの名前と経歴を使っているのかは分からなかった。でも、話を聞いていると、悪意があってしているようには思えなかった。そこで、

「友だちの名前と経歴を使っている理由は何なの?」

と訊いた。

「実は……、僕は……、子どもの時に……、父親に川釣りに連れて行かれて……、そこで、岩場に落ちて……、額に大怪我をしたんだ……」

藤塚は傷跡の原因である川での事故にまで遡って話し始めた。

だが、藤塚の話し声は、今までと違い、ひどく小さくなり、話も、途切れ途切れになった。それに、とても辛そうに見えた。

「辛い記憶だったら、無理に話さなくてもいいから」

と彼女は言った。

しかし、彼は懸命に話そうとした。

「僕が……、住野の名前を……、借りたのも……、額の傷跡が……」

だが、藤塚は、話をしているうちに、言葉が途切れるだけでなく、気が重くなり、必死で話している自分がばかばかしくなってきた。そして、遂に黙り込んだ。その時の藤塚の表情は、彼女が今まで見たことのない暗く無気力なものだった。

「住野君……、じゃなくて藤塚君。大丈夫?」

彼女が訊いても、彼は黙っていた。ぼんやりとした目は何を見ているのか分からなかった。

その時、藤塚は心の中に父を見ていた。


父は職場では能弁だ。そして、それ以外の場所では何も喋らない。その理由が、俺にも初めて分かった。父は虚構の世界で理想的な人物を演じている時だけ、生き生きとしているんだ。そして、現実には絶望している。母にも俺にも、その他の何もかもに、父は絶望している。最初、俺は住野を演じていた。でも、その域を超えて、俺の理想とする人物を演じるようになった。明るくて親切で饒舌な男を。虚構の世界に生きる嘘の俺だ。その世界に生きる間、充実した幸せな時間が過ごせる。父が、いつから、虚構の世界を知ったのかは分からない。でも、その世界を知った時から、父は、現実の世界で語ることをやめた。現実は、あまりにもくだらないし、あまりにもつまらないからだ。

俺も、今、彼女を前にして、現実を語り始めた瞬間、そのことを知った。傷跡のことを含めて、俺の現実の人生に、語るに値するようなことがあるだろうか? ただ何となく生きているだけのどうでもいいような人生だ。


父は、俺が大怪我をした時、その経緯について何も喋らなかった。俺は父を憎んできた。残酷な男だと。だが、俺は父の心を知ってしまった。そして、俺は父を憎めなくなった。何故なら、俺は父に共感してしまったからだ。

彼は額の傷跡を右手で触った。


尾原知果が、藤塚に話しかけた。

「藤塚君。大丈夫? 気分でも悪いの?」

藤塚は答えた。

「嘘つきの父親と息子を結ぶ唯一の真実が、この傷跡なんだ。これだけは変えようもないし、消えようもない。二人が父と子であることを証明する宿命の傷跡なんだ」

尾原知果は何も言えず、ただ額の傷跡を見ていた。茫漠とした時間が過ぎた。そして、「藤塚明紀」の誠意によって、たった今、全てが終わったことを彼女は知った。


その後、藤塚明紀は、C清掃会社を辞め、どこかへ消えた。住野高次の学生証は、彼の自宅に郵送されてきた。メッセージは同封されていなかった。白い学生証が一枚入っていただけだった。彼は学生証を机の上に置いた。そして、パスケースから、新しい学生証を取り出し隣に並べた。彼は二年生になっていた。新しい学生証には、顔写真が貼られていた。藤塚が学生支援所を利用することはできなくなった。学生証に貼られた住野高次の顔写真は短い髪型をしていた。そのため、彼の額は露わになっていた。そして、露わになった彼の額には、ただ一つの傷跡もなかった。


 


ご愛読ありがとうございました。

次回公開予定日は、8月24日土曜日です。

しばらくお休みを頂き、再開いたします。

引き続きよろしくお願いします。




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宿命の傷跡 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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