傷跡4
四.
藤塚明紀の家は小さな一戸建てだった。彼は二階の自分の部屋の机について書類を読んだ。清掃会社とのアルバイトの契約書類だった。書類は、あの日、清掃業者の年配の男から渡された。藤塚をスカウトした男だ。あの日以降も、アルバイトに忙しい日が続き、ゆっくり書類を読む時間がなかった。この日、ようやく休みの日が訪れた。藤塚は、渡された書類を読んだ。特に疑問に思うところはなかった。学生支援所に登録している会社だけに、やはり、ちゃんとした会社だと思った。それから、彼は、提出書類に必要事項を記入しようとボールペンを持った。履歴書が添付されていた。彼は履歴書を書こうとボールペンの先を氏名欄に置いた。
そこで、彼は、はたと気づいた。
「住野高次」と書くべきだが、それでいいのか?
本当は、「藤塚明紀」と書かなければならない。彼は遡って考えた。最初は、傷跡が原因だった。それが、いつの間にか、住野になりすましてアルバイトの契約をするところにまでいたった。否、これまでだって同じことをしてきた。でも、学生支援所は、簡単な申込書に学生証のコピーを添付するだけで良かった。正式な履歴書を書くこともなかった。単発のバイトということも罪の意識を軽くしていたのかもしれない。しかし、今度は、一つの会社との長期間のアルバイトの契約だ。「住野高次」の名前と経歴を借りて、通用することではない。何より許されることではない。藤塚は、清掃会社のアルバイトは諦めようと思った。常識的な判断だった。だが、次の瞬間、彼はこの機会を逃したら、社会で認められる機会を永遠に失うという恐怖に襲われた。彼にしか分からない恐怖だった。彼は、その恐怖から逃れるため、住野の名前と履歴を使い履歴書を作成した。
翌日、藤塚は清掃会社を訪れた。会社はビルの一階にあった。C清掃会社という会社だった。藤塚をスカウトした男が社長だった。山辺といった。山辺は小さな会社といった。しかし、その言葉から藤塚が想像していたほど小さな会社ではなかった。山辺と応接室で面接を兼ねて話をした。藤塚は、恐る恐る履歴書を山辺に渡したが、彼は軽く目を通しただけで、自分の話を続けた。ここでも、藤塚の想像とは違うことが色々と明らかになった。山辺は、藤塚に単に清掃作業のアルバイトとしてだけでなく、将来的に、C清掃会社の中心的な社員になることを念頭に働いて欲しいと言った。そして、仕事の内容も、清掃作業にとどまらず、将来的に総合職に就くことを視野に入れて、それらの準備としての仕事もして欲しいと言った。
「準備としての仕事とは具体的には何ですか?」
藤塚は尋ねた。
「総合職を念頭に、その準備として、会社の業務を広く知って欲しい。A大学の住野君は、この会社より、もっと大きな会社で働きたいと思っているはずだ。でも、鶏口牛後の諺もある通り、小さな会社でリーダーシップを発揮して自分の夢や理想を実現する喜びもある。よく考えて欲しい」
山辺が真面目に言っているのが分かった。それだけに、安易に引き受けられないと思った。しかも、総合職なんて、他人との接触が多い仕事のはずだ。つまり、自分が最も不得手で避けたい仕事だ。藤塚は断ろうと思った。
そこに、若い女性社員がドアをノックして入ってきた。山辺に用件を伝えにきたのだった。用件を伝えると、女性社員は部屋を出ていった。
山辺は女性社員について話し始めた。
「彼女は今年の春、高校を卒業して、この会社に入社しました。実は、若い人材があまりにも少ないため、私が彼女に頼んで会社に入ってもらったのです。私の遠縁になります。小さい会社だからでしょうか。あるいは、仕事が清掃業という華やかな仕事ではないからでしょうか。業績は悪くないんです。でも、若い世代の人が入ってくれません。だから、後継者の育成ができません。深刻な問題です。そのこともあって、あの日、一生懸命に働く住野君を見て、うちの会社の中心戦力になってくれると思わず声をかけたんです」
山辺は会社の将来を憂いながら話した。
藤塚は、先ほど見た会社の光景を思い出した。今の女性社員以外には、バイトの時に山辺と一緒にいた男しか若い人間の姿はなかった。ほんの少しの間見ただけだから、見間違いもあるかもしれない。でも、全体を見て年齢層の高い会社だという印象を持ったことは間違いようがなかった。藤塚は断れなくなった。
「僕が山辺さんの期待に応えられるような人間だとは、正直なところ、思えませんが、とにかく、やれるだけやってみます」
藤塚の言葉に山辺は救われたという顔をした。
藤塚は家に帰って自分の部屋にいた。週明けの月曜日から来てくれと言われた。今日は金曜日だった。時間帯は、朝から夕方までだった。藤塚は夜にアルバイトをする。夜の闇に傷跡が隠れるからだった。そのため、日中は避けてきた。自分にとって不都合なことばかりだった。しかし、既に契約は済ませた。月曜日からアルバイトが始まる。一体、どうすればいいのか、そのことを彼は考えていた。その時、ふと思った。住野に無断で彼の名前と履歴を借りてバイトを始める。ならば、いっそのこと名前だけでなく、彼の社交的な振る舞い、そして、彼を特徴づけている思想、これらも借りてしまおう。そうすれば、会社での人間関係を円滑に進めることができる。苦しまぎれではなかった。住野は彼の幼なじみであり、唯一の友人だった。だから、住野の振る舞いも思想も、彼は誰よりもよく知っていた。
月曜日の朝、彼はC清掃会社に初めて出勤した。前日に自分の部屋で髪を切った。高校を卒業してから髪を切っていなかった。そのため、肩にかかるほど伸びていた。それをばっさり切った。前髪は、それほど大胆に切ることはできなかった。でも、随分、印象が明るくなった。
彼は、山辺を始め、社員一人一人に挨拶をした。面接の時、会った女性社員にも明るく挨拶をした。彼女は尾原知果といった。藤塚は、大怪我をして額に大きな傷を負って以来、人と話をするのが苦手になった。特に同年代の女性と話をするのが苦手になった。だから、こんな風に明るく挨拶ができたのは、自分でも驚きだった。
「住野さん。会社のユニフォームです。頑張ってください」
尾原知果も快活な藤塚の様子に好感を持った。そして、彼にユニフォームを渡した。
薄い緑色の上下の作業服に着替えた藤塚は、すぐ山辺に連れられて、ビルの清掃作業に行った。会社の車には、他に社員二人が乗っていた。藤塚は年上の二人とも、上手くコミュニケーションを取った。山辺は車を運転しながら、藤塚をスカウトした自分の目が確かだったと満足した。
一カ月、二カ月と順調に藤塚のアルバイトは進み、三カ月が経った。彼は、アルバイトの作業員の対応を任された。アルバイトの募集は、学生支援所だけでなく、アルバイト情報誌その他でも行っていた。学生支援所から応募する学生アルバイトは直接、作業現場に集合するが、これは例外的な存在だった。一般のアルバイトは普通、会社に集合する。その一般のアルバイトの氏名を確認し、その日の作業場所を伝える。それから、ユニフォームを貸すなど雑用に近い仕事だった。これまでは、事務職の佐嘉という社員が行っていた。雑用とはいえ、アルバイトは会社の大事な人材だった。疎かにできない仕事だった。尾原知果は佐嘉の手伝いをしていた。しかし、清掃業務の人手が足りないため、佐嘉は清掃業務の現場に戻った。その後、尾原知果が一人で、アルバイトの対応を行っていた。応募してくるのは、ほとんどが男だった。中には、多少ガラの悪い男がいることもある。若い女ということで、尾原知果はからかわれることがあった。彼女一人で行うには難しい面のある仕事だった。そこに、藤塚が加わった。彼は思った。年齢も経歴も違うアルバイト作業員を束ねる必要のある今こそ、住野の思想を借りて、それを最大限に活かすべきだと。担当を任された初日は、二十人のアルバイトが集まっていた。彼らに対し、藤塚は、二つのことに留意して接した。一つは誰に対しても敬意を持つこと。もう一つは親切であること。この二つだった。住野の対人コミュニケーションにおける最大の美点を彼は活かした。
結果は藤塚の狙い通りになった。
集まった二十人のアルバイトは、年齢経験に関わらず、一応に不安だった。仲間と応募するものなど滅多にいない。皆、一人で応募し、一人で知らない清掃会社にやって来た。そして、これから、知らない場所で、知らない人間の指示の下、作業をする。そんな緊張感の中にあって、藤塚が、一人一人に話しかけ、これから行く場所や行う作業について親切に説明した。アルバイトの中には帰りたいような気持ちになっていた者もいた。藤塚より若い青年だった。しかし、藤塚の笑顔と親切な態度に触れて、彼もその他の者も、皆、やる気になった。
その日の夕方だった。
日中の清掃作業が終わり、会社に帰ってきた社員が、皆、今日は、アルバイトが頑張ってくれたと言った。
社長の山辺は藤塚のところに来て笑顔で言った。
「住野君。君のお陰だよ。これからもよろしく頼む」
尾原知果が、尊敬の目で彼を見つめていた。
藤塚は会社を後にした。帰りの電車は、帰宅ラッシュの前で、まだ空いていた。彼は席について、自分を見つめていた尾原知果のことを考えていた。女の子から、あんな目で見つめられるなんて初めてだ。生き方というのは、工夫次第で変わるものなのかもしれない。彼は、いつもと違い優しい気持ちで額の傷跡に触れた。彼は、傷跡を乗り越えて、新しい人生を生きられるかもしれないと思った。
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