傷跡3
三.
百貨店のアルバイトから一週間経った。藤塚は自宅近くのバス停からバスに乗った。アルバイト代を受け取りに学生支援所に行くためだった。あの夜、傷跡のない住野と自分の人生を比較して藤塚は悲しくなった。だが、次の日の夜は、別のアルバイトに行った。気持ちの切り替えはできていたつもりだった。しかし、働いているうちに、また釈然としない思いが心に広がった。そして、その思いは消えなかった。
バイト先で手渡しされる場合を除いて、バイト代は学生支援所に受け取りに行く。バイト当日からバイト代の支給まで一週間かかる。アルバイト料を間違いなく学生に渡すためには、それくらいの日数がかかってもやむを得ないと、藤塚は理解している。ただ、学生支援所の銀行口座に企業などからアルバイト料を振り込ませた上で、それを学生に窓口まで取りに来させるのは無駄がある、と藤塚は思った。アルバイト先から、直接、学生の銀行口座にバイト代を振り込むほうが早いし、手間もかからない。藤塚が、しばらく学生支援所を利用して気づいたことを、ある日、住野にメールで伝えた。
住野から返信が来た。
「それをすると、学生支援所を通さずに、直接、アルバイト先とバイトの契約をする学生が増える可能性がある。だから、学生支援所は、バイト代の支払いまでを行うようにしている、という説がある。本当かどうか分からないけど。ただ、アルバイト先から、直接、バイトの契約を求めてくる場合はある。スカウトだよ。ルール違反だけど、そこまで、学生支援所も把握できない」
藤塚は、その時の住野の返事を思い出していた。どこまで本当か分からないが、全く違ってもいない気がした。
平日の昼間のバスは乗客が少なかった。藤塚は真ん中辺りの席に座って窓の外を眺めていた。K信用金庫の青い建物が見えた。街の人々から信頼されている信用金庫だ。この信用金庫に藤塚の父有造が勤めている。『子殺し』と陰で呼ばれている人物だ。有造は、本当に『子殺し』なのか? と、藤塚が問われれば、それは違うと、はっきりとは言えない人物だった。何故なら、あまりにも何も喋らないからだった。警察から、息子が岩から転落した経緯について訊かれた場合、答える義務がある。それにすら、まともに答えなかった。そのことから、警察に殺人の嫌疑をかけられた。そして、有造を知る人たちからも、『子殺し』と呼ばれるようになった。だが、実際に何があったのかを藤塚明紀は、母に父が話しているのを聞いて知っていた。藤塚は診療所で緊急手術を受けた後、街の病院に運ばれ、しばらく入院した。異常がないため退院した。その夜だった。藤塚は二階の自室ではなく一階の居間の隣の座敷で寝ていた。藤塚が眠っていると思い、母が父に藤塚の事故の時、一体何があったのか問い詰めていた。
父は重い口を開いて話した。まず、藤塚を川釣りに連れて行ったのは、前の週の日曜日も釣りに行っていたためだった。二週続けて釣りに行くためには、「明紀を川遊びに連れて行く」という大義名分が欲しかったのだ。いざ川に行ってみると、川の水はいつになく澄んでいて、絶好の釣り日和だった。そこから、藤塚のことを忘れ、夢中になって釣りをしているうちに藤塚が岩場に落ちた。
たったこれだけのことだった。でも、父は母に何度も問い詰められて、ようやく話した。それまで、警察に訊かれても、言わなかった。何故、答えるべき時にすら答えないのか? 誰にも分からない。実際に、信用金庫で働いている父を藤塚は見たことがある。顧客に対して能弁ですらあった。だからこそ、より理解できなかった。喋れるのに何故、喋らないのか? 藤塚は今も父が理解できなかった。藤塚の母は俊子といった。母は普通の人だった。かつてK信用金庫に勤めていた。そして、父と恋愛結婚をした。母も、父のこの不可解な側面を知ったのは結婚してからだった。母は、今、介護ヘルパーの仕事をしている。藤塚が大怪我をしてから資格を取得して介護ヘルパーの仕事を始めた。色んなことを考えた結果だと彼は思った。母は父のことについては以前から諦めている。
バスを降りた。学生支援所のすぐ近くにバスが着いた。
百貨店で働いた日のアルバイト代を学生支援所で受け取った。三時間でこの金額なら、かなり割の良いアルバイトだ。今度も募集があったら、応募しようと藤塚は思った。
学生支援所は、住野高次の通っているA大学の傍にある。バイト代を受け取って学生支援所を出た藤塚は、A大学のほうを見た。敷地は広すぎてどこまであるか分からない。住野がどの建物の中で勉強しているのかも分からない。彼は社会心理学を専攻している。
藤塚は、またバス停に向かった。バイトの申し込みも幾つか済ませてきた。この場所にはもう用はなかった。彼は申し込みを済ませたバイト先の用紙を確認しながら歩いていた。A大学を見たら、住野の学生生活が気になった。それは、自分も大学に進学すれば良かったという後悔ではなかった。もしかしたら、そういう思いも入っていたのかもしれない。でも、その時は、漠然と住野の学生生活が気になった。それは、漠然と住野を羨ましく思ったということだった。彼はアルバイト先の用紙の確認を済ませたが、そのまま視線を上げず、A大学を見ないようにして、バス停まで歩いた。そして、バスに乗った。バスに乗ってからは、ずっとうつむいていた。
この日も夜にアルバイトがあった。コーヒーショップの店内清掃だった。年中無休で深夜まで営業しているため、普段は簡単な掃除しかできない。そのため、定期的に閉店後に専門の清掃業者が入って掃除をするということだった。清掃業者は二人いた。若い男と年配の男の二人だった。アルバイトは三人だった。藤塚と二人の男子大学生がいた。店内は広かった。契約時間内に終わらせるため、アルバイトが必要だった。プロの二人は藤塚が見たこともない掃除道具を組み立てていた。アルバイトは深夜〇時から午前三時だった。作業開始前、藤塚は紺色のバンダナをジーンズのポケットから出した。そして、傷跡を隠すように巻いた。誰も彼のことに関心を持つ人間はいなかった。藤塚は安堵した。清掃業者の若いほうの男が、
「作業を始めます。アルバイトの皆さんは、フロアーの掃除をお願いします」
と言った。
清掃作業が始まった。藤塚は、一生懸命に掃除をした。それは彼の中にある釈然としない思い、住野を羨む気持ちなどを振り払うためだった。三時間はあっという間に過ぎた。バイトの三人が、フロアーを掃除している間に清掃業者の二人は、厨房を掃除した。その後、三人が掃除をしたフロアーの上を専用の機械で磨いた。三時ちょうどだった。バイトの三人は持参した紙に印鑑を押してもらった。皆、コーヒーショップを出ようとした。
すると、清掃業者の年配の男が、
「住野さん。すみませんが、ちょっと残ってくれますか?」
と言った。
学生アルバイト二人は帰った。藤塚だけその場に残った。
藤塚は何だろうと思った。もしかして、住野の学生証を借りていることがバレたのかと思った。だが、そうではなかった。
「うちの清掃会社は、小さな会社です。アルバイトの人たちも貴重な人材です。住野さん。今、あなたの働き振りを見ていて、うちと直接アルバイトの契約をして欲しいと思いました。どうでしょうか?」
住野のメールにあったスカウトだった。
藤塚は働き振りを褒められた。率直に嬉しかった。彼の毎日で、両親も含めて誰かから褒められることはない。
「まず話を聞かせてください」
藤塚はそう答えた。でも、本心は、もう契約するつもりだった。自分を認めてくれた会社に入りたい。それは、自分が社会において認められたことを意味するからだ。彼はそう考えた。そして、話を聞き終えると、すぐに契約をすると答えた。
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