傷跡2
二.
業務用エレベーターで六階に上がった。エレベーターには、藤塚を含めてアルバイトが五人いた。全員男だった。百貨店の店員が一人乗っていた。外で待つ彼らを呼びに来た若い男だった。藤塚はエレベーターの一番奥に立っていた。そして、前にいる四人を観察した。四人ともそれぞれアルバイトに応募したらしく、友だちではなかった。これなら、アルバイト同士で会話が弾むことはないと彼は安堵した。
六階に到着した。エレベーターを降りると催事場が見えた。それほど大きくない百貨店だった。でも、商品の置かれていないフロアーは思ったより広かった。照明は半分落とされていた。バイトの五人に加え、店員も一緒に撤収作業をした。婦人服セールの商品の売れ残りは、百貨店と出品していた衣料品の業者が、既にそれぞれ片づけていた。藤塚たちの作業は、商品を掛けていたスチール製のハンガーラックと陳列用の台を片づけることだった。ハンガーラックも陳列台も数が多かった。店員が、「これらは全て、地下の倉庫から持ってきました。今から、元通りになるよう地下の倉庫に、みんなに運んでもらいます」と言った。六階のハンガーラックと陳列台を業務用エレベーターに載せて地下の倉庫に戻す。この作業の繰り返しだった。単純作業だが、かなりの重労働だった。アルバイトの時間は、八時から十一時の三時間だった。
作業が始まった時、藤塚は、ミリタリーコートを脱いで、ジーンズのポケットから紺色のバンダナを取り出した。そして、頭に巻いた。誰も何も言わなかった。気づいていないか、気づいていても、他者に関わりを持ちたくない学生アルバイトばかりだった。藤塚は、再び、安堵した。彼には、額の真ん中に、約10センチの長さの傷跡がある。十年前のことだった。父に連れられて渓流釣りに行った。父は川の上流で釣りをした。川の流れが急な上に、大きな岩が不規則に並ぶ岩場を歩かなければ辿り着けない釣り場だった。大人でも危険な場所だった。そこに小学校三年生の藤塚を連れて行ったのだ。彼は大きな岩から足を滑らせて転落した。そして、真下にあった岩に頭をぶつけた。額の皮膚が裂けた。彼は、医療設備の整っていない山の中の診療所に担ぎ込まれた。レントゲンを撮ると頭蓋骨に骨折はなかった。だが、出血が多かったため緊急手術が行われた。その日の当番の医者が、額の傷を慌てて縫い合わせた。手術は無事に終わった。ただ、大きな傷跡が残った。学校で、「おでこにもう一つ口がある」と言われた。その時、反論できなかった。彼もその通りだと思ったからだ。
高校を卒業して、すぐアルバイトをするようになった。最初は近くのレストランに勤めた。皿洗いの仕事だった。彼は、この時、初めて、バンダナを巻いた。地味で目立たない色を考えて紺色にした。黒色は、何か曰くありげな感じがすると思いやめた。バンダナを巻いた藤塚を見て、バイト先の人たちは、彼のファッションだとは捉えなかった。地味な色のバンダナだからではなく、皿洗いの仕事にファッション性を意識する人間はいないからだった。汗止めかと思った。皿洗いの作業には熱い湯を使うことがある。そのため、洗い場は蒸し風呂のようになる時がある。だから、汗止めなら、おかしくはない。でも、何か不自然な気がした。そこで、額にある何かを隠しているのではないかと考えた。何かとは傷跡や火傷の跡のような他人に見られたくないもの。そして、すぐに彼が額の傷跡を隠すためにバンダナを巻いていることが明らかになった。だからといって、そのことでバイト先の人たちが急に彼を冷遇したようなことはなかった。あくまでも、彼の隠したかった事実を知ったというだけだった。
ただ、彼はアルバイトを始める時、こんな風に考えていた。社会に出たら、これまでの自分と訣別する。それは、傷跡に振り回されてきた学生時代までの自分と訣別することだった。『傷跡と別れて新しい自分として生きるんだ』。その決意を持って彼は生まれて初めて、アルバイトをした。そして、社会への第一歩を踏み出した。その踏み出した最初の一歩目に、これまで彼を振り回してきた傷跡がいきなり立ちふさがった。彼はすぐに皿洗いのアルバイトを辞めた。次のアルバイトで傷跡との訣別をしようとした。だが、結果は同じだった。それ以降、わずかの期間にアルバイトを転々とした。そして、遂に、心配した住野から、学生支援所でアルバイトを探せと言われた。藤塚がアルバイトを転々とする原因を、住野は人間関係上の問題と考えていた。藤塚は傷跡のことは打ち明けず、彼の助けを借りた。
あの日から、三カ月、単発のアルバイトを続けている。今日の百貨店の撤収作業と同じような重労働が多い。藤塚は単発のアルバイトを続けていて、彼と同じように他人と関わりを持ちたくない人間の応募が多いと思った。但し、これは藤塚の主観であって、実際には、住野のような気さくな人間も、単発のアルバイトをしている。とはいえ、この日の撤収作業のアルバイトは、藤塚も含めて五人全員、他人とコミュニケーションを拒絶している人間だった。少なくとも、アルバイトを通じて、友だちを作りたいとは思っていないことが分かった。それは、藤塚以外の四人の大学生も、彼と同じように「コミュニケーション拒絶」の無言の意志を全身から発していたからだった。バンダナどころか、俺の顔すら誰も見ようとしない。藤塚は、全員、俺と同じだと思った。そして、彼らに親しみを感じた。
「非コミュニケーション型人間同士に生じる逆説的シンパシー」
藤塚は、内心、そう呟きながら、ハンガーラックをエレベーターに向かって運んだ。
そして、ちょうど三時間でアルバイトが終わった。
アルバイトの五人が、持参した紙に店員から印鑑を押してもらった。後日、この紙を持って、学生支援所にアルバイト代を受け取りに行くのだった。その場で、アルバイト代を手渡しで受け取る場合もあったが、この日は違った。
業務用エレベーターを無言で降りて、五人が、百貨店を出ると、外には静かな闇夜が広がっていた。さすがに「お疲れ様でした」というひと言だけは、誰もが自然に発して別れた。「コミュニケーション拒絶」の状態が解けて緊張が緩んだのだった。
藤塚は、地下鉄の駅までの夜道を歩いていた。繁華街が少し離れたところにあった。十一時を過ぎても、まだ繁華街には灯りが見えた。彼は、汗に濡れたバンダナをそっと外した。バンダナは汗を吸って重たくなっていた。ポケットに入れると、服が汗で濡れるので、そのまま手に持っていた。彼は、空いている右手で額の傷跡に触れた。彼の傷跡は、ナイフで切られた場合のように“綺麗”な傷跡ではなかった。岩にぶつけて裂けた傷跡は、小さく隆起していた。彼は歩きながら、隆起した傷跡を触っていた。いつ頃からか、彼はこうするのが習慣になっていた。
彼は、小学三年生の時、額に大怪我をして傷跡が残った。以来、十年ずっと傷跡のことを考えている。いかに傷跡を隠すか。そのために髪型をどうするか。彼は怪我をしてからは、理髪店に行くのをやめ、母に髪を切ってもらっていた。更に、中学に入ってからは、自分で切るようになった。校則に多少違反しても長めの髪型にした。中学高校とも校則にうるさい学校だった。でも、生活指導主任でさえ、彼の髪型については触れるのをためらった。かなりグロテスクな傷跡を露出させてでも、規則通り前髪を短くしろとは言えなかった。汗をかいて髪が額にべったりとつかないように、必ず、ハンカチかフェイスタオルを持って外出する。その他、寝ている時以外、常に傷跡のことを考えている。
彼の生活のほとんど全てが、いかに傷跡を隠すかに費やされている。そのことに、彼は苦痛を感じることはなかった。そんな時点はとうに超えてしまった。それは、彼が、傷跡を触るのが習慣になったのと同じように……。
藤塚は、細い夜道を抜けた。広い通りに地下鉄の駅の入り口が見えた。彼は、住野高次のことを考えた。今、学生証を借りている住野は、額の傷跡を隠すために、彼の人生の時間を一秒も費やすことは無い。彼には傷跡が無いのだから。そのことを思うと、藤塚は、悲しくなった。そして、日頃、考えないようにしていることが思い浮かんだ。
『俺だって、額の傷跡が無ければ、住野と同じように普通に生きられたんだ』
そう思うと、ここしばらく、アルバイトが上手くいっていることも、今日、店員から、働きぶりを褒められたことも全てが、ばかばかしくなった。
藤塚は、目をつぶってじっとしていた。しばらくして、悲しみが消えた。彼は地下鉄の入り口に向かって走り出した。もう十二時近くになっていた。通りを走る車はなかった。そして、歩道を歩く人の姿もなかった。広い通りはとても静かだった。彼の靴音だけが響いた。少し湿り気を帯びた夜の空気の中を彼は思い切り走った。彼はヤケになっていた。でも、前髪が風に吹かれるのを気にして、彼は右手を額に当てていた。ヤケになった瞬間でさえ、彼は傷跡のことを忘れられなかった。彼は地下鉄の入り口から階段を駆け降りた。その音が広い通りにも聞こえ、すぐに消えた。その後、通りは何事もなかったかのように、またとても静かになった。
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