宿命の傷跡

三上芳紀(みかみよしき)

傷跡

一.

藤塚明紀は、日雇いのアルバイトに来ていた。場所は百貨店だった。仕事の内容は、婦人服のセール会場の撤収作業だった。アルバイトの開始時間は、八時に店が閉店してからだった。建物の裏にある業務車用の駐車場で閉店時間が訪れるのを待っていた。アルバイトは学生支援所で昼間に見つけた。街の中心にある学生支援所は、大学生にアルバイトを紹介する機関である。大学生ならば、どこの大学でも構わない。大学生の生活を広く支援するための機関である。小さな建物の中には、募集中のアルバイトの詳細を書いた紙が四方の壁に所狭しと貼られている。応募したいアルバイトの書かれた紙を壁からはがして、事務員のところに持っていく。他に応募者がいなければ、その場で、すぐに採用が決定する。藤塚は、昼間、そうやって、このアルバイトを見つけた。そして、今、百貨店の裏で待機している。ところで、彼は、大学生ではない。二十歳の彼は、アルバイトをしながら何となく毎日を過ごしている青年だった。だから、本当は、学生支援所を利用できない。彼には、住野という幼なじみがいた。小学校の時から仲が良い。住野は気のいい男で誰とでも仲良くなれる。実際、友だちは多い。だが、他人と関わりを持ちたくない藤塚にとっては唯一の友だちだった。住野は、ただ気がいいだけの人物ではなかった。高校を卒業してから、アルバイト先を見つけても、すぐに辞めてしまう藤塚のために、ある提案をした。

「長期間、勤めるアルバイトだと人間関係が嫌になって、藤塚は辞めてしまうんだ。だったら、一日とか二日の単発のバイトにすればいい」

住野はそう言った。

「でも、単発のバイトって、どうやって見つけるのか知らないんだ」

そう言う藤塚に対して、住野は、こう提案した。

「俺の学生証を使って、学生支援所でアルバイトを見つければいい。あそこは、単発のバイトの紹介が多い。バイト先でも、俺ということにして働くんだ」

藤塚は住野の提案に驚いた。

「それって、マズイよ。バレた時、俺だけじゃなく、住野も怒られるよ。いや、俺は怒られるだけかもしれないけど、住野は大学から処罰される。停学とか……」

「大丈夫だよ。バレても、そんなことにはならないって。それより、お前、バイトでつまずいて、落ち込んでるだろ。そのほうが良くない。心配せずに使えよ」

そう言って、住野は藤塚に自分の学生証を渡した。今年の七月のことだった。住野は大学に入学して、まだそれほど経っていない頃だった。藤塚は住野に感謝するとともに、彼の意外な一面を知った気がした。

その時から、学生支援所を利用するようになった。「住野高次」という彼の学生証を使って、アルバイト先を紹介されるようになった。学生証には顔写真が貼られていない。そのこともあって、意外なほど、簡単に学生支援所は利用できた。最初は、後ろめたさを感じたが、次第に気にならなくなった。そして、三カ月が過ぎ、十月の今、藤塚は百貨店の裏にいた。


十月は昼間は秋らしい爽やかな陽気だが、夜になると冷えてくる。藤塚は黒のミリタリーコートの下にトレーナーを着ていた。下はジーンズだ。コート以外は、作業をして汚れても構わない格好で来た。それに彼は、アルバイトをする時、いつも、頭にバンダナを巻いている。彼のセンスから考えると不本意だった。しかし、彼は、作業中、どうしても、バンダナをしなければならなかった。長めに伸ばした髪が乱れないように。これは、一義的な目的だ。本当の目的は、額を横断するようにある大きな傷跡を隠すために、バンダナが必要だった。髪が乱れると傷跡が見える。そうならないために、バンダナをしていた。スポーツタオルでは、汗で落ちてくることを彼は経験から知っていた。周囲の人間は怪訝な目で見る。しかし、傷跡を隠すためにはやむを得ない。彼が、人づきあいが苦手になったのも、アルバイトが長続きしないのも、おそらく、大学に進学しなかったのも、この額の大きな傷跡のせいだった。


小学校三年生の夏休みだった。父が、突然、川に釣りに行こうと言った。父が釣りが好きなのは知っていた。だが、子どもは足手まといになるからと、一度も、彼を釣りには連れて行かなかった。それが、突然、釣りに行こうと言われ、藤塚は戸惑った。普段、何も話さない父が釣りに行こうと言ってくれたことは、内心、嬉しかった。藤塚は釣りに行くことにした。そこからのことが、幼い藤塚の記憶にはない。川釣りで、岩場に落ちて、前額部を裂けるように切ったのか? 額の縫合手術をした医師はそう推察した。だが、父もはっきり覚えていないという。子どもの藤塚が覚えていないのは理解できる。しかし、父親が、子どもの事故を覚えていないとはどういうことだ? その場にいた医師、警察官の父を見る目が変わった。

父は取り調べを受けた。だが、何も分からなかった。


父への大きな疑惑が生まれた。それは、『子殺し』であった。

父はあの川釣りの日から、『子殺し』の男と疑われるようになった。正確には、『子殺し未遂』だが、父は『子殺し』と陰で呼ばれた。

藤塚明紀は、額に大きな傷を負った。それは消せない傷跡になり、『子殺し』として蔑まれるようになった。父よりもっと誤謬があった。父の疑いが事実なら、彼は殺されそうになった被害者だ。にもかかわらず、彼も『子殺し』と呼ばれた。小学校、中学校、高校といじめられた。「額にもう一つ口がある」と言われた。

藤塚は怒りを感じるより、厭世的になった。


小学校三年生まで抱いていた沢山の夢が全て消えて無くなった。今は、惰性で生きている気がした。


いつの間にか、業務用駐車場は、真っ暗になっていた。百貨店の店員が、アルバイトたちを呼びに来た。藤塚が、スマートフォンを見るとぴったり八時だった。藤塚は、ずっと冷たいアスファルトの駐車場に座っていた。彼は立ち上がって、従業員入り口から百貨店に入った。



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