愛着

@orerentaro

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 朝日の眩しさで目を覚ました。少しゆっくりしすぎたなと考えながら、私は出発の準備に取り掛かる。どうしても狩りを続けていると動植物の数は減るし、警戒心は増す。この場所での生活はもう厳しかった。


 私は昨日用意しておいた水を一口飲んで出発した。溜まっている動物の骨が、ここに長くいたことを証明している。


 拠点としていた廃墟は私が入った時とまったく同じ様子をしていた。きっと何年か後に来ても同じ姿を見せてくれるに違いない。足元に注意しながら外に出た私はどこに向かおうか考える。私がどちらから来たのかもすっかり忘れてしまった。しかし、こういう場合は適当がいいと知っている。私は比較的歩きやすそうな方向に向かった。


 しばらく道に沿って歩いていると、倒壊した建物が私の道を遮った。私は仕方なく行き先を変える。


両親の話だと文明が破綻してから三十年になるらしい。それを聞かされてから何年たったかはもう分からない。人間のかつての営みは消えつつあった。無論、私はかつての営みなんてこれっぽっちも知らない。


しばらく歩くと、見知った建物を見つけた。カタカナはぎりぎり私でも読める。そこにはコンビニエンスストアと書かれている。私はその建物の外見を慎重に眺める。倒壊の心配はあまりなさそうだということを確認してから中に入った。中には棚がある。棚では運が良ければ缶に食べ物が詰まったものが見つかることがある。今回は外れだった。


私は落胆して歩き出す。途中でお腹が空いたから、干していた肉を食べた。焼いた方がおいしいと思った。


人間はかつてたくさんいたらしい。そこらじゅうを埋め尽くしていたらしい。両親にそう聞いた。多分その通りなのだろう。行く先々どこでも人間がつくったとされる建造物があって、人間だと思われる白骨があった。頭の白骨は好きだ。強度に差はあるものの、器にしたり、椅子にしたり出来る。


バリバリと白骨を踏みつけながら歩く。次の拠点はなかなか見つからない。


日が沈みかけたころ、私はまた様子の違う場所にたどり着いた。コンビニエンスストアのような背の低い建物が並ぶ不思議な場所だ。


「お嬢さん。お嬢さん」


 物陰から声を掛けられた、ということを理解するまでに数秒を要した。へんてこな獣の鳴き声だと思ったからだ。声の先には男の人がいた。顔が潰れたかのようにしわしわで、手足の動きもとろい。確か老人という種類の人間がいたはずだ。きっとそれに違いない。


「お嬢さん。旅の人かい?」


「うん」


 不思議な質問をする人だと思った。旅とは生きているという意味だったはず。死んだ人間は歩かない。私は生きている。


「そうかい。この村を聞きつけて来たのかい?」


「いや」


 私は腰のナイフに手をかけて警戒する。誰かの縄張りに入ってしまったみたいだ。


「そう警戒しないで、私たちは危害を加える気はないから」


 その男はゆっくりと両手を上げて、害を加える気がないことをアピールした。私はその程度で気を緩めるほど楽な獲物ではない。


「なんの、用?」


「人が来たら歓迎するのが習わしだ。一緒に食事でもどうかな?」


 難しい言葉を使わないでほしい。ご飯をくれるという大まかな意味は捉えられた。


「気難しい人だ。今、持ってきてもらおう。それじゃあ」


 その男はへんてこな機械を取り出し、それに向かって二三言話した。しばらくすると別の男がトレーを運んでくる。どうやら思ったよりも大きな群れなのだろう。私は警戒レベルを引き上げる。果たしてここから抜け出すことが出来るのか。それしか考えていなかった。


「さあ、お嬢さん。お食べ。なに、毒はないよ」


 とてもいい香りがしていた。湯気を上げる食べ物がトレーの上にはあった。白米に魚にスープ。両親が私の誕生日に作ってくれたご飯を思い出す。白米なんて何年ぶりに見たのだろうか。私はもう自分の誕生日すらも覚えていなかった。


 知らない男がちゃぶ台を持ってきて、私の目の前に置いた。先ほどから私に話しかけてきている男は地面に腰かけた。


「さあ、お座り」


 私は正直に言うと我慢が出来なくなっていた。とてもお腹が空いていた。実は昨日は何も食べていない。狩りに失敗したのだった。今日は干し肉だけ。お腹が空いていないはずがない。


 私はちゃぶ台の上のご飯を口に放り込んだ。懐かしい味がした。両親を思い出した。


「ほら、そんなに急ぐと、危ないよ」


 男はろうそくに火をつけた。


「今日はここで休んでいくといい。それどころか、もっとゆっくりしてもいい。ご飯ならたくさんある」


「本当か」


「ああ、もちろん」


 お腹いっぱい食べられるというのは素晴らしいことだ。例えば、狩りで大物を仕留めても、ある程度の肉を干して保存しないといけない。次にいつ狩りを失敗してもおかしくないからだ。お腹いっぱいになれる瞬間は建物の中で持ち運べないほどの缶詰をみつけて、なおかつ、そこから早く去らなければならない場合だけだ。私の人生では一回しかない。


「お嬢さん、名はなんていうのかい?」


「忘れた」


「……そうかい。それは、悲しいね」


 男は顔を俯かせた。私は何か馬鹿にされているような気分になった。名なんて何の意味もないのに。


「私は、オクダ。よろしくね」


 握手をする。これが初対面の人がする挨拶であることを私は知っていた。私の両親も初対面の人と話すときはこれを必ずやっていた。


 料理を食べ終えた私は眠たくなった。うつらうつらするとオクダが声を掛けてくる。


「君の寝床を用意している。さあ、行こう。水浴びが出来るように準備もしてある」


 私の警戒心はもうゼロだった。こんな極楽があるとは思ってもいなかった。この男はきっと優しくて偉い人間なのだろう。


 連れていかれた場所は建物の中にあった。ドアを開けると綺麗なベッドがあった。そしてバケツいっぱいのきれいな水。


「明日になったら、ここを案内しよう。今日は、おやすみ。ゆっくり休んで」


「ありがとう」


 私は最後の最後に言うべき言葉を思い出した。両親がいなくなってから、一回も使っていないその言葉を。



 ぐっすり眠りすぎて、少し体がだるいほどだった。ベッドで寝るのは久しぶりだった。私は水を浴びてから、外に出た。


「ちょうど起こしに行こうと思っていたんだよ。おはよう」


「おはよう」


 オクダにドアの先で出会った。何だか分からないけど不思議な気持ちになった。誰かがいて言葉を話している。


「これから、朝ご飯を食べて、この村を案内しよう。ついておいで」


 ご飯は朝食べるものなのか。しかし、食べ物は食べれる時に、食べれるだけ食べたほうがいいに決まっている。


 二つ先の建物に移動するとそこには椅子と机が大量に並べられていた。そして人がたくさん座っている。


「大丈夫、君に危害は加えないから、こっちにおいで」


 私はオクダに手を引かれてゆっくり人の間を歩く。オクダの力は弱弱しく抵抗しようと思ったらいつでも出来た。


「初めまして、こんにちは!」


「おはよう!」


 通り過ぎる人間に笑顔で声を掛けられる。怖い。すごく怖い。私はいつでも抜けるようにナイフに手をかけ続けている。


「さあ、座って」


 私は言われた席に腰かけた。しばらくするとお米が運ばれてくる。上には紫色の謎の実と黄色の野菜の切れ端が乗っていた。


「お食べ」


 私は不思議に思った。これだけ大勢の人間を食べさせるだけの食べ物があるなら、何で独り占めしないのか。


 私は紫色の実を口に運ぶ。


「うっ! 毒だ」


 私は急いで紫の実を吐き出し、ナイフを構える。これだけ大勢の敵に囲まれている。逃げ出すのはほぼ不可能だ。私は騙されたのだと思った。


「落ち着いて、落ち着いて! これは、梅干しと言ってすっぱい食べ物なんだよ」


 そういうとオクダは自分のご飯の上の紫の実を食べた。私はオクダにナイフを向けたまま、私の吐き出した紫の実を見る。オクダは私の意図を理解したのか、私の吐き出した紫の実を食べた。どうやら本当に梅干しという食べ物なのだろう。私はナイフを収める。


「……すまない」


「いや、初めてなら仕方がない」


 私は意を決して、黄色の野菜も食べてみる。私の予想とは異なり、少し甘くておいしかった。


「それは、たくあんという物だよ」


「これはおいしい」


 あっという間に食べ終わった。朝からこんなに食べれるなんて極楽だ。梅干しは不味かったけれど。


「これから、私たちの村の案内をしよう」


 そう言うとオクダは先を歩き始めた。私はついていく。オクダは老人だからか歩くのが遅くて少しいらいらした。


「君は、どうして人類の文明が終わったか、知ってるかい?」


「そもそも、終わる前を知らないぞ」


「そうか。君は若いからね。十五歳くらいかい?」


「年なんてもう分からない」


「それも、そうか」


 オクダは空を見上げ何かを考える素振りをした。声を掛けづらい独特の雰囲気があった。オクダが何を考えているのか無性に気になった。


「大体四十年くらい前、感染症が流行したんだよ」


「感染症ってなんだ?」


「治すことが出来なくて、すぐ人が死んじゃう病気だよ。世界中の人がかかったんだ」


 病気はかかったら大体死ぬものだ。オクダの言うことはいまいち分からなかった。


「最初はマスクをしたり、人々の移動を禁止したりして対策していたんだけど、だんだん感染を止めれなくなってね、お医者さんも感染症に罹って、だんだんと行政が麻痺しだしたんだ」


 私はすでにオクダの話に興味を無くしていた。オクダの話には役に立つことも、知っていることも出てこない。意味も分からない。だが、他に考えることはなかったから、一応耳を傾けた。


「国の代表も死んで、死体の処理も間に合わなくなって、街には死体が溢れ出したんだ。テレビはだんだん放送時間が短くなって、夜の街は真っ暗になった。そして、私たちの文明は崩壊したんだよ」


「それでも、私たちは生きてるぞ」


「どんな病気にでも一パーセントの人間は免疫を持っているものなんだよ。だから生き残った」


「どういう意味だ?」


「病気にかからない人間が少しだけいたんだよ」


 同じところで狩りを続けると動物の数は少なくなる。でも一部の動物は警戒心が強くなって、私の罠にかからなくなる。要はそういうことなのだろう。


「ここが、私たちの一番大事な施設、畑だよ」


 オクダの指さす先、土の上に等間隔の草が並んでいる。いくつかは私も知っている草だ。食える草。


「これのどこが大事なんだ?」


 食べれる草は大事だ。だが、食べなければ意味がない。


「植えてるんだよ。植えたら定期的に野菜が食べられる」


「育てられるのか?」


「もちろん」


「それは、すごいな」


 定期的に食べ物が手に入るのなら、あれだけ多くの人間が暮らしていけるのも納得できる。


「そして、隣の建物が、牛を飼っているところ」


「生き物も作ることが出来るのか?」


「出来るよ」


「そうか」


 私にはできないすごいことをしている、ということは分かった。でもここに住む人たちは馬鹿だ。食べ物を自分で作るなんて長く続くはずがない。この生活が長引いて、ナイフを持つ手が鈍ったらどうするのか。何日かしたらこの村を出よう。私はそう心に決めた。


 そのあとも、しばらく案内を続けてもらった。太陽が真上に来た時に、昼ご飯を食べるために朝行ったところに向かった。食堂というらしい。


「お食べ」


「オクダは食べないのか」


 オクダの座る席には何の料理も並ばなかった。私の席にはスープと、お米が並んでいる。


「男は、昼ご飯を食べないものなんだよ」


「そうなのか」


「男の体は女の子と違って頑丈だから、あまり食べなくてもいいんだよ」


 そういうものなのか。なんであれ、食べれることはいいことだ。昨日はあんなにもおいしかった白米にもう飽きてしまっていた。贅沢な悩みだ。


 食事の後は、また村の案内をされた。


「ここは保育所だよ」


「子供が飼われてるところか」


 何故かオクダは微妙な表情をした。


「少し入ってみようか」


 中に入ると子供が大勢押し寄せてくる。私はナイフを抜いた。大きい生き物は動きも大雑把だ。小さい生き物のほうが危険だ。


「……はぁ。出ようか」


 オクダはそんな私の様子を見て、すぐに私を建物から出した。私が出た途端、子供の鳴き声が聞こえてくる。やっぱりこんな暮らしじゃ、軟弱になってしまうんだ。


「ここは女の子の家だよ」


 そういうとオクダはドアの前の丸い物体を振った。ちりんちりんという可愛い音の後に、女の人が中から出てきた。その女の子は異様なほどお腹がふくらんでいた。きっと何かの病気に違いない。


「はーい。あっ、新しく来た子だよね。よろしく」


 私は差し出された手を無視した。きっと触れるのはよくない。私にも移るかもしれない。女の人は一人で何かを納得したのかすぐ手を引っ込めた。


「オクダさんも何の用ですか?」


「この子にこの村を紹介して回っているところでね」


「なるほど、そうでしたか」


 女の人はお腹を気にしながらゆっくりかがんで、私に視線を合わせる。


「これからよろしくね。私のことはキョウコお姉さんって呼んでね。君の名前は?」


 姉は家族に使う言葉のはずだ。なぜここでそんな言葉をつかうのかよく分からなかった。


「私の名前はもう忘れた」


「そっか、じゃあ名前を考えるところからだね」


 キョウコは何故か楽しそうだった。私には分からない。


「それじゃあ、キョウコさん。私たちはまだ行かないといけないところがあるから」


「ええ、分かりました。また」


 私たちはまた歩き出す。


「お姉さんというのは、家族に使う言葉じゃないのか?」


「年上の仲のいい人にも言うことがあるんだよ」


「じゃあ、オクダもお姉さんだな」


「あはは、それはちょっと違うかな」


「じゃあ、何て言うんだ?」


「んー、お友達とかかもしれないね」


「お友達。友達か、私も知ってるぞ。初めてできた。そうか、オクダは友達か」


 嬉しいと素直に思った。初めての友達だ。昔両親に聞かされたことがある。かけがえのない友達がいて、その人のおかげで生きていると。



 この村に来て数日が経った。知り合いがたくさんできた。オクダにキョウコ、カトウにヤマダ、ジュンコ、タケシ、ケンタ、リン。


いろいろなことを教えてもらった。昔の話、食べ物の話、動物の話、生活の話。妊娠の話も聞いた。いろいろな男と交わって、子供をたくさん産むのが女の仕事であることも聞いた。


でも、そろそろここを離れる時だ。私は荷物をまとめて、オクダの家に挨拶に行った。


「とりあえず、おあがり」


私はオクダについていく。オクダはこの村でも偉いのだろう。少し大きな家に住んでいた。私は差し出された椅子に座った。すぐにお水が置かれる。


「何の用かな?」


「私、この村を出ていく」


 途端に、オクダの目は険しくなる。私は初めてオクダに恐怖を覚えた。なんでこんなにも険しい目をするのか。


「どうしてそう考えるのかな?」


「ここにいたら、狩りの腕が落ちる。そしたら、生きていけない」


「ここにいたら、もう狩りをする必要がないよ」


「こんな生活、長くは続かない」


 私の言葉にオクダは沈黙する。一瞬だけオクダは暗い顔をした。私はひどいことを言ったのかもしれない。


「……千人。千人必要なんだよ。遺伝子が」


「どういうことだ?」


「腕がない子供が殺されたのを君も見ただろう」


 昨日のことだった。私は出産の現場に立ち会った。母親の咆哮の中、生まれてきた子供は片腕がなかった。そのことが分かるとみんな落胆した表情になって、子供を水に浸けて、殺していた。


「似通った遺伝子じゃ、奇形の子供が生まれやすい。この村を維持して、文明を復興するためには、千人の違う遺伝子が必要なんだよ」


 先日、ざっと百人くらいが暮らしていると聞かされた。千人なんて数は多すぎて想像もできない。


「だから、君にはこの村に残って、遺伝子を残してもらわないといけないんだ」


「子供を産むのはとてもいいことだと、キョウコお姉さんが言っていた。だから、言っていることは分かる。でも、私は死にたくない」


「この村は安全だよ。もう十年も続いているんだから。それに、母体は最優先されるから、君の体は何が何でも守られるんだよ。だから、この村に残ってくれないかい?」


 他の生き物を飼いならせるはずがない。自然をコントロールすることが出来るはずがない。私の人生で嫌というほど思い知らされてきた。食べ物を育てるなんてうまくいくはずがない。安全なんて嘘だ。この村で飼われると、だんだん一人で生きていけなくなる。


「嫌だ、それでも出ていく」


 私は死にたくない。


「大勢の男と性交をすることに倫理的抵抗感をおぼえているのかい? だったら、君が気に入った一人の男以外は一切手を出させないようにすることも出来る」


 大勢の男と性交をするのはいいことじゃなかったのか。子供をたくさん産むのはいいことじゃなかったのか。倫理的抵抗感ってなんだ。


「地球の未来の為なんだ。もし私たちが協力しあえなければ、人類は本当に滅亡してしまうかもしれないんだ。私たちがどうにかしないといけないんだ。協力しないといけないんだ」


 私はナイフを抜いていた。慣れ親しんだ感触だ。私はこの感覚以外は信じない。狩りだけが生きる道だ。これまでもそうであったように。


「私には、人類の意味が分からない」


 私が旅をすること。歩くこと。獲物を殺すこと。食べること。それだけが私で、それがすべてだ。


「そうか……」


 顔を伏せたオクダは腰にぶら下げた機械を手に取った。私はあの機械が何なのか聞かされていた。誰かに連絡を取る気だ。


 私はオクダが次の言葉を話すよりも早く、オクダの喉を裂いた。オクダは驚いた表情で私を見つめる。間抜けな表情だと思った。


「ほら、こんな生活じゃ生きていけない」


 生まれたての小鹿だって、今の私の攻撃を避ける。


「うっ……かはっ」


 コシュ、コシュと空気の抜ける音が聞こえる。


血の付いた自分のナイフを眺めた。何だか分からないけど、心臓のあたりが苦しくなった。


私はもう一度オクダにナイフを突き立ててしっかりと殺す。生きたままで放置するのが一番危険だ。私は一瞬、オクダを食べれるかもしれないと考えたが、何故かそう考えた自分が嫌になった。


「もう少しだけ、友達でいたかったのに」


 自分のどこからそんな言葉が出てきたのか分からなかった。



 私は全速力で逃げた。ひたすら走った。オクダが案内してくれた道を抜けて、知らない場所を走った。ただひたすら走った。


 気が付くと、浜辺にいた。視界いっぱいに海が広がっていた。砂浜もそれに対抗するかのように地平線まで続いている。


 私は疲れて、その場に腰かけた。太陽はもう沈みかけている。一日中走っていたのだ。


「……ああ」


 私の口から音が漏れた。何故だか分からないけど、胸が苦しい。水に溺れかけた時だって、こんなに苦しくはなかったのに。


 私は何故か両親のことを考え出した。私にいっつも食べ物をくれたこと。食べれる葉っぱを教えてくれたこと。昔の歌を教えてくれたこと。


 ある日狩りに出かけたこと。地面がたくさん揺れたこと。帰ってこなかったこと。


 全部を思い出して、また胸が苦しくなった。でもその苦しさはどこか心地よくもあった。


 私はオクダにこれが何なのか聞きたいと思った。ナイフには渇いた血がへばりついていた。


 無性に目が潤んで、水が滴り落ちた。貴重な水分がもったいないと思ったが、思うようには止まってくれなかった。


 ナイフを洗わないといけないと思った。でも海の水じゃ駄目だということを知っていた。


 自分が空腹であることに気が付いた。もちろん食べ物はなかった。でもなぜか少しだけ胸がすっとした。


 眠る準備をした。海辺はあまり危険がない。いいところにたどり着いた。


 私は明日に想いを馳せた。明後日のことも考えた。明々後日のことも。


 ただ苦しかった。苦しかった。苦しかった。


 誰かにこのことを話したいと、初めてそう思った。

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