かあちゃん、もう、金、ないいんや。一緒に生きたいなぁ。

龍玄

かあちゃん、もう、金、ないいんや。一緒に生きたいなぁ。

 「かあちゃん、もう、金、ないんや」

 「生きたいなぁ、二人で生きたいなぁ。お前と一緒に」


 京都府で認知症の母親(86歳)を息子・段下保晴(54歳)が殺害し、自らも母の後を追って自害を試みたが通行人発見され、一命を取り留めた事件が起きた。

 保晴は高級呉服店の裕福な家庭で育った。職人気質で厳しかった父親は常々に保晴に、貧しくても人から後ろ指を指されることはしてはいけない。他人に迷惑をかける生き方をしてはいけないと保晴は躾けられていた。保晴は高校を卒業後、家業を継いだ。呉服の需要は減り、事業は悪化し、廃業に追い込まれた。

 保晴は、警備員や製造工をして厳しい生活ながら家族三人で細々と暮らしていたが父親が亡くなった頃から母親の様子が可笑しくなった。

 「保晴、狐だ狐がおる」

 「何もおらんやないか」

 母親の様子は日増しに可笑しくなり買い物も一人で出来なくなっていた。心配になった保晴は母親を病院に連れていった。認知症だった。母の様態を気にしながらも保晴は生活を支えていた。そんな保晴を不景気が襲い、職場を失ってしまった。経済的に困窮し、父の教えが頭を過るも背に腹は代えられず、親類に頼りながらも耐え忍んでいた。母親の認知症の悪化はさらに保晴を追い込んでいった。夜間に一時間おきにトイレに起き上ったり、夜間の徘徊が始まった。保晴は殆ど眠れなくなっていく。それでも「かぁちゃんには世話になった。今度は私が世話をする番だ」と献身的に介護を続けた。そんな寝不足の中でも朝早くから派遣の仕事に出かけ、家に戻れば、母親の介護を深夜まで行っていた。これでもまだまともだった。保晴が仕事に出かけている間に母親の徘徊が始まり、警察に保護されることが頻繁に起こるようになった。事故や事件に母親が巻き込まれると心配した保晴は、仕事を休職せざるを得なかった。

休職を機に介護保険サービスを申請したところ母親は「要介護3」と判定され、週五回、デイサービスに通うことになった。休職により給与15万円は手に入らず、母親の二ヶ月ごとの五万円の年金に頼る生活になった。介護サービスの自己負担分が支払えない。このままでは生活できないと福祉事務所に職場復帰まで生活保護を自給できないかと相談した。職員の返答は保晴を絶望の淵へと追い込む。働けるのだから頑張って欲しいと突き放たれた。

 保晴は母親に日に二食軽食を与え、自身は二日に一度の軽食を口にするだけだった。困窮は劣悪化し、母親の認知症もさらに悪化していった。

 保晴が食事の用意をしていると母親がハイハイして近づいてき、抱っこしてあげると笑うと言った赤ちゃん返りの症状が出始めた。保晴は復職を諦め失業保険を受給する。三か月間、月に十万円受け取ることができ、生活を凌いだ。三か月後には切れる。保晴は、福祉事務所に在宅介護がしたいので生活保護を受けられないかと相談するが、前回なら申請できたが、失業保険を受けてる今は申請できない、また、働けるんだから働いてくださいと断られる。

 生活保護を受けながら、偶には鰻を食べたいから受給額を増やせと元気にデモをしていた穀潰しと交代させたくなるのは自然な感情ではないか。外国人や在日特権・不正時給が蔓延る中、本当に必要とする人が受けられない現実は見過ごしてはならない。職員を見下げ、権利を主張し、恫喝・罵倒すれば申請が通り、申し訳ないがと低姿勢の者には規則ですからと平然と申請を退ける。職員も大変だろう。職員が適正に業務を遂行できる環境を早急に整える必要があるのは間違いない。

 保晴は仕方なく、デイサービスを週二回に減らし、介護と両立できる仕事を探したが自身の年齢的にも一向に見つからないでいた。

 ついに失業保険が切れた。デイサービスに支払うことも出来なくなった。親類の好意で借りている家賃も払えない。

 「もう、死ぬしかない…」と自分の不甲斐なさに涙が溢れて止まらなかった。

 それは、凍えそうな真冬だった。

 「なぁ、かぁちゃん。もう、お金、ないんや。生きられるのも今月までや」

 「そうか、あかんか」

 保晴は母に尋ねた。「生きたいか」と。すると母親は、「生きたいなぁ、二人で生きたいなぁ。お前と一緒に」と返してきた。

 保晴は、トイレに出向き、泣くしかなかった。「涙も途切れるんだ」と思った瞬間、何かがスーッと抜ける感覚に襲われた。デイサービスの支払いを済ませ、手元には7000円しかなかった。家賃三万円が払えない。保晴は入金期限の1月31日に心中を決意した。

 当日の朝、切り詰めてきたパンとジュースだけの朝食を食べた。その後、保晴は部屋を綺麗に掃除した。親類宛てに「もうこの家に住むことはできない。出て行って死ぬしかない」と遺書をテーブルに残した。

 保晴は最後の親孝行をしようと車椅子の母を連れ、京都市内観光に出かけた。呉服店を営んでいた京都三条の街を思い出を振り返るように二人で歩んだ。僅かな金額を握りしめて。母親の好きなパンとジュースを買った。それが二人の最期の食事だ。

 それから鴨川のほとりを彷徨い続けた。すると母親が「家に戻ろうか」と呟いた。

保晴は「そうだな」と言い、アパートの前まで来たが部屋にはもう戻れない。保晴はその場を離れ、気が付けば桂川の河川敷にいた。家に戻ろうと母親が呟いたのが昨日の午後七時。いまは、朝の六時だった。

 「桂川やで、もうお金ないやろ。もう生きられへんね。死ぬしかないんや。ここで終わりや」と精魂尽きた声で母親に話しかけた。母親は「そうか、あかんか。保晴、一緒やで。お前と一緒や」と返してきた。「かぁ、ちゃん、すまん」。

 曇天の凍える朝だった。啜り泣く息子の姿を見て、母親は「保晴こっちへ来い」と息子を抱きしめた。息子の心情を悟った母親は、「保晴はわしの子や。わしがやったる」と告げてきた。保晴は母に息子を殺させる辛い思いをさせたくないと、目を瞑って母の首を思いっきり絞めた。腕が硬直しているのに気づいた時、母は事切れていた。保晴は母親の乱れた髪を手櫛で整えて、「すぐに、行くから、寂しくさせないから」と自分の首を持参した包丁で切った。だが、力が入らず、近くの木で首を吊ろうとロープを巻き付けたが解けて落ちて、気を失った。

 通行人が倒れている二人を発見し、救急隊が呼ばれた。その結果、保晴だけが助かった。


 京都地方裁判所で初公判が開かれた。検察は、冒頭陳述で保晴が献身的に介護を続けながらも金銭的に追い詰められた過程を述べた。保晴は背筋を伸ばして飢えを向き、時折、肩を震わせながら涙を拭いながら聞いていた。

 「公訴内容に間違いはありません」と答え、介護について聞かれた際は、「介護に疲れ母親を殺めて自分も死のうと思ったが死にきれなかった。ただ、今でも母の事は大好きです。介護に疲れてはいたが、嫌なことはなかった。むしろ、楽しかった。もし、生まれ変われるならば、もう一度母の子として生まれたい」と語った。

 裁判官は言葉を詰まらせていた。目を赤くし、涙をこらえるように瞬きをしていた。傍聴席からも時折、嗚咽交じりの啜り泣く声が自然と起きていた。

 後日、論告求刑公判において検察側は、同情の余地はあるが、尊い命を奪うことは許されないとして懲役三年を求刑した。弁護側は、法的に批判できても道義的に批判できない。やむにやまれぬ究極の選択だった。として執行猶予付きの判決を求めた。

 最終陳述で保晴は、「私の手は母を殺める手であったのか、惨めで悲しすぎる。生きるのは本当に辛いが今は母の年までは生きて冥福を祈り続けたい」と述べた。


 約二週間後、判決の日を迎えた。

 裁判官は、母親の同意を得たとは言え、尊い命を奪った刑事責任は軽視できないとした上で、それまでの経緯や献身的な介護をしていたことなどをし、母親は恨みなど抱かず、厳罰も望んでいないと推察される。自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当と述べ、懲役二年六か月、執行猶予三年を言い渡した。裁判官は憤りを抑えて、裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護の在り方も問われている。この事件は福祉行政の力で防げた可能性を指摘し、異例とも言える行政への批判が述べられた。さらに絶対に自分で自分を殺めることのないように、お母さんのためにも幸せに生きて行ってください、と付け加えた。

 

 判決から約十年後、保晴は65歳になっていた。繰り返される勤め先の経営不振。ついてないでは済まされない。今時の65歳は定年制度が出来た時代とは違い、まだまだ動ける高齢者が多い。人手不足と言われながら、高齢者の勤められる職場が少ないのも事実。雇用側が認識を変えて頂くしかない。保晴は、動ける体以外、スキルがなかった。それが通常だ。切り詰めた生活での貯金は難しく、金も気力も尽きた。最後に広大で包み込んでくれる地を求めて滋賀県の琵琶湖大橋に辿り着いた。保晴は、大自然に包み込まれるように橋から自ら身を投げた。見つかった遺体付近には小さなポーチが残されていた。そこには数百円の所持金と自分と母の臍の緒を一緒に焼いてほしい、とのメモが残されていた。

 母の年齢まで生きると誓っていた保晴は、真面目に働いていた。そんな保晴をまた不幸が襲う。景気の悪化で職を失ってしまった。保晴の微かな生きる活力は萎えてしまった。家に引き籠るようになり、住居と職場を紹介した親類は会社を首になったと伝えられたのを最後に連絡が取れなくなっていた。

 保晴の最期の希望だった母親と一緒にという願いは、親類によって叶えられた。


 この事件は仮称であるが実際に起こった出来事。今とこれからも起き得る事件だ。高齢者が増え、親族の認知症に悩まさられる家族も増えるのは必死だ。福祉行政が弱者を見捨てるのは余りにも酷だ。一方で、子供がいると言うだけで働けるのに働かず、生活保護を潤沢に受け取る者がいる。京都の町を彷徨い涅槃への入り口を探す親子。一方で生活保護に慣れてしまいその有難みを忘れ、時には鰻が食べたいから支給額を増やせと炎天下の京都の街を当然の権利だと言わんばかりに笑顔で行進する一団がいた。保晴に冷たくあたった役人が元気に更新できる体力があるなら働けと動かないのは、弱者だから叩けるとしか思えない。保晴の立場から見れば、怠け者と呼べる者が当然の権利だと主張するのは甚だ腹立たしく思えた。

 別府で車のアクセルを踏み込んで態とバイクに衝突させ、人を殺めて逃亡している八田容疑者がいる。彼は、働くのは嫌だ、馬鹿だ。苛めにあった精神的に辛いと言えば生活保護を受けられる、と豪語するほど生活保護は怠け者の救済に使われ、保晴のようなケースやヤングケアラーに使われ難いのは言語道断だ。精神的な悩みは苦痛だと理解できるが、詐病を見抜くのは難しいのも事実。

 特定在日、外国人を保護してる島などない。高齢者社会と戦う国民を守れ。精神的な理由を掲げる場合は、国・地域指定の精神科に定期的に通院し、治療していることが支給の最低条件にしなければならない。国は直接、担当する地域の職員が脅しや恫喝に左右されない、突き放す権限を持たせる制度を確立することが急がれる。

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かあちゃん、もう、金、ないいんや。一緒に生きたいなぁ。 龍玄 @amuro117ryugen

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