【10-4】事件の結末(4)

鏡堂を床に叩きつけた豪雨は、なおも階段に降り注いでいる。

すでに彼の身長を超える高さまで、水は溜まっていた。


事前に富樫から、彼の犯行の手口を聞いていたおかげで、鏡堂は咄嗟に息を止めることが出来た。

そうでなければ、古賀たちのように一瞬で溺れていただろう。


鏡堂は上に向かって必死で水を掻いたが、降り注ぐ雨の水圧が強すぎて、思うようにいかない。

――あとどれくらい息が持つだろう。

そろそろ息が苦しくなり、彼が焦り始めた時、突然上からの圧力が消失した。


鏡堂はコンクリートの壁に設置された、金属製の手摺に掴まって、水の中を必死で階段を上り、漸く水面から顔を出すことが出来た。

息は完全に上がってしまっている。


そしてその時彼が見たのは、頭上から降り注ぐ雨を浴びて、狂ったように暴れる富樫の姿だった。

やがて彼は足を踏み外し、自分が作り上げた雨溜まりへと落ちていった。


水面に浮かんだ富樫は、何かに抗うように、必死で藻掻いていた。

その様子に目を凝らした鏡堂は、水中にある何かの気配が、彼を引きずり込もうとしていることに気づいた。


その時彼は、低くくぐもった声を耳にした。

『雨宮の巫女からの供物、確かに受け取った』

その声と共に、富樫は水中深く沈んでいった。


「鏡堂さん」

富樫が引きずり込まれる様子を、呆然と見ていた鏡堂は、その声に上を仰ぎ見る。

そこには天宮於兎子が、蒼白な顔で立っていた。


その顔を見て我に返った鏡堂は、富樫を助けようとして、再び水中に目を向けた。

既に水位はかなり下がっていて、底に沈んだ彼の姿を、はっきりと見極めることが出来る。


水に飛び込んだ鏡堂は、息を止めて水中に潜った。

そして富樫の腕を掴み、階段の半ばまで下がった水面へと引っ張り上げる。


重い体を階段に引き摺り上げた時、富樫は既に息をしていなかった。

驚愕したように目を見開いたその顔が、連続殺人犯『雨男』の断末魔の形相だった。


気がつくと天宮が階段を降りて、鏡堂の近くに立っていた。

「お前があの時、雨を降らせて、俺を助けてくれたのか?」

彼の問いに、天宮は無言で肯く。


そして一言、ぽつりと呟いた。

「本当は、二度と雨は降らせたくなかったんです」


その時一人の制服警官が、異常に気付いて駆けつけて来た。

「どうされましたか?その水は一体…」

その警官は事態が呑み込めずに、呆然としている。


「事情はすぐに説明できんが、とにかく人を呼んで、富樫刑事を運んでくれ」

鏡堂の指示に、警官は弾かれたように走り去って行った。

そしてすぐに大勢の警官が駆け付け、周囲は騒然となったのだ。


やがて騒ぎを聞いて、高階と熊本を始めとする、捜査本部の面々も現場にやって来た。

そしてずぶ濡れの鏡堂と、そばに立つ天宮を見て目をみはったのである。


鏡堂は近づいて来た高階に向かって、声を潜めて言った。

「課長、『雨男』は富樫刑事でした。

詳細は後程報告します。


その前に、天宮刑事と二人で話をさせて頂けませんか。

彼女が逃げる心配はないと思います」


高階は一瞬何かを言いかけたが、結局無言で肯いて、二人に背を向ける。

その背中を見送った鏡堂は、天宮を促して警官たちのいない場所へと移動した。


「それで君は、俺と富樫の話を、どの辺りから聞いていたんだ?」

鏡堂は天宮を威圧しないよう、静かな声音で切り出した。


「最初からです」

「最初から?と言うことは、俺が地下に降りる時について来ていたのか?」


「はいそうです」

天宮は彼を上目遣いに見て答えた。


「私、今日は鏡堂さんにすべてを打ち明けようとして、通用口から署に入ったんです。

他の署員に見られないように、気を配りながら。


丁度その時、鏡堂さんが地下に降りて行かれるのを見て。

地下の方が他の人に見られずに、お話しできると思い、後をついて行ったんです」


「そうか」

そう言って、鏡堂は小柄な女刑事から目を背けた。


身長差があり過ぎて、どうしても彼女を見下ろす形になるのが、心地悪かったからだ。

切実な眼で見上げられると、場違いな照れくささが込み上げてくる。


それを誤魔化すように、彼は一つ咳払いをした。

「言いにくいことを訊くが、富樫が言っていた、20年前の事件というのは、事実なのか?」


天宮は一瞬顔を強張らせたが、やがて意を決して語り始めた。

「彼が言っていたことは事実です。

富樫君が私の弟だということは、さっきまで知りませんでしたが。


20年前のあの日、彼が言っていたように、私は古賀たちにプールに突き落とされたんです。

怖かったです。

溺れて死ぬかと思いました。


必死の思いでプールから這い上がり、そのまま泣きながら家に帰りました。

その間中、心の中で父を呪っていました。


於兎子おとこなんて名前を付けた父への怒りが、抑えきれなかったんです。

この名前のせいで、子供の頃の私がどれだけ辛い思いをしたか。


家に帰った私は、父に向かって、それまで溜まっていた怒りを、すべてぶつけました。

しかし父から返ってきたのは、信じられない言葉でした。


父は私に、冷たく言い放ったんです。

文句があるなら、私を男に産まなかった母親に言えと。


それを聞いた私の怒りは、頂点に達しました。

そしてその時、私の頭の中で、声がしたんです。

『望むなら、我の力を与えよう』

今でもその言葉は、私の記憶に一言一句刻まれています。


あまりの怒りに呆然と立ち尽くしていた私は、その声に弾かれたように、父の後を追いました。

その後のことは、実はあまりはっきりと憶えていないんです。


当時の父は夕飯前に入浴する習慣があって、あの日も私を突き放した後、浴室に向かったんです。

浴室の前に立った私は、怒りを爆発させました。

何か大声で喚いたような気がします。


その時浴室の中から、物凄い音がしたんです。

それまで聞いたことのないような、大きな音でした。


その音で私は我に返りました。

浴室を見ると、扉の隙間から水が溢れ出してきていました。


その時、当時家政婦として来ていた方が、私に声を掛けたんです。

あの方が、富樫君のお母さんだったんですね。

あまりはっきりとした記憶はないんですが、優しい雰囲気の方でした。


その後家の中には、救急隊員や警察官の方が大勢来られて。

叔父も駆けつけてきて。


10歳だった私は、どうしていいのかも分からず、呆然としてたのだと思います。

そして気づくと、叔父の家に引き取られていました」


「その後のことは、君の叔父さんから直接聞いたよ」

際限なくほとばしる天宮の言葉を、鏡堂が遮った。


「ああ、叔父と話されたんですね」

憑かれたように語り続けていた天宮は、そう言って我に返ったような表情をした。


「さっき富樫君に聞くまで知りませんでしたが、あれは雨宮神社の祭神の声だったんですね。

さっきも私の頭の中で声がしました。

迷惑な話ですね」


最後は呟くように言って、天宮は俯いた。

そして鏡堂は、彼女の次の言葉を待って沈黙していた。


やがて天宮は、意を決したように顔を上げる。

「やはり私は、罰を受けるべきだと思います」


「何の罰だ?」

「父と、そして富樫君を死なせてしまった罰です」

その言葉を聞いた鏡堂は、上を向いて少し考えた後、言葉を選びながら語り始めた。


「まず、20年前の事件だが、君がやったという証拠がない。

さっき富樫が言っていたようにな。

それ以前に時効だ」


「でも、事実は事実です。

曲げられません」

そう言い募る天宮を、鏡堂は遮った。


「だからそのことは、君の心の中にずっと仕舞っておくしかない傷なんだよ。

これから君は、その傷と一生向き合っていくんだ。

罪の償いと言えば、それがそうなんだろうな。


俺も20年前の話は他言するつもりはない。

ああ、課長にだけは報告せにゃならんか。


だが心配するな。

高階さんはああ見えて、腹黒狸だからな。

腹の中に丸め込んで、適当に処分するだろう」


そう言って鏡堂はにやりと笑った。

天宮も釣られて笑いを浮かべる。


「それから富樫のことだが。

あいつはな、水の中の何かに引きずり込まれたんだ。

あの時俺は、はっきりとそれを認識した」


「水の中の何か、ですか…」

そう言って天宮は、怪訝な表情を浮かべた。


「多分あれが、雨宮の神とやらだったんだろうな」

鏡堂は、富樫が引きずり込まれる時に聞いた声については、彼女に語らなかった。


『雨宮の巫女からの供物、確かに受け取った』

それを聞けば、天宮がさらに深く傷つくだろうと思ったからだ。


「だから富樫は、君のせいで死んだんじゃなく、雨宮の神とやらに連れて行かれたんだと、俺は思う。

気にするなとは言わんが、自分のせいだとは思わんことだ。


それに君があの時、雨を降らせなければ、確実に俺は死んでいたからな。

今更だが、礼を言うよ」


そう言って照れたような顔をする鏡堂を、天宮は感謝の眼差しで見上げる。

その視線を受けた鏡堂は、思わず彼女から眼を逸らした。


「あの力は、もう使わない方がいい」

気を取り直して鏡堂が言うと、天宮もきっぱりとした口調で返す。

「はい、私も二度と使うつもりはありません」

その答えを聞いて鏡堂は頷いた。


「これから着替えて、課長に報告に行くことにするが、君は末松さんのところに行った方がいいな。


富樫に聞いた話は、彼には絶対するな。

事情を聴かれたら、あそこで俺と富樫が溺れている場面に、偶々行き合ったとでも言えばいい」


そう言い残すと、鏡堂はその場から歩き去って行った。

天宮はその長身の後姿を、じっと見つめていた。

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