第1話
「十亀さん、でよろしかったですかな」
「ええ」
代官山の駅近くに佇むアパートメントは、戦時を生き残った貴重な建築物であった。総コンクリート造りは焼夷弾からの熱の壁となり、周辺の木造建築が焼き尽くされてなお、その姿を留めている。
その一室は建築当時の基準を反映して、中々手狭だ。特にこの安部屋は、数畳の和室に一口のガスコンロがあるだけで、後は共用という具合。ここで探偵事務所などという酔狂をやっているのが、この十亀という男である。
「で、ご入用は?」
「いや……実はこういうものなんですが」
「は……公衆衛生課?進駐の方々が何用で?」
「お力添えをいただきたく」
男二人は渋谷から都電に乗った。一見新品に見える車体だが、元々木造車体を作り変えた旧式であることを、十亀はよく知っていた。須田町行を神保町で降りると、来客した背広の男は喫茶店へ十亀を誘った。
「綺麗な煉瓦でしょう」
「はあ」
「造幣局や、丸ノ内の駅と同じと言うんですな、全く趣深い」
互いにクリームの乗った珈琲に口をつけると、背広が話し始めた。
「ご紹介が遅れました、私佐藤と申します」
「最初に名乗ってほしかったですな」
「これは失敬。何分急な用でありまして」
「……それで?」
「十亀さん、貴方随分……超法規的な活動をされているようで」
背広の内に手をやりながら、佐藤はそう切り出した。
「……心当たりがありませんな」
「そうおっしゃらないでください。無論秘密も、貴方の権利もお守りしましょう。我々が今欲しているのは、貴方の力だけですから」
「どうだか」
「ですから、そのコートの下の手を下ろしてはいただけませんか」
双方の間に奇妙な沈黙の帳が降りたが、すぐにそれは霧散した。
「……河岸を変えましょう。敵地に乗り込むお心積もりは?」
「常在戦場の気でおります」
「良い心掛けですな。お時間は?」
「勿論」
霧と夜 猫町大五 @zack0913
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