寒海、心を撫でる鰭膜、渡りの竜。

 靴を脱いだ。それを、なんとなくきれいに揃えて置いてみる。裸足で踏みしめる浜辺は冷えていた。冬の始まりの午前中、こんな辺鄙な海岸に人は僕以外いない。眼前には、熱のない重い青の海。死人の肌のように白い砂浜。

 ウミネコの声すら聞こえない、波の音のみに支配された荒涼。


 僕は海に向かって歩き出した。砂はざらりと足の裏で転がり、そのたびに身体の熱が奪われていく。やがてその素足を、波が撫でた。もう芯から冷えていて、何が冷たいのかも分からない。


 水の中へ踏み込む。水の抵抗が行き来する。踏んだ砂が流れに遊ばれて崩れる。服は重く、水の抵抗が強くなっていく。それでも歩みをやめられない。思考は凍っていた。心臓が水に浸かった。肺が水圧に押されて潰れた。口から吐いた息が泡を立てた。そして、目を閉じた。

 そして最後の一歩を――踏み外した。


 完全に浮いた。


 流体の内を巡る静かな轟音が、水没した聴覚に満ちていた。

 僕は――これまで度々そうしてきたように、深いため息を吐いた。肺の中身をすべて使って。持っていきたくない記憶も気持ちもすべて、一緒に吐き出すイメージで。


 ぶくぶくぶく……。

 ぶく。


 もうなにも、残っていない。するとやっぱり、言うことを訊かないこの身体は、新しい何かを取り込もうとして――、


 ごぼっ。


 気道いっぱいに、塩辛い水を流し込んだ。身体が跳ね、手足が暴れだす。異物を深く吸い込んだ肺は激しく痙攣し、心臓の鼓動が強く早くなっていく。思わず目を開くが、その粘膜に塩分が染みる。視界は左右も天地も分からないぼやけた暗闇に閉ざされ、思考も判断もできなくなった頭の中には、恐怖だけが残った。


 苦しい。

 手足が思うように動かなくなって、

 苦しい。

 体中がびりびり痺れてきた。

 苦しい。

 意識が、命が、明滅しているようだった。

 苦しい、苦しい、苦しい!

 苦しいっ――。

 その最後に、


 身体が、浮かび上がった気がした。






 何もない。


 何もない。


 何も、ない。


 何も。


 待て。なんでそんなことが分かる。

 何もって、何のことを言っている。

 ないっていうのは、どういう状態だ。

 どうしてそんなことを考える。

 ――考える、って、なんだ。

 僕は何をしている。

 僕――僕?

 そうだ、僕だ。


 僕はここにいる!


 何もない空間に感覚が駆け巡り、覚えのある輪郭をなぞった。

 それが世界に映された、僕の像であることを、僕は知っていた。

 それが――脈打つように、跳ねた。

 内に溜まった流体が口から噴き出した。それから、残った水滴を排除するために咳が出た。

 目に光が入ってくる。重い白の背景に、何かの影が浮かんでいた。視界はまだぼやけている。背中に地面を感じた。僕は体重を地に預けている。咳は止まらない。


 意識が、命が、そして視界が、はっきりとしてくる。最初に認識したのは、二つの大きな、こちらを覗き込む瞳だった。それが、僕の肩に手を置いたのが分かった。咳が呼吸に変わり、血流が、鼓動が、動悸が、次第に落ち着いてくる。


 そうして初めて正しく認識した、不安そうに見つめてくる少女を、僕は天使だと思った。


「君は……」

 塩水を呑んだ後の声はしゃがれていた。

 少女は声に驚いて肩をこわばらせた。僕の肩から手を離し、目を泳がせている。

 呆けていた僕は、しかしだんだんと、周囲を認識していった。


 白い曇り空、波の音、砂の手触り。

 僕が、僕のまま、ここにこうしていること。

 現実。あまりにも変わり映えしない、現実。

 にもかかわらず、そこにいる少女。


 その肌は、よく見れば緑がかった青で、宝石のように煌めいていた。瞳は大きく、瞼の奥にもうひとつ、薄く透明な膜がたびたび閉じたり開いたりしていた。

 僕は重い身体を起こした。同じ視線で再び少女と視線が合う。僕はその視線を下に逸らす。一糸まとわぬ身体を恥じる様子もなく、砂浜に突いた両手――その細い指の間には、薄い皮のような、膜のようなものが張っている。そしてその視界の端に、碧色に輝く鱗に覆われた腰より下――脚は完全に一体化していて、鱗の流れに沿ってその末端には、大きな扇型のヒレが広がっていた。

 見たことないはずなのに、僕の頭の中から自然と、それを形容する言葉として、


「人魚……」

 と、声が漏れた。


 彼女は、手を僕の頬に伸ばし、触れた。しっとりと潤うその手の平は、冷たかった。冷たいのが分かった。

 人魚は、珍しいものを眺めるような目で見ていたが、すぐに眉間に皺をよせた。そして幕の張った親指を伸ばし、僕の前髪を払うように、額を撫でた。そうしたら、


 ――とまりそうだった。なぜ?


 頭の中に、そんな文字列が浮かんできた。自分由来ではない〝思考〟が外から流れてくる。馴染みのない感覚に困惑している間にも、その言葉はじわっと溶けて、「とまる」という言葉に含まれる、暗いニュアンスを自然と読み取った。

 動的平衡の停止、鼓動の断絶、崩壊、消滅――死。

 僕が固まっていても構わず、彼女は悲痛に歪めた表情で見つめていた。


 ――たすけなければ、とまっていた。どうして?


 僕はそこで初めて、問いかけられていることに気づいた。どうして。どうしてって、言われても。


「話して、何がわかるんだよ」

 吐き捨てるように僕は言ってやった。誰も、同じ人間であるはずの誰にも、僕の気持ちは分からなかった。


 人魚は、また僕から発せられる音に驚いているようだった。しかし少しの逡巡ののち、真剣な表情で、意を決したように、彼女は僕の手を取って、それを自身の頬に沿えた。やはりひんやりしていたが、やわらかかった。

 僕は戸惑った。同じことをしろというのか。できるわけない。できたとして、どうしたら。

 そんなことを考えていたら、人魚が初めて、柔和に微笑んだ。


 ――できてる。だいじょうぶ。


 僕は、その笑みに魅入られていた。触れた手と手はどちらも、こんなに冷えているというのに、僕の中の凍り付いた何かが溶けていく。

 けれど、僕は目を反らした。その溶けた部分から、黒い中身が吹き出してきていた。

 恥と、憎しみと、自己嫌悪と、嫌気、気疲れ、発作的な激情、殺意、その裏返しの、死への渇望――。

 それらがどす黒い奔流になって、接点を通じて、二人の中を駆け巡り、


 人魚は、僕の手を振り払って飛び退いた。


 彼女は信じられないものを見たような、取り乱した表情で、肩で息をしていた。よく見たら、首筋に両側四本ずつ斜めに走る切れ目が、呼吸に合わせて開いたり閉じたりしている。


 僕は――ほら、やっぱりそうだ。

 もう身体を支える力も冷え込んで、がくりとうなだれた。


 それを見た人魚ははっとして、尾びれで砂浜を蹴り、また僕に近寄って、僕の手を取ろうとした。

 でももう御免だった。今度は僕から彼女の手を払い拒絶した。

 とんだお節介に邪魔をされたものだ。死ぬのも許されないなんて。


 すると、視線を落としていた砂浜に、影が伸びてきた。見ると、人魚は尾びれひとつで身体を支えて立ち上がっていた。その表情は、悔しそうで、しかしそれ以上に、悲しさで泣き出しそうだった。


 後悔。もう幾年ぶりかに去来した感情だった。


「ごめん、そんなつもりじゃ――」

 言い終える前に、人魚は僕にとびかかってきた。人間一人と変わらない重量に押され、僕は浜辺に倒れこんだ。抵抗するにも、気力の尽きていた僕は無防備だった。


 しかし、僕の上に重なった彼女は、その次に何をするでもない。ただ、その両腕でやさしく僕の身体を抱き寄せていた。

 不思議と、とげとげしく波立っていた感情が、ゆっくりと落ち着いていく。熱を持たないはずの彼女の、体温のような温かさに包まれていた。

 

 ――おねがい、もっと、ゆっくり。

 

 僕は、完全に溶かされた。

 まろび出た黒い感情も、もっと広大な暖かい海の中で、ゆったりと回遊していた。彼女を抱き寄せて、僕はそれを、彼女のために、そして何より僕のために、少しずつ整理してみた。




 僕には元来、他人の同情を惹けるような分かりやすい過去などない。家族は当たり前にいて、学校には当たり前に行けて、病気をすれば当たり前に病院へ通えて、当たり前に大人になれた。


 当たり前以上の特別は、特になかった。

 だから、当たり前の苦労もまた、当たり前に訪れた。

 でも僕自身に、当たり前にあるはずのものが、欠けていた。


 文字も読めたし、勉学にも不自由はなかったが、耳で聞く言葉の処理にハンデがあった。

 だから、会話の腰を折って訊き返す。そして僕も、伝わるか自信がないから、言葉を選べずすべてを尽くしてしまう。テンポが遅れる。耐えかねた相手に、窓口を閉められてしまう。


 友好を築けないどころではない。大人になれば当たり前の仕事を当たり前に求められる。でも僕にはその当たり前の連携が、できなかった。足を引っ張ってばかりで、次第に他人と言葉を交わすことよりはるかに、一方的な叱責ばかりが増えていく。信頼は重力加速度に乗って落ちていく。それでも僕には、捕まりとどまるための拠り所は、ない。


 恥は積もり、頑固にこびりついた自己嫌悪になった。

 もうどこにも、居場所を見出せる自信はなくなった。

 仕事ができなくなって、最後に縋り付いた親から、昨日ついに三行半を突き付けられた。


 当たり前もできない、期待外れな劣等種は、いらないらしい。

 だからこうして、淘汰されに来た。




 ここまで黒の塊を紐解いている間、僕の中に別の、覚えのない情景が流れてきた。見ると、僕の身体を抱く彼女の腕に、少し力が籠って、震えていた。




 それは、雄大な海中の世界だった。見上げれば太陽が覗いている様子が、水面に乱反射して、水は暖かく、周りはサンゴや色とりどりの魚たちで華やいでいた。


 それが、巨大な――世界を押しつぶすほど膨大な体躯に、跡形もなく破壊されてしまった。リヴァイアサン。人魚の言葉でそう呼ばれた大海竜の、何千年に一度の渡りの時期だった。


 大勢の家族を失い、残った者も散り散りに離散した。海竜は凍えるような寒流を伴ってやってきたため、逃れてもその後、環境に殺された者もいた。


 彼女は生き残りと旅をしていた。しかし、彼女は当たり前にできるはずの、屈折を利用した迷彩が苦手だった。彼女が目立つせいで、一向は幾度も天敵に襲われた。

 続く災難にしびれを切らした仲間たちから追われ、彼女はひとり、絶望的に広い寒海に、取り残された――。




 二人の過去が、溶けあって、暖かい心象の海の抱擁に消えていくと、僕たちは見つめ合った。彼女も、僕も、泣いていた。


 ほんの少し、欠けた者同士。しかしお互いに、それほど歪には見えなかった。途方に暮れるほど広いこの世界で、海流の悪戯が巡り合わせたこの奇跡が、切ないほど愛おしかった。

 



 ざっ。

 

 人間の足音。音にはむしろ、僕の方が敏感に反応できた。


「いたぞ! まだ生きてる!」


 振り返ると、一人、その後ろから数人、同じ白い防寒服、手には機関銃なんていう、僕のかつての日常には似つかわしくない代物を担いだ男たちが、こちらに近寄ってきていた。


「待て、隔離対象種だ。緊急事案! 民間人を保護しろ!」


 彼らは、僕の傍らにいる人魚に、銃口を向けた。僕はとっさに、彼女を庇った。男たちの動きが――僕のその行動に虚を突かれたのか、止まった。


 その間に、人魚がするりと僕の前に出て、僕の頬に両手を添え、

 唇が、重なった。


「撃て!」

 男の号令と、いくつもの銃声が重なる。しかし、一瞥もしないまま人魚が力いっぱい振るった尾びれが、弾丸をすべて弾き、僕たちの周囲の砂や岩場に着弾する音が、後方から聞こえてきた。


 彼女の舌が僕の中にもたらした何かが、僕の感覚を痺れさせた。心地よかった。

 すると人魚は、両手の鋭い爪を、僕の首筋に突き立てた。それは肉に食い込み、そのままされるがままに、まっすぐ斜めに左右それぞれ四本の切れ込みを入れられた。しかし、痛みはほんのわずかだった。僕の首から大量の血が流れたが、すぐにそれは止まった。


 ――私の理由はあなた。あなたの理由は私。


 彼女の言葉は、それまでよりもはっきり伝わった。僕は、なんのことだろうと思った。

 彼女は、口づけに湿った唇を引き上げ、優しく笑った。


 ――止まらない、止まれない理由。だめ?


 僕は、心が躍りだすのを感じた。力があふれてくる。僕は、海を渡るために変わりつつある身体を力いっぱい駆り出して、彼女を両手に抱え、水平線へ走り出した。


 そのまま飛び込んだ海は、なんだか暖かかった。息も、苦しくない。


 もう、何が冷たかったのかなど、思い出せないほどに。

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監視機関 隔離手順および研究ログ 音柴独狼 @CyborgRBS

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