曇天、鈍痛と巡る散歩、枯葉の冠。
『ここイブシマ市では、一週間ほど前から原因不明の停滞低気圧が居座っており、長い間分厚い雲に空が閉ざされている状況です。気象庁の見解では、ここまで周囲の気象条件に影響を受けず、発達も減衰もしない低気圧は極めて異常であるとし、観測史上初の現象を目の当たりにしていると述べています――』
つけっぱなしのテレビはそう述べる。家具の少ない質素な部屋は、電気を消すと、こういう曇りの日には一層重く、暗い。幡中チヅルはハーフパンツにタンクトップ姿で、力なくソファーに横たわっていた。無造作にひじ掛けへ片足を投げだして。彼女に行儀を気にする余裕はなかった。
――頭が痛む。
頭蓋が割れては閉じて、結んでは開いて。何か見えないものに弄ばれているように。
気圧が敵だったのは今に始まったことじゃない。一日二日、やつらが大いなる循環に連れられ、どこかへ過ぎ去っていくのを待っている分には、生きていくことはできた。それが、こうも居座り続けられた日には……。
チヅルは搾りかすのような力を振り搾り、テーブルに置いてあるスマートフォンを取った。連絡を取ろうとしたのだ。無理に決まっている。こんな状態で仕事など。
電話帳を開く。自分がいて、父母がいて、弟がいて、いくつか学生時代の友人がいて――。
「……あぁ?」
ない。
チヅルはため息をついた。そうだ。なんでか自分は、仕事先の番号を知らなかった。前もそれで「今日こそは訊かなきゃ」って思ったはずなのに。力なく手の甲で額を抑え、目を瞑る。依然頭の中は脈打つように痛む。
随分やられているな。仕事先の同僚がいたはずだが、その顔も名前も、思い返す余裕がない。というか、自分はなんの仕事をしていたっけか。
テレビから鋭い誰かの声が鳴った。てきめんに頭痛を刺激してくる。どうやら時刻が過ぎ、ニュースから空気の読めないバラエティ番組へ変わったようだ。このMCを恨むことなど何もなかったが、チヅルは眉間にしわを寄せながら寝返りを打ち、リモコンを取ってテレビを消した。
ついでに身体を起こしてみる。動きに合わせて鈍い痛みがさらに強くなる。起きなきゃよかったホントに。
そして、重力方向に対して身体を並行にした瞬間、思い出した。昨日から今に至るまでおそらく何も食していない。栄養の欠如した身体は、体重を支えるのにも苦心して小刻みに震えていた。
チヅルは深く息を吸って吐いた。ため息でもあり、生命維持の呼吸でもあった。冷蔵庫までの歩数を想像したのだ。
立ち上がる。両脚はさらに震えている。彼女はソファーの背もたれを手すりにしながら台所へ歩いた。ただでさえ淡い、外からの光が届かない台所の闇には、出そうと思ったまま置きっ放しのごみ袋が二つ隠れていた。冷蔵庫を開くと、中の真っ白な光が溢れ、やたらに眩しかった。
細めた目で見渡す。振って出すしかないマヨネーズと、実家から贈られて使い道に困ったあげく塩漬けにしたきゅうりが、二切れだけ容器に残っていた。身体が今切実に欲しているものはなかった。
「死ぬって、ホントに」
独り言も出る。ふとそこから、部屋の奥、窓の外を見た。相変わらず忌々しい灰色に覆われた空だが、今のところ雨は降っていないようだ。
「現ナマ、下ろしてたっけ……」
着替えもやっとだったのに、財布が見当たらなかったときは、気力が尽き果てるかと思ったが、無事に外へ出る恰好に整えることができた。久しぶりにクローゼットから取り出したワインレッドのトレンチコートを羽織り、携帯と財布と折り畳み傘だけ持って外へ出た。
去年の今時、残暑や残暑、秋は死んだのだ、と言っていたのが嘘のようだ。そりゃ、一週間も太陽が顔を出す隙間もなかったら、温暖化を感じるのも無理な話かもしれない。
いっそここまでやるなら、土砂降り続きで洪水のひとつでも起こして、煩わしい世間や、記憶にも残らない仕事など、綺麗さっぱり押し流してもらいたいものだ。誰も日常を失っていない。これじゃ私だけ変みたいじゃないか。
痛い。吐きそうなほどに頭が痛む。歩いたらさらに脚は震える。貧血のまま血を巡らせている。
現金はあまり財布になかったが、ネットバンキングから残高を見れば、それなりに蓄えはあった。やはり仕事はあるらしい。だが知るか。忘れたついでに今日はサボってやる。
しかし最寄りというには遠すぎる銀行まで歩いて、それからどこかのファミレスなりコンビニなりへ向かうまで、身体が保つ気がしない。となると、コンビニによってホットスナックと握り飯か?
何にせよ頭が上手く働かないまま、ふらふらと歩いていると、公園に差し掛かった。そして立ち止まった。
――誰もいない。
近所のガキンチョも遊んでいなければ、擦れた不良学生も溜まっていない。それどころか、公園の周囲どこを見渡しても、通行人が自分ひとりしかいない。
珍しい光景だった。
いや、それ以上に、何か異様な雰囲気すら感じていた。
そして、チヅルの頭に、妙な勘が働いて、理由は明確に分からないまま、公園の中へ足を踏み入れた。入った入口から見て奥には、大きな広葉樹があった。
「――え?」
いやいや、
樹なんて、無かったはずだけど。
頭が痛む。眉をひそめて、その見覚えのない広葉樹を見つめた。
すると、幹が真ん中でねじれて、ざわざわと葉を鳴らしながら、樹冠がぐるりと回転した。樹がひとりでに動いた――、
違う、〝振り向いた〟。
こっちを見ていた。それで初めてその存在を正しく認識した。そこにいたのは、樹のように葉をつけた、巨大な角をもつ牡鹿だった。それが足をたたんで座り込んでいる。
エメラルドのように澄んだ碧眼で、チヅルを見つめていたのだ。
公園の中は、空模様に不釣り合いなほど、さわやかな風が吹いていた。まるで別世界が切り貼りされたようだ。チヅルは、牡鹿に歩み寄った。不思議な気持ちだった。怖がることはないと。何故か分からないが、まるでそう知っていたみたいだった。
近づくほど、牡鹿の巨大さが分かった。博物館によくある大型恐竜の顔を見上げるときくらい、仰ぎ見ないと視線が合わなかった。チヅルは立ち止まって、さらに牡鹿が持つ巨大な角を見上げた。質感はそれこそザラザラとした樹皮そのもので、細長く枝分かれした先に、無数の葉をつけていた。
そのうちの一枚――他とくらべて色の褪せた一枚が、ツっと角との接点が途切れ、カサっと乾いた音でひらめきながら落ちてきた。チヅルは目でその緩やかで不規則な軌道を追った。そしてそれが地面に達したとき、気が付いた。すでにこの牡鹿の足元は、この牡鹿のものであろう枯れ葉で一面覆われていた。
落葉樹。日の光が無くなって、エネルギー節約のために葉を削ぎ落す。
「……もうすぐ、眠るんだね」
通じるわけもないのに、チヅルは牡鹿にそう話しかけた。音声を発したチヅルに、牡鹿は目を向けた。チヅルは口角を緩めた。
痛い。思うように笑えない。
チヅルは牡鹿の傍に歩み寄り、彼が落とした枯れ葉の厚みの上に、ほとんど倒れるように腰かけた。体重から解放された身体は、酸素を欲して膨らんではしぼんだ。
「参っちゃうよね。分かるよ」
少々世の中の理から逸れている存在ではあるものの、チヅルは勝手に理解者を得た気持ちになった。本当なら、こんなところで休眠するはずじゃなかっただろうに。
牡鹿は、肩で息をするチヅルを見つめていた。チヅルが虚ろな目を向けると。顔を逸らした。彼が頭を動かせば、当然樹冠もざわめきながら振り回される。
ぶるるっと牡鹿は鼻を鳴らした。そして一、二、三回、ゆっくりと頭を振った。わさっ、わさっ、わさっ、と角がしなり、枯れ葉がたくさん落ちてきて、そしてそれを追い越すように、大きな黄色い何か丸いものがいくつか、枯れ葉のクッションの上にぼとぼとと落ちてきた。「わっ」とそれに驚いて身を縮めたチヅルは、すぐ近くに落ちた一つを、ゆっくりと手に取った。表面はざらっとしていて、ずっしり重い。
梨……、かな。にしては大きい。
チヅルはまた見上げた。牡鹿はこちらを見下ろしていた。非言語のやりとり。そしてチヅルは視線を手元の果物に向け、そして精一杯口を開け、歯を立てた。さくっと身を一口、簡単に削り取って頬張ることができた。そして最初にそれを嚙み潰したとき、
じゅわっと、甘い果汁が、味覚の上にほとばしった。
一瞬とは言え、頭の痛みを忘れるほど、その一口で魅了された。チヅルはまた二口、三口とかぶりついた。味はやはり梨、しかしその甘さの中に、身体が欲しているあらゆる養分が秘められているのが分かった。あっという間に平らげ、芯に残った果肉まで残らずしゃぶった。彼女に行儀を気にする余裕はやはりなかった。
牡鹿はじっと、それを見守っていた。チヅルは初めて、ちゃんと笑えた。
「ごちそうさま。サボってみるもんだね」
痛い。力が戻ってくる。でも関係なく、やっぱり痛む。そのまま視線を空へ逸らす。
曇天。忌々しい灰色。
――いや、ちょっとだけ、不自然に青みがかっていた。目を細める。晴れてきたわけではない。〝青い透明の膜〟があるみたいだ。
だんだんその青は濃くなる。同時に、ジジジっ……と、肌に静電気が伝うような、音にもならないような微小な振動が空気に満ちていくのを感じた。
周りを見渡すと、青い膜は綺麗な半球状に、この公園を覆っている。
そして、彼女はこの光景を知ってい――、
――激痛。
脳内がプチプチ鳴るのが聞こえるくらい、激しい痛みが襲ってきた。うずくまって頭を押さえる。チヅルは直感した。これはただの頭痛じゃない。
痛みに悶えながらも、混乱は驚くほどすぐに引いていき、理解が順番に追ってきた。なぜなら脳内に、非音声の言語でこう〝表示〟されたからだ。
【K・R(ノウレッジ・リロード)システム起動。登録識別番号TERRA〇三-〇九六三五。氏名「チヅル・ハタナカ」。Bランクライセンス、研究エージェント。前回保存分のバックアップを再構築します】
痛みが引いていく。同時に、ぽっかり空いた記憶層が埋まっていく。チヅルはよろよろと立ち上がった。顔を上げると、公園の入り口に数名の人影があった。そのうちの、白衣の若い男が、こちらに手を振って駆け寄ってくるのが見えた。
「幡中博士! 探したんですよ、侵食反応があったのに連絡を寄越さないから」
「……織田くん」
K・Rシステムが回復してくれた記憶から、その男の名を呼ぶ。織田と呼ばれた男はその様子を見て、呆れたように肩をすくめた。
「もしかして、またご飯食べてなかったんですか。記憶の再生に触るから、ちゃんと生活は整えてくださいって言ったのに」
チヅルは、あたりを見渡しながら、力なく頷いた。他の職員は、黙々と機材を搬入し、前線基地を設営している。周囲を囲む青いカバーホログラムは、そんな異様な光景を、適当な日常風景に変換してうまいこと隠蔽してくれているに違いない。
彼女は牡鹿を見た。樹角科落葉亜科。別の分類では、界樹角種。文字通り、世界を冠としてその頭上に抱く、〝この〟現実には居てはいけない種だ。彼は足元の職員たちの様子に、特に動じるような素振りもない。あるいは動じる元気がないのかも。
チヅルはため息を吐いた。サボっているつもりだったのに、嫌なことを思い出した。
そうだった。これが私の仕事だった。
どうやら逃がしてはくれないらしい。
「……一連の〝無縁停滞低気圧〟の被害者ね。そっちはまだ解決しないの?」
「何しろいろんな原因が考えられますからね。それに実害も特にないし、〝上〟も重い腰が上がらんのでしょう」
「実害でいうとこの子よ。例年ならまだしばらくは残暑だったところ、迷い込んできたまま、帰れなくなったみたい」
ふと横を見ると、織田が悪戯っぽい笑みでこちらを見ていた。急に仕事モードになったチヅルをからかうみたいに。彼女は手のひらを上に向けて織田に差し出した。
「まずは頭痛薬を頂戴。あと栄養剤。医療班がひとつくらい持ってるでしょ」
すると織田は、にやけ顔のまま「はいはい」と、振り返って公園の出入り口へ向かった。それを見送ると、チヅルは世界樹を冠する牡鹿の方を見た。彼は真っすぐこちらを見つめていた。
痛い。後で薬を飲んだとて、あと数時間はこの調子か。
「――お礼だよ。私が帰してあげる」
そう言って、彼女は〝仕事〟に取り掛かった。
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