監視機関 隔離手順および研究ログ

音柴独狼

陽光、不揃いの縁、苔の址。

 七月の日差しは、世界からの敵意だった。少年は病的に白い肌を、不釣り合いにつばの広い麦わら帽でかばいながら、早歩きでずんずんと山の深い緑に向けて進んでいった。その両手で、端の擦り切れ、鉛の粉で薄黒く汚れたスケッチブックを、きゅっと胸に抱えながら。

 頭の中に、今日初めて聴いたクラスメイトの不気味な笑い声が響く。楽しい時間を分かち合えたときのそれと違う。みんながぐるっと周りを囲み、中心にとらえた自分を視線で指しながら――。

 夢を語ることは、いいことなんじゃなかったのか。

 恐怖、怒り、悲しみ、恥、どれともつかないその中間の、小学四年の知る言葉では形容しようのない感情が、教室とは違う世界観へ駆り立てた。

 山道を登る。坂は少し急だったが、生まれつき光に弱い肌にしてみれば、日影を作る森の木々は久しぶりの味方だった。一歩ずつ進む、血が巡る、冴える頭はずっと笑い声で満ちている。芯から熱を持つ、汗が滲む、それを風が凪ぐと、葉音と相まって心が冷える。

 ぐるぐる。

 体の中で現象が流転する。

 するとまた、膨張した感情から空気が抜ける。そして、さっきこれと同じ要領で気持ちが破裂したとき、その勢いで振り上げてしまった拳が、震えた。

 混乱はした。でも、そんなつもりでもなかった。

 あのときの自分は、何もかもが自分でないような気がした。

 汗が額を下り、まつげに乗るのを感じた。ぐっと瞼を閉じた。木陰に居ようが構わず割り込んで来る光、光、光。瞼はどうやら半透明で、瞑ったはずの視界は暗い赤に染まる。

 つまるところ、歩みを止めれば、この日差しの手先になった大人たちが、自分を探しに来るだろう。その中にきっと、父も母もいる。彼らの中にもあるはずの違和感に、慣れた手つきで蓋をしながら。

 無邪気で邪悪な笑い声に、切り裂くような怒号が混じる。耳を塞いでも無駄だった。それは頭の中までしみ込んで来る。

 音より早く走れば、振り払えないか。わずかに震えている細い脚は、より強く坂を蹴り、少年は駆けた。目はまだ閉じたまま。

 足音。笑い、怒号。小石を蹴る、跳ねる。風、いや、あざ笑う息遣い。振り切れない。笑い、笑い、冷や汗、喉、血の匂い、足のしびれ。木漏れ日、無数の視線。怒号、追いかける足音。現実。現実。世界からの、逃れようのない敵意。

 そして――。



 無音――。



 耳鳴りの残響。そして目を開く。

 森の、山道が少し開けた場所だった。少年は立ち止まっていた。

 こんなにも、こんなにも静寂……。嘘みたいな静けさだった。

 そして、その荒涼感を支配する、木造の社が目に留まった。

 苔の暗い黄緑色が、古い時間ごと閉じ込めたような、静止した世界だ。


 社は基礎が沈んで全体がわずかに傾いていた。参道に生い茂る草が、人類の忘れ物であることを物語る。踏み入る足の肌を高い草が撫でた。現実……で間違いない。

 社に歩み寄る。賽銭箱は朽ちていた。まだ習ってもない古い銭が点々と散らばっている。誰かの想いを見届けて、役目を終えて力尽きたように見えた。鈴緒はすっかり色を落としていたものの、錆びついた本坪鈴はまだ吊られていた。

 みんな、どこに行ってしまったんだろう。

 いつまでだって自分を笑っていたいのではなかったのか。だが振り返って見渡しても、見知った人々の気配のひとつとして感じなかった。

 そうだ、結界の内側なのだ。どうりで身体が、心が軽いわけだ。しかし戸惑い自体は抜けていない。

 社に向けて直る。少年は、鈴緒を優しくつかみ、華奢な腕で精いっぱいそれを振った。鈴は持って生まれたはずの音を鳴らさない。くぐもった物音だけを残して、やはり幻想的な森閑に溶けていく。両足を揃えて背筋を伸ばし、手を合わせ、礼、直り、二度、柏手を打つ。



 礼。



 いつしか、優しい、暖かい光が、冷えた肌を包んでいた。

 顔を上げると、きれいな賽銭箱が目に入った。奥に佇む社は、丁寧な手入れが行き届いているように見えた。すぐ目の前に垂れる鈴緒には、鮮やかな赤い色が施されていた。

 そしてふと、本当にただ自然に、隣を見たら、同じくらいの背丈の、赤い袴の装束を纏う少女が、まだ祈っていた。

 ふわりと、気持ちが浮かぶ感じがした。

「――神様も祈るんだね」

 少年はそう彼女に訊いた。礼を崩さず、合唱を解かず、彼女は答えた。

「神様だって祈りくらいするんじゃない?」

 そうかも。少年は空を見上げた。森の緑の傘は一切なく開けていた。向こうの山脈まで見渡せる風景と、どこまでも青い悠久と、はるか遠くを横切る、真っ白な入道雲。あれなんかはまるで怪獣みたいだ。

 太陽。今その下に、胸を張って立っている。敵なんてどこにもいなかった。

「まだ帰りたくないな」

 なんでこんなことを言ったのだろう。きっと同じことを思ったに違いない。少女はふふっと笑った。そしてやっと礼を解いて、こちらを向いた。宝石みたいな瞳を煌かせながら。

「変なの。こんなに日も高いのに」

「あそこから沈んだ試しもないのに」

 呼応するように、あるいは童謡を輪唱するように。そう、少年は知っていた。

「本当だ。変だね」

 少年は笑った。少女も笑った。そう言えば、視線が高くなった気がする。声も、なんだか違う。頭の中に〝赤道北極円〟という難しい言葉が浮かんでいた。

でも、少年はありのまま笑った。そうしたら、彼女が笑ってくれるから。

「いいんじゃない。みんなが大事な人を見逃さないために、神様は私たちを、みんなちょっとずつ歪に作ったんだから」

 彼女は言う。そして世界はふたりを中心に、無限の独楽のようにゆっくり回る。

「まるで神様じゃないみたいに言うね」

 少年は訊いた。そうしたら、少女は目を閉じた。

「神様って、まん丸のことだよ。まん丸は、綺麗なほど怖い。同じ場所で動かないで、ずっと回り続けて、誰とも触れ合わず、止まるまでずっと――。それは本当に、怖い」

 恐怖を語るにしては、ひどく穏やかに微笑みながら。

「だから、私も、みんなも、神様になる一歩手前で踏みとどまって、そして祈るんだよ。大事な凸凹が削れないようにって」

 目を開く。その少女の瞳には、まっすぐな意志が宿っていた。

 混沌と純粋の重なる、真理からの声、あるいは自己言及する矛盾。静止しているのと変わらない流動。

 現象が身体を抜け世界へ、無限遠点で零と融合して、こうしてここに帰ってくる。力が流転する。心が躍る。

「ねえ、遊ぼうよ」

 少年は笑った。少女は呆れたように苦笑した。

「全部飽きちゃったんじゃなかったの?」

 それで、あっと思い出した。見渡すと、双六、草笛、瑠璃の玉。神楽歌もやりつくして、もうすべて放り出していたのだった。

 少年の笑顔は曇る。俯いたまま、それでも。

「でも、じゃあ、どうしたらいいのさ」

 心はもう躍っている。身体はすぐにも走り出しそう。今ならなんだってできるはず。

 なのに、その〝なんだって〟が何なのかは、もう幾星霜もの昔に、思いついた全てを使い果たしてしまった。

 少女は視線を落とした。少年はそれを目で追った。彼女は自分の手に手を伸ばしていた。触れる。肌は冷えていた。また心がふわりと浮遊する。やがてほのかな熱を感じ始める。廻るふたつの流転は、この接点で交わり、互いの脈を確かめ合う。

 ゆっくりと、少女の穏やかさに慣らされていった。

「別に、頑張って何かをしようとしなくたって、証はもう貰っているもの」


 だってそうでしょ。

 私たちが、まん丸よりもちょっとだけ歪んでいる限り、回転から季節は消えない。

 なら、どれだけ離れても、私たちはずっと一緒でしょ。


「ね?」

 少女は、溌剌と、悪戯っぽく、底抜けに明るく、何よりも暖かく。

 少年は、少女の言葉に、ゆっくり頷いた。それで初めて、涙が流れていることに気付いた。それがいくつか、地面に落ちてはじけるのを見届けて、顔を上げた。

 

 

 風が冷たかった。光を緑が遮っていた。賽銭箱は朽ち、社は傾き、双六もビー玉も、赤い袴の装束姿も、そこにはなかった。

 暗い黄緑に染まる、あの社の前に立っていた。

 茫然と、しばらく沈黙の中に立ちすくんでいた。足元がぐらつく感じがした。これは心と関わりなく、なんだか身体が星の動きと合っていないような感覚だった。

 ただすぐに、賽銭箱の上にスケッチブックが広げられているのを見つけた。少年はわずかによろめきながらも、近づいてそれを覗いた。

 そこには、鉛筆の黒と紙の白でできた、あの百カラットの瞳を細めながら柔らかく笑う少女が描かれていた。今思うと、自分よりは少し年上のように見えた。

 はるか遠く、ここから見る無限遠点の、日の沈まない、誰も知らない、二人だけの、秘密の約束。名前も知らないのに。ずっと大事にしていたい宝物。

 山を下りたら、きっと嫌でも忘れてしまう。けれど、忘れたらきっとまた、ここに導かれる。流転は八の字に交差している。

 少年はスケッチブックを手に取り、優しく閉じて、両腕で抱えながら、社に背を向けて歩き出した。そうしたら、初めてこの場所から、麓の町を一望できることに気付いた。見慣れた風景の中に、少年は自分の家を見つけた。

 きっと、みんな心配している。

 少年は、来た道を下って行った。もう笑い声も、怒号も聴こえてこなかった。


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