降嫁の話


 炊事場の外の川で桶に水を汲み、桶を四つほど満杯にしたところで獅子はそれらを両手に提げて持ち上げた。前回の洗髪からひと月ほど経っている。そろそろ頃合いだろうと、水を栗姫の元に持っていった。


 朝餉を終えた栗姫は、獅子が淹れたお茶で一服しているところだった。

 渡していた椿油はあるかと問えば、心得た栗姫が行李から油と、それから奥に立てかけていた大桶を手前に持ってくる。大桶に水を入れ、八分目まで注ぐと、獅子は鍵を取り出して牢の入り口を開けた。

 ぱたぱたと栗姫が駆け寄ってくる。

 大桶の側で座って待っていた方が、室が狭くならずに済むだろうにと獅子が思っていると、ふと、栗姫が屈んだ。


「! 栗姫!」


 お腹を抱えるようにして座り込んだ栗姫に、獅子は慌ててその背に手を伸ばす。

 さすろうと屈んだ瞬間、お腹を押さえていた栗姫の手が、こちらに伸びた。

 え、と思う間もなく、その手がまだ懐に仕舞っていなかった牢の鍵を奪う。半開きにしたままの入り口へ、姫が水のように駆けていくのを、それでも獅子は咄嗟に手を伸ばした。しかし、栗姫はそれを予想していたように――予想していたのだ――腕を単ごと袖から抜いて、その狭い入り口をさっとくぐった。


 その鮮やかな手付きに獅子が驚いている間に、姫は即座に戸を閉める。がちゃん、と鉄格子の錠の下りる音が響いた。


「く、」

「ごめんね、獅子」


 栗姫、と呼ぼうとした声を、姫が遮った。

 鉄格子の内と外で――いつもとはあべこべに向かい合って、二人は目を合わせる。


 ごめんね、と。

 栗姫はもう一度、呟いた。


「でも、ここまで事態が膠着してしまったらもう、私が帰らなくては」

「待て、栗姫!」


 獅子は鉄格子を掴む。姫が口を開くのを、止めたかった。

 栗姫は首を横に振る。


「紫苑党の人たちも分かっているでしょう――私がここに来て、もうふた月。その間、皇宮は沈黙し続けているのよね? 今、皇宮は、内紛を速やかにおさめられないほどに紛糾している」


 獅子は栗姫に手を伸ばす。何とかその肩を掴もうとして、察した栗姫が、僅かに後じさった。朱雀や穂刈たちに比べてまだ短い獅子の腕では、手が届かない。息が苦しくなる。


「都には今、非公式で芳野よしの六嘉ろっかの大使が来ている。大国同士で、戦を始めようとしているのよ。どちらも彩葉いろはを味方につけたがっていて、関税を盾にお金と人を要求している。これまで決してどちらにも味方しなかった彩葉を、伏兵として使おうとしているの」


 それは、獅子も朱雀たちから聞いていた。

 芳野と六嘉の国境の動きが怪しいことは調べがついていた。そうでなくとも、他国の大使がそれぞれ別に秘密裏に来ているとなれば、だいたいそういうことなんだろうと予想していた。今の皇王は穏やかで堅実だが交渉には向いておらず、外交官にも、切れ者と言えるほどの人物が今、いない。地方の豪族たちの中には何人か勘の良い奴がいるのにと、朱雀は口を噛んでいた。


「皇王陛下はまだ何もお返事になっていないけれど……皇后様は、お金と人の代わりに、二国に姫を降嫁せよ、と仰っているの」

「……降嫁、」


 喘ぐような獅子の呟きに、栗姫は眉を下げて微笑んだ。


「うん。芳野には、実は前から降嫁の話が出ていたの。十年前に後家となられた皇王陛下の妹君と、芳野の宰相様が仲睦まじくしていらっしゃっててね。でも、まだ決まっていない話だったから、叔母上とうまく連携をとってこの話を取引に使えれば、あとは、六嘉に誰かが嫁げば今回の要求は躱せるの」


 二国とも、戦のための要求だとまだ公に悟られたくない。だから武力ではなく関税で脅してきたのだ。二国の要求の代わりとして十分な何かを示せれば、大使を彩葉から退かせられる――皇女の降嫁は、例えそこに人質としての意味が実態として存在しなくとも、十分な対価だった。


「他にもやりようはあるだろう!」

「それを誰も思いつけなかったから、今も皇宮が沈黙しているのよ」


 栗姫の言葉に、獅子は唇を噛んだ。腕に当たる鉄格子が冷たい。今すぐ鉄が朽ちやしないかと、爪で引っ掻くように力一杯握り締める。

 その両手を、上からそっと、あたたかいものが包んだ。

 獅子ははっと顔を上げた。


「獅子、知ってる?――柘榴ざくろ様と私の歳は、とても近いのよ」


 栗姫が、自嘲するように笑って、獅子の手を上から握っていた。

 上から押さえるようにされているせいで、獅子は、すぐ目の前にいる栗姫を掴めない。


「一年も離れていないほどに。だから、今の皇后様は、私を殺したいほど憎いの。私しかいないと分かっていて、降嫁を提案したのよ――もしかしたら、あわよくば望月もちづき様もよその国に追いやってしまいたかったのかも知れない。柘榴様は斎宮様だから、決して降嫁の対象にはならないもの」


 恐らく、と、栗姫は視線を落として嘆息した。


「私がいなくなったことで、話が望月様に飛び火したのね。まだ正式にご婚礼を挙げたわけではないもの。それで、妹思いの皇太子様が猛反対して、皇后様と皇太子様が真っ向から対立して事態が紛糾した。そうなのでしょう?」


 家庭内のごたごたで内紛もおさめられないなんて、情けのない話でごめんなさい、と栗姫は苦く笑った。


 まるで、他人事のような言い方だった。そのごたごたの火の粉が、自身に降りかかっているというのに。あれほどに、あれをやりたい、これをやりたいと、言い放題だった栗姫が。

 姫がしたいと言ったことの、いったいどれだけを、叶えてやれただろう。


「本当は、すぐにでも皇宮が価格是正に応じて、私が皇宮に帰っていれば事態は丸くおさまるはずだった。でも、皇后様は、私が六嘉に嫁ごうが賊に殺されようが、どちらでも良いのよね。むしろこのまま殺されてくれた方が良いとまで思っているかも。本当にごめんね、獅子。ちゃんと、人質になれなくて」

「あんたは悪くない」

「うん」

「あんたは、悪くない!」


 うん、と、栗姫は、頷いた。

 悔しいことに、そういうところが好きだった。ずっと、ずっと――四年前から。


「ありがとう、獅子。心配しないでね、道はちゃんと覚えてるから」


 景色を覚えるのは得意なの、と笑って、栗姫はそっと獅子の手を離す。獅子が格子から手を伸ばすより早く、栗姫はその両手で獅子の頬を抱き寄せた。


 一瞬のことだった。

 頬に、柔らかい感触がした。

 少し冷たくて、少し温かくて。

 震える吐息が、微かに肌にかかった。


 くちびるだ、と、頭が理解したときには、栗姫は再び獅子から距離を取っていた。離された手はまた届かないところまで下がり、たっぷりとしたその栗色の髪を、姫は長袴の裾を裂いて一つに括る。単と袿を脱ぎ捨てた、簡素な格好でくるりと踵を返し、そうだ、と、獅子を振り返った。


「この帯は、もらっていくからね」


 その腰に、ひらりと撫子なでしこを揺れさせて。

 栗姫は、いつも獅子が眠っていた物置部屋の方へと、駆けていった。

 ――あの部屋には仕掛けがある。

 獅子は、祈るような思いでそれが作動するのを待った。果たして、姫が消えてすぐ、突如として洞窟内に拍子木が打ち合わされる音が響き渡る。がらんがらんと、激しく乱れて、それがおさまりきらないうちに、ばたばたと人の駆けてくる音がした。騒がしい仲間たちの声もしている。

 どうか、ちゃんと、捕まっていてくれ――。


 しかし、牢屋の前までやってきた紫苑党の男衆たちは、姫を連れてはいなかった。


「おい、侵入者はっ――て、え?」


 獅子? と、やってきた穂刈が、牢の中にいる獅子を見て目を見開いた。獅子はお構いなしに吠える。


「栗姫は!」

「えっ……姫が、逃げたのか!?」

「ここまでは一本道だっただろ、見なかったのかよ!」

「侵入者かと思っていたからちゃんと警戒していた! 人の気配は全くなかったぞ」


 訝しげに眉を寄せて後ろを見遣る穂刈たちに、獅子は舌打ちをする。


 ――あんまりぼんやりしていると、近くに鳥が留まってくれるの。


「ああ、クソッ」


 まさか、これほど器用に気配を消せるとは。

 ふた月近く、姫は従順だった。獅子を含め、紫苑一党の誰もが、姫自身が逃げるとは全く思っていなかったのだ。だからこそ、獅子もつい不用意に扉を開けたまま栗姫に近寄ったし、鍵を奪った姫を捕まえるのに、一瞬出遅れた。穂刈たちも、殺気や敵意のない子どもを探すための注意は、していなかったに違いない――してやられた。


「とりあえず出してくれ、追う!」

「あ、ああ」


 待ってろ、と、頭領が持っているはずの牢の合い鍵を取りに、穂刈が駆け出す。

 その背中を、獅子は忸怩じくじたる思いで見つめるしかできなかった。








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