撫子(なでしこ)
「昨日あげた布を、今とっても返してもらいたい気分」
翌日、昼餉の雑炊を姫の元に持っていくと、栗姫は鉄格子の中で盛大に苦虫を噛み潰した顔をした。
「何で。一度渡したもん取り返そうとするのは大人げなくないか」
「また返すから。あと二日ちょうだい。もっと手の込んだものにする」
「綺麗な織りだっただろ。気に入ってるんだけど」
「獅子がくれた帯布が細かすぎるから言ってるのよ!」
栗姫はわ、と手元の布に顔を埋めた。先ほど、昼餉と同時に渡した、獅子が織った帯布だ。
朱色と桃色の糸を使って、空色の地に
「そりゃあ、所詮、私の手遊びに近いものだもの、職人には及ばないけれど、せめて、もうちょっとくらい」
「いいって。毎日牢屋の掃除も大変だろ、手拭いにでも使ってください」
「できるわけないでしょう!」
もお、と悔しそうに栗姫は唇を噛んで、御簾の中に引っ込んだ。しばらくそこでごそごそしていたかと思うと、
その腰に、獅子の織った帯を巻いていた。
「柄が合わないから上は脱いじゃった。ほら、腰で撫子が揺れるのが綺麗」
水色の帯が軽やかに体の前に垂らされ、その端で、朱桃の撫子が躍っている。
皇宮を出る際、
獅子は思わず、口元を手で隠して視線を逸らした。
「やだ、照れてるの、獅子」
「……」
「答えないのは肯定ね。そうだわ、今度この格好で栗を拾いに行きましょう。皇宮には
「……確かに、その格好なら山歩きもできそうだな」
「でしょう!」
ここに来る時も、いっそ全部脱いでくれば良かったわね、と栗姫は笑った。
それはさすがに、仲間全員で止めただろう。一応人質とはいえ、自らついてきてくれた栗姫に、ぞんざいな扱いが許されるはずもない。できる範囲でとはいえ、獅子が栗姫のためにあれこれ用意することは全部、頭領もその他の者たちも、納得していることだった。
栗姫が帯を両手で
「獅子と一緒に山を駆けたのは、ここに連れてこられたときだけね」
この牢の中でも随分快適に過ごさせてもらっているけれど、と栗姫は言った。
「山では、険しいところは獅子が背負ってくれて、喉が渇けば水気の多い草花を採ってきてくれた。いっぱい山のことを教えてくれて、ずぅっと、手を、握ってくれてたわね」
「逃げられたら困るだろ、一応」
「眠るときも握ったままだった」
栗姫が、鉄格子の間から手を伸ばす。
白い手だ。それでもこのひと月半の生活で、少しずつ土で汚れ、艶をなくしている。爪先に、染め物をしたときの僅かな赤みが、まだ残っていた。
その手を思わず取りながら、獅子は、栗姫を皇宮から連れ出した夜を思い出す。
夜半も過ぎたというのに、栗姫は皇宮の庭の木々が生い茂ったところで一人、
――俺は、獅子という。
獅子が名乗ると、栗姫は目を丸くした。
――え?
――あんたの、名前は?
栗の実、と答える小さな桜色の唇を、獅子は星明かりの下でじっと見つめていた。
――いい名前だな。焼いて塩を振ると美味しい。
笑いながら差し出した獅子の手を、栗姫はそっと掴んで、獅子の腕の中に下りてきた。
事情を話せば二つ返事で頷いてくれた姫だったが、それでも一応、行き先が分からないようにいくつか山を迂回して戻った。そのため、このアジトに帰り着くまでには三日を要した。最低限の食事はしたが、それでも皇宮で育った姫には飢えや渇きが厳しかっただろう。途中、木の洞や小さな岩窟で、仲間たちと交代で睡眠をとったが、獅子は、栗姫の隣で繋いだ手を離さないまま目を閉じた。握った姫の手は、夜露が気にならないほど温かかった。
「俺が見張り役なんだから、夜も逃げないように握るだろ」
「そうね。あのね獅子、私、山を自分で歩いたのは、あれが初めてだったのよ」
食事や水分の足しにと、
「握ってもらった手が温かくてね……木々の向こうに見える星々まで、あたたかいように見えた。ね、また、一緒に山に行きましょうね」
「……だから、あんたは人質なんだけど」
獅子が片手で痛む額を押さえるのに、栗姫は笑って手を繋いだまま、くるりとその場で回ってみせる。腰の帯がひらりと揺れる。
「ねえ獅子、獅子の髪みたいな色なら、この帯がとっても似合うと思わない?」
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