四年前


 あれは、あの山崩れが起きる、前の年の秋だった。


 まだ紫苑党などという名もなく、ただの田舎山に住む狩猟民の一党だった獅子たちは、その日、大量の胡桃を採っていた。その年は木の実の実りが驚くほどよく、税に納める以上の収穫にみな沸き立っていた。木通あけびや団栗や猿梨さるなしは勿論、特にその年の胡桃は、大ぶりでずっしりと重たく、白茶けた殻の凹凸模様も美しい、まるで職人が手彫りした工芸品のような胡桃だった。


 山に必要な分は残しつつ、その日の狩りと採集担当だった男衆たちと一緒にぞろぞろと山裾を歩いていて、獅子たちはその一行と行き合った。


 見たこともないような、見事な車だった。

 黒塗りのながえには螺鈿細工が施され、屋形の棟には金の細工が飾られている。色とりどりの菊に紅葉の差しかかる彩色の袖、すだれの下から覗く下簾には、秋草の文様があった。

 竜車だ。

 一目でそうと分かる壮麗さだった。車の周囲には多くの随身が付き従い、山沿いの一本道を塞いでいる。竜車の後ろにはもう一つ、銀糸で花紋が彩られた房付きの車があり、そちらの物見の窓からは、お付きの女房が奥の誰かと話をしているのが見えた。


 山の斜面から木々の間にそれらを見つけた獅子たちは、このまま、下の道に下りることはせず、山の中を通って行き違ってしまおう、と話した。本来ならば頭を下げて通過を待つべきだが、あちらがこちらに気付いている様子はない。先触れの声もないのだから、このまま気付かなかったふりをしようと、獅子たちが歩き出した、その時だった。太い声がかかった。


「そこの者ども、止まれ!」


 随分と高圧的な声だった。まるで、夜盗でも見つけたかのような。

 確かに不敬をしかけてはいたが、向こうは、直前までこちらが見えていなかったはずだった。一体何を見咎めたのかと、獅子が眉を顰めていると、その太い声の主は「下りてこい!」と再び高いところにでもいるような声で言ってきた。


 声の主は、どうやらこの地方の税の監視官のようだった。

 税の監視官は、その地を領有する地方豪族ではなく都から派遣されてくる。豪族たちが税を誤魔化して横領しないようにするためだが、実質のところ、この監視官が懐を肥やす場合も多かった。恐らくはこいつもその質だと、監視官の前まで下りてきた獅子は考えた。衣服は官位として定められているものだったが、靴がやたらに豪華だった。馬に乗って、どうやら皇王の先導をしていたらしいが、それだって本来ならばこの地の豪族が行うはずで、無理矢理案内役を奪ったのだろうと察しがついた。


 獅子たちが身構えながら頭を垂れると、その監視官は随分得意げな声で言った。


「そなたら、その胡桃は税ではなかろう。ここに皇王陛下が居られる。実に見事な胡桃、特別に献上を許す」


 は、と。

 思わず、息が漏れそうになった。

 なんだこの男。

 言葉の意味を知らないのだろうか。

 何故こちらが請われているにも拘わらず、許可を得るような話になっているのかと獅子はきつく地面を睨んだ。そもそも獅子たちは承諾していない。この胡桃は確実に高値がつくし、冬への備えの足しにもなれば、体の弱い者への滋養にもなろう。


 足の悪い母のことを思った。胡桃で良くなる、なんてことはないが、帰ってこれを見せれば、きっと喜ぶと思った。夏は少し食欲が落ちてもいたから、他の果物や木の実と一緒に、いいものをいっぱい、食べてくれれば。


 獅子の斜め前で叩頭していた朱雀と穂刈が、ぎゅ、と拳を握り締めている。このまま黙るような朱雀たちではないが、どう答えればこの無礼な男をやり込められるか――そう考えていたとき、不意に、沈黙する竜車の後ろでざわめきが起こった。


 銀糸の花柄で覆われた車の簾から、撫子色の袿を引きずった少女が、外に転がり出てきたのだ。


 歳は十かそこら――獅子とあまり変わりないように見えた。大きな瞳をぱちぱちと瞬き、長い栗色の髪を左右の耳の前で束ねている。細く小さな両手は胸の前に掲げ、何かを抱えるような格好で、こちらを見た。


「姫様!」


 車の中から慌てた女房の声が聞こえた。追いかけようとしたのか、車の中ががたついたのを振り切るように、少女は両手を掲げたままこちらに走ってくる。そうして、ぺたん、と獅子たちの前で、裾の汚れるのも厭わずに地面に膝をついた。

 少女は、にっこりと微笑んだ。


「ありがとう、お礼に団栗を差し上げます。これを、この胡桃の分と思って、どうぞ受け取って?」


 少女の手の中には、艶めいた団栗が五、六個、太陽を浴びて、ころんと転がっていた。

 美しい団栗だった。

 割れたところも欠けたところもない、しかし今にもはちきれそうに実は太く、中身のよく詰まっていそうなしっかりとした椎の実だった。団栗の中でも甘みが強く、生でも食べられる実だ。その実からは太陽をいっぱいに含んだ、甘い芳香が漂っているように思えた。


 騒ぎについ、顔を上げてその手を凝視していたからか。

 朱雀たちの斜め後ろにいた獅子の目と、少女の目が合った。

 少女はぱ、と顔を明るくし、ずりずりとやはり土汚れを気にすることなく膝で獅子の近くまでにじり寄って、


「ね?」


 その団栗を、獅子の手にしっかりと握らせる。


「く、栗姫様!」


 悲鳴のような狼狽した声を発したのは、あの監視官だった。


「姫様が下賜されるなど、この者たちには過ぎたものでございます!」

「そう? 皇宮の庭に落ちていた実なの。今年の実はすっごく綺麗で、この胡桃にちょうど良いと思うのだけど」


 馬を慌てて下りて叩頭しながら冷や汗を掻く監視官は、この事態をどうおさめたら良いのか分からないのだろう、姫の言葉に、二の句も告げられずにおろおろと狼狽うろたえていた。それはそうだろう。皇女自ら車を下りてきて姿を見せたばかりか、いくら皇女の下賜といえ、皇王への献上品にと推された品の返礼が庭で拾った団栗数個だ。この取引を成立させてしまうと、下手をすれば皇王に対して不敬になりかねないが、だからといって、皇女をいさめても、皇族の不興を買う可能性があった。


 例えばここで、皇女に意見できる者、お付きの女房か、もしくは皇王その人が皇女をたしなめて取引を取り消させれば。または、幼い皇女の的外れなお礼に感じ入った形で、獅子たちが自ら胡桃を献上すれば。


 それを目論んで、先ほどから監視官はちらちらと獅子たちを見ている。皇王の手前、自身は皇女の行為をあまり持ち上げる発言をしたくないから、獅子たちが動くのを待っているのだ。お付きの女房はようやく車から下りてきていたが、姫の突拍子もない行動にどう対処したら良いのか分からない様子で、その場で右往左往している。


「父上」


 と、姫は、周囲の混乱などまるで存在しないかのように、沈黙し続けている竜車を振り向いた。

 獅子たちははっとする。皇女に向けていた視線を再び地に戻し、皇王陛下が乗る竜車に向けて、深く頭を下げる。


「こたびの行幸みゆきに同行をお許し下さったお礼です。姫から胡桃を、、献上させて下さいませ」

「――胡桃、一つか?」


 竜車から響いた深い声に、獅子は、視線を地面に貼り付けたまま、目を見開いた。


「はい」


 深く頷いた姫の返事に、なるほどな、と竜車から静かな嘆息が聞こえる。そして、どうだと獅子たちに問いかけた。


「姫の団栗は、胡桃一つ分に、値するか」


 はい、と即座に答えたのは、朱雀だった。


「麗しい団栗でございますれば」

「ならばその胡桃、一つだけ、もらい受けよう」


 その言葉に。

 誰よりも、獅子たちよりも、幼い姫が頬を紅潮させるほどに喜んで。

 満面の笑みで、獅子を振り返った。


「今朝、庭で採ってきたばかりなの。どうぞそのまま、生で食べてね」






 色づいた野山を駆け下りる。かし山毛欅ぶなくぬぎ、楓、桜、竹、山黄櫨やまはぜ、銀杏。地面というより、木の幹や枝を借り、低木の茂みを迂回することなくその上を越えながら、獅子は一目散に斜面を駆けていた。


 ――都まで、一日もあれば辿り着く。


 勿論、獅子の足でならだが、紫苑党の拠点は、実は都とそう離れていなかった。だからこそ、皇女の誘拐などという作戦も実行できたのだ。栗姫は景色を覚えていると言った。ならば正確に辿れたとしても、迂回して三日もかかった道のりで、まして姫の足では、三日以上はかかるはずだった。


 ――いや、そもそも無事なのか。


 姫が、本当に正確に道を辿れるだろうか。辿れたとして、山の獣に襲われていないか。万一、皇后の手の者と山で鉢合わせていたら。蜂起した地方豪族や、紫苑党が取引をしている商人の中に、皇后一派の手の者が紛れていない保証はなく、獅子はずっと、それを警戒していた。


 可能性が頭を過ぎるたび、獅子は首を振って考えを取り払う。姫の方は穂刈たちが追っている。あの姫は、できると言ったことはできる。紫苑党の男衆たちを振り切るほど気配を消すのが上手いのだ。危険から身を隠すことは、得意なはず。


 それでも不安が何度も頭を掠めていくが、しかし今、獅子がやるべきことは別にあった。


「……見えた」


 藪椿を眼下に越えて、椚の太く伸びた枝に足をかけたところで獅子は身体を止める。

 山に囲まれながらも、彩葉の地では最も開けた盆地の中央。

 林や森を至るところに配しながらも、高床式に築いた朱塗りの広大な屋敷は、都の外れの山裾からでもよく見えた。


 ――皇宮。


 栗姫が自らついてきてくれたおかげで、ふた月前に忍び込んだ抜け道は、現在でも使えるはずだった。そこからここ一ヶ月の間、朱雀や穂刈たちに頼んで調べてもらった皇宮のうちの、ある一画を目指す。

 獅子は唇を噛んで、再び駆けだした。








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